魔王と勇者襲来②
――勇者の襲撃より二日前。
「――――っ!」
声にならない悲鳴をあげて飛び起きた。
暗闇に荒い息が響く。服は水を浴びたようにぐっしょりと重い。
寝慣れた寝台の感触、嗅ぎ慣れた空気。
今、自分が寝室にいる事をようやく理解して、アルは何とか呼吸を整える。
見た、また見てしまった。
剣を構えて迫り来る男。
“私”は魔力によるありとあらゆる攻撃で迎撃を試みる。
しかし襲撃者はそのことごとくを弾き、防ぎ、無効化し、距離を詰めてくる。
やがて、刃が首筋に当たり――
慌てて両手で首を抑える。
繋がってる。怪我もしてない。
そりゃあそうだ。だって夢だもん。
「ぅうううぅぅぅ……」
しかしあまりに現実感のあった光景と空気に、夢だと割り切ることができず、アルの身体はガタガタと震える。
これまで読んだ本の影響で不思議な夢や怖い夢を見ることはあったが、生き死にに関わるモノを見ることは一度もなかった。
――どうして今になって……。
* * *
おちついた午後。
平和な午後。
いつもどおりの午後。
きつね色の甘くて芳ばしいかおりを漂わせる焼き菓子。
とろけるような深いべっこう色をした紅茶にハチミツをひとすくい。
小さな円卓を挟んで、いつものお茶会。
普段はすまし顔でぐちぐちと口うるさいウルドも、この時間ばかりは表情をやわらかくして、とりとめのないおしゃべりをしてくれる。
――今年の春は暑いね。
――今日読んだ本ね、主人公の相棒のしゃべる犬がとてもかわいらしかったの。
――森はフクロオオカミが繁殖期に入っていますから、外に出る場合は気をつけてくださいね。
――んー、外に出ないから平気。
――せめて日光浴くらいしなさいな、アル。
――考えとく。
――私の買い出しについて来てもいいんですよ?
――うー、んー? んー……。
――まったく……。
ゆったりとした午後。
平穏な午後。
いつもどおりの午後――のはずだった。
アルの脳裏にはずっと夢の光景が引っかかっていた。
普段通りの生活を送れば、ウルドといつも通りのとりとめのない会話をすれば、ほとんどの夢がそうであるように泡沫のごとく消えてしまう、そんなそんな淡い期待は叶えられなかった。
「アル、どうかしましたか?」
アルが読んだ本の感想を話して、いつもの小言ともつかないやりとりをして、ふっと一息ついた頃、ウルドが訊ねた。
それは先日の状況によく似ていた。
「どうにも今朝から様子が思わしくありません。話題にもしたくなさそうでしたので、あえて触れませんでしたが……」
よく見ているなぁ、とアルは苦笑する。
確かに彼女の言う通り、夢の内容を極力意識しないようにしていた。普段であれば、あんなことをした、あんなものを見たと、内容に関係なく何もかもを信頼する従者へ打ち明けているというのに。
いい歳をして子供のような行為が、いまさら恥ずかしくなった?
ううん、違う。
自分でも理由はわからないが、言葉に、口にしたくなかったのだ。
なおも沈黙するアルへ、ウルドが続ける。
「アル、私はあなたの意思を極力尊重したいと思っています。あなたが抱えているものが何かをあずかり知ることはできません。ですが、話したくないと、話すべきではないと、自分で判断したのであれば無理に教えろとは言いません。ええ。しかし、あなたが耐えられないと、あるいは語ってもいいと思ったのならば遠慮せずに打ち明けてください。主の行動を見守るのも従者の務めですし――とか何とか考えていましたが、限界です。さっさと話しなさい」
ウルドがぐっと顔を近づける。
あっれぇ?
「主の意思を尊重するんじゃなかったっけ?」
「もちろん、尊重しますとも。しておりますとも。ですが、私が必要と判断したなら話は別です」
「横暴だ!」
「そんなことありませんとも。大体、アルの言うことに何でもかんでも頷いていたら、あなた、ひたすら怠けるに決まっているじゃありませんか。ただでさえ外にも出ない運動不足のひきこもりなのに」
例え思っていても従者が主に向けるべきではない言葉を顔面に叩きつけられ、アルは呻く。
あながち的外れではないので、反論もできない。
「それに――ずっとそんな表情では私が心配なのです」
つい、と細い指先がアルの額に触れた。
ひんやりとした感触が心地いい。微熱と一緒に、モヤモヤとした得体のしれない不安も吸い取られるような気がして、アルは力を抜く。
――その言い方はずるいなぁ……。
そろそろと重い口を開く。
思い出すだけでも背筋の寒くなる、恐ろしい夢を語る。
その間、ウルドの手はアルに添えられたままだった。
口にしてしまえば一瞬だった。
しばしの沈黙の後、ウルドが一言だけ告げた。
「アル、勇者が攻めてきます」
何の脈絡もなく唐突な言葉。
しかし、アルにはそれだけで腑に落ちたことがあった。
――ああ、あの夢の襲撃者は“勇者”だったのだ。
考えてみれば、魔王の攻撃を突破し、刃を突きつけるなど余人にできるものではない。
「魔王と勇者には、大なり小なり互いの存在を感知できる能力が備わっています。アルが見た夢はその影響でしょう」
私は魔王じゃない、そう言いかけて口を噤む。
幼い頃、ウルドに告げた言葉。
魔王になんてなりたくない。
それ以来、ウルドは主従の関係を崩しこそしなかったが、アルを“魔王”として扱うことも話題に上げることもなくなった。
しかしそれはあくまで、アルとウルドの関係だけなのだ。
魔王が生まれたのであれば当然、勇者も生まれている。この世界はそういう風にできている。そこにアルの気持ちや都合は関係ない。
自分を取り巻く世界がさらに広大なものの一部でしかない事実に、少女は愕然とする。
「すみません、アル。私の落ち度です」
予想していなかった言葉に顔を上げると、普段平静な表情を崩さないウルドが眉根を寄せている。
「私の見通しが甘かったようです。まったく。…………これではあの人に顔向けできません…………」
まったく、という口癖のようなため息の後に彼女が何かを呟いたけれど、それはあまりに幽かな独り言で聞き取ることはできなかった。
ウルドはアルの額に触れたままだった指を離し、椅子に掛けなおす。
名残惜しくはあったけれど、気を取りなおして従者へ問いかける。
「……どういうことなの?」
「魔王は誕生の際に大きな魔力の変動を引き起こすのです」
「?」
返答の意図を理解できず、アルは首を傾げた。
魔力。世界を満たす神様の
「人間たちのほとんどは魔力を魔族や精霊の力の源だと考えています。もちろんそれ自体は間違いではありませんが、生命の根源という方が正しいでしょう。
また、魔力が濃ければ濃いほど気候は温暖になり、薄くなれば寒気に見舞われる。一年を通して濃淡は推移し、これが四季となる。
「世界に満ちた魔力の移り変わりは一定で、季節がずれ込むことはありません。春は春の時期に、夏は夏の時期に。本来、春先なのに暑いなんてありえないのですよ」
「つまり、魔王が生まれる時の影響が今起こってる、ってコト?」
「そうなります」
「私が“魔王”を放棄したから別の魔王が生まれた?」
もしかしてと思った質問に、ウルドは頭を振る。
「“魔王”は称号ではありません。手放したり譲渡したりできるようなものではないのです。百年に一度生まれる“魔王”と呼ばれる
自分が百年単位の特別なモノだと言われて、胸やけを起こしたように
――好きでなったわけでも望んだわけでもない。
ウルド曰く、
「この気候の異変を察知した時点で人間は“勇者”を探し始めているはずです。“魔王”と同時に“勇者”も誕生する。それは彼らも伝承として受け継いでいます」
遅かれ早かれ、勇者の襲来は確定的というわけだ。
「…………結局、あれは正夢だったんだ…………」
絶望的な状況に、アルは宙を仰ぐ。
「そうとは限りませんよ」
「え?」
視線を戻すと、ウルドの穏やかな瞳とぶつかった。
「聞いた限り、夢の内容と現状とは
ウルドは指を立てる。
「勇者は成人した男性だったのですね?」
「うん」
ウルドの問いに、アルは記憶を掘り起こしつつ頷く。
夢の中の勇者は、大柄の男性だった。ウルド以外の人間を(正確には彼女は魔族だが)目にしたことのないアルに正確な年齢の判断はできないが、顔だちからウルドよりも外見の年齢は上に見えた。小説の挿絵などを参考にして考えるならば、二十代後半から三十前半くらいかしら、とアルは予想する。
「今代の勇者はまだ十六歳です」
ウルドが断言したことに一瞬首を傾げたが、すぐにその理由に思い当たる。
魔王と勇者はほぼ同時に生まれる。多少の前後はあるだろうが、勇者はアルと同じ十六のはずだ。
「まあ、今代の勇者がとんでもなく老け顔だという可能性はあるわけですが」
「それは、ちょっとヤだな……」
「もっとも決定的なのはアルの方です」
「どうして?」
夢の説明でアルは自身についてほとんどを語っていない。語ることがなかったという方が正しいか。なにせ自分自身なのだ。襲われている最中に自分のことを冷静に観察するのは難しい。
「どうしてって……あなた、魔力使えないじゃありませんか」
「あ」
ウルドが呆れたとばかりにため息をつく。
そう言えばそうだ。
アルは魔王なのに魔力が使えない。使い方を知らない。魔族である以上、その身体は魔力によって構成されている。だから魔力自体を持ち合わせていないわけではない(はずだ)。
だが幼少より人間のように育てられたために、その運用方法を知らず、また不自由のない生活だったために使用を試みる気にすらならなかったのだった。
おまけに本人のあずかり知らぬ事ではあるが、実は体力も膂力も同年代の人間女性と比べて大きく下回っている。
「つまり、アレは予知じゃ、ない?」
「勇者を感知したことによる影響でしょう。無意識化の警告、あるいは過去の魔王たちの
ようやくアルの瞳に光が灯る。
ウルドは軽く頷くと「対策を立てましょう」と状況の整理のため、説明を再開した。
「先ほども言いましたが、勇者はアルと同じ十六歳前後です。本来であれば人間たちは幼少の勇者を保護し、魔王への決戦に向け教育と訓練を施しますが、発見した時点で充分に成長しているのでその必要がなくなります。そして、伝承の通りならば魔王は生まれたばかり」
魔力変動が起こったのは先日からのため、人間たちは魔王が誕生したのもつい最近だと考えてるわけだ。
「彼らはここぞとばかりに勇者を派遣するでしょうね」
「王様に召喚され魔王討伐を命じられる勇者……物語の定番中の定番ね。ただ本を読んでるだけの時はどうとも思わなかったけれど、いざ当事者となると理不尽にもほどがあるわ」
アルは生まれて十六年間この城から出たことのない、正真正銘の箱入りだ。それがいきなり命を狙われるなんてたちの悪い冗談としか思えない。
「魔王も同じくらい育っているとは考えないもの?」
「誰しも最悪中の最悪を想定することは愉快ではありません。より悪い予測を立てることに際限はなく、ならば多少の楽観が混じるのは仕方のない事でしょう」
続いて「万が一、魔王がある程度育っていたとしても倒せる、と考えられるほど勇者への信頼が厚いのかもしれませんが」という言葉を聞いて、そんなものを押しつけられる勇者へほんの少し同情を抱いた。
まあ、本当に少しだけ。むしろそれくらい強いヤツに命を狙われる事実に心底うんざりだ。
――ああ、本当にヤダ。
「で、勇者サマはどれくらいで来ると思う?」
「人間たちの組織が勇者の捜索にどれほど時間をかけるかによりますが、二十日もかからないでしょう」
あまり時間がない。むしろ短い。
「こればかりは勇者がなかなか見つからないことを願うしかありませんね」
「でも、成長してるからって『じゃあ行ってきて』って、なるかな? 一応、魔族の本拠地だよ。……私とウルドしか住んでないけど」
「勇者が拒否でもしなければそうなるでしょう」
「そのぉ、修行みたいなものは?」
「その必要がないのが勇者なのですよ」
「うわ、最悪」
「……あなたも似たようなものなのですけどね」
ウルドなら鋼鉄を粘土細工のように捻じ曲げ(以前怒られた時、見せしめに私を模した鉄像が蝶々結びにされた)、小山を一つ吹き飛ばす魔法を使える(怒られた時、見せしめに近所の丘が消滅した)が、アルにそんな力はない。
今腰掛けている椅子を数歩持ち運ぶだけでも息が上がるし、魔法なんて使えない。
本当に私、魔王なのかな?
いいや、そんなことよりも今は勇者だ。
「勇者を見つけて、鍛える必要はないとしても、王様のところ? から出発してそんなに時間ってかからないの? この城を探す必要だってあるでしょ」
「
「は?」
信じられない発言に、頭が真っ白になる。
「人間たちの地図に。さすがに市販に出回っているようなものには載せていないでしょうが、権力者の所有している地図には載っているはずです」
「……え? は? なんで?」
「そりゃあ魔王と勇者の争いは何千年も前から続いていますからね。人間側が場所を記していてもおかしくはないでしょう」
いやちょっとまて。
「
「はい」
「一度も?」
「少なくとも
「バカなのおぉぉぉぉぉッ!?」
思わず叫んでしまった。
勢いで円卓を叩いたが、アルの非力さではペチンと情けない音をたてただけでピクリとも動かない。
生まれて初めての絶叫で酸欠を起こしたのか、目の前がくらくらする。
「それ、わかってて、今まで、住んでた、ての?」
悪びれる様子もなく頷くウルド。
よくこれまで無事だったな。城が空っぽだと思い込んだ人間が、空き巣に来てもおかしくなかったんじゃないか。
「魔物が生息する森を抜ける必要がありますから、“腕に自信がある”程度の人間であれば辿り着くことすらできないでしょうよ」
それに、とメガネの位置を正しつつ一拍置き――
「私がおりますから。アルに危険が迫ることなどあり得ません」
とても凛々しく、優しい顔で微笑まれた。
格好いい。
とても。
でも、見方を変えるとすごく頭悪そうだよ、ウルド。
「まあ、相手が勇者となると私でも多分無理なんですけど」
「ほらあぁぁ、もおおぉぉぉぉっ!」
「いい歳の娘が、頭を抱えて地団駄踏むなんてはしたないですよ」
「誰の、せいだと! そんなことよりっ、さっさと引っ越し準備!」
こんな危険な所はさっさと放棄!
場所が知られているというなら、むしろここは囮になる。もっと森の奥、人間たちの住む世界から離れた場所なら、うまくいけばそのまま雲隠れできるんじゃないか。
「残念ながら、魔王と勇者は互いに存在を感知できるようになっています。それほど強いものではないので、今のように離れていれば関係ありませんが、それでもいずれ見つかるのは時間の問題です」
クラッ、と目の前が暗くなりかけた。
拳を握って耐える。
「それに、アル、野宿はできますか?」
「……え?」
「アルと私だけでは持ち出せる物資の量は限られています。代わりの住居の当てもないため、どれだけ森をさまようことになるのか予想もつきません。当然、その間ずっと最低限雨風をしのげる状況で、地べたで睡眠をとり、食料は現地調達。私は問題ありませんが、アルは大丈夫ですか?」
……。
…………。
……………………。
「……………………むり」
二日で倒れて病気になって死ぬ未来しか見えない。
ちくしょう、目の前がにじんできた。
わたし、なにかわるいことした?
ずっとこのままウルドといっしょに暮らすだけでよかったのに。
「大丈夫ですよ、アル」
いつの間にかウルドが席を離れ、傍に立っていた。
「私に、いい考えがあります」
…………ウルド、
どや顔で「いい考え」って、不安しかないよ。
他に方法がなさそうだったから言わなかったけれど。
アルたちはさっそく対勇者への準備を始める、が――
勇者がやってきたのはこの二日後だった。
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