第弐 思い馳せる背は。




「なぁ行信ゆきみち、つくづくこの人の日記って精細に書かれているよな」



 書倉の中で床に胡座をした状態で雅相まさすけが声をかければ、行信は静かにこくりと頷いた。


 路で話していた斉経なりつね保紀やすのりはそれぞれに他に用向きがあるそうで、二人と別れた後である現在は菅原家の書倉で雅相と行信はとある書に読みふけっていた。



「でもこれね、最後の二月分の部分が全くないんだ。ぽっかり空いたみたいに」


「へえ、この日記の著者菅原倖人すがわらのゆきひとにも倦怠期とやらがあったんだな」


「うん……」



 若干腑に落ちないと言いたげな顔つきで頷く行信だが、雅相はそれを見逃さず「何が言いたい?」と書で行信を小突く。



「元服した頃からその日あったことを毎日簡潔に日記に書いてるのに、許嫁の人が逝去してからご先祖様が亡くなるまでの二月分がないって言うのが変だなって思って」


「んー……まぁ好いた許嫁だったんじゃないの?それで落ち込んで日記も付けるのやめたとか」


「うーん、そんなに繊細な人なら私のご先祖さまの今の噂と人物像が合わないよ」



「確かに」と行信の唸りに雅相は首をもたげる。

 菅原倖人とは――――凡そ百年前に生きたとされる行信の先祖にあたる人だ。


 齢十七でこの世を去ったが、彼の遺した逸話は数多くあり様々な伝説が今もなお残されている。

 数刻前に斉経と保紀が言い合う話題にしていたかの傑物の人物である。


 中でも最も有名なのが、『御三家を一夜にしてたった一人で壊滅状態にまで追い込んだ』という逸話だ。

 そのせいで菅原家は*天子様を激怒させ、大宰府への左遷……実質流刑扱いとなった。と言われている。


 すでに当時を知る者が居ないため、先人たちの日記や当時の陰陽寮おんみょうりょうでの記録でしか知りえないことであった。



「はぁ……ご先祖さまの日記を見て行けば行くほど、全く噂と真逆に感じてくるや」


「冷徹・非情・無情・残虐・無慈悲・邪の術に通ずる者・神通力を操る者・百鬼夜行の長・鬼の長。だったか?もはや創作みたいだな」


「ははは、実際は几帳面で繊細で字が綺麗な人」



 ぷはっと二人同時に腹を抱えて声を上げて笑い転げる。

 巷で囁かれている菅原倖人と菅原家に乱雑に放置されていた倖人の日記での彼の人物像が余りにもかけ離れすぎているせいだ。


 巷で囁かれている人物像だけで想像してみれば……あなや恐ろしい人相のそれはもう鬼さながらの顔を想像してしまうが、日記の方も組み込んで想像してみると、鬼の面相で美しい筆さばきで達筆で流麗な字を書いていることを想像してもはやしっちゃかめっちゃである。


 一頻り笑った雅相が目元を拭えば、日記を手で軽く叩いた。



「どこだっけ?倖人が壊滅にまで追い込んだ御三家って」


「確か言い伝えでは、安倍あべ蘆屋あしや菅原すがわらだったと思うよ。許嫁の*忌明けの時って聞いた」


「うーんそこも謎だなぁ」



 雅相が膝の上に頬杖をついて倖人の日記を片手で雑にめくって行く。

 調べれば調べるほどにまるで深みに嵌っていく気分で、行信には悪いが退屈な刻には打って付けな謎解きだ。


 行信はご先祖さまの悪い噂を払拭して、菅原家の再興を目論んでいるらしいが……果たしてあと何年掛かるのやらか。


 ふと、雅相の頭に百年前という字が浮かんだかと思うと――――とある人物の顔が浮かんだ。

 これまた菅原倖人同様に逸話を多く残す、ほとんど自邸に留まらずに長ーい散歩をする人物だ。



「……じっさま」


「どうしたの雅相?」


「そうだ、じっさまも噂では百年は生きてるって聞いた事ある。……なんで今まで気づかなかったんだ」



 あぁ!と行信が声を上げて賛同すれば、雅相は倖人の日記を何冊か手に取るとおもむろに懐に仕舞いだした。


 慌てて行信が「何する気なの!」と叫ぶが、雅相は取られまいと立ち上がって襲いかかってくる行信をひらりと避ける。



「これをじっさまが帰ってきたら見せようと思う!もしじっさまが百年生きてるのが本当なら何か反応するはずだ。なかったら嘘ってことになる。本当ならこの人物について何か聞けるかもしれないぞ!!喜べ!」


「で、でも陰陽頭様は何時お戻りになるか分からないじゃない!日記は状態が悪いから、いつ紐が切れてもおかしくないんだよ!!」


「ならこの書を今から安倍邸あべのやしきにいる誰かに頼んでじっさまに届けてもらうのはどうだ?誰かしら居場所知ってるだろうし」



 にししと悪戯っぽく笑う雅相に「もっと駄目!」と食ってかかる行信。

 しかしあえなく再び躱されると、雅相は急いで身支度を整えて祖父へ倖人の書を差し向けるため帰路を急いだ。




 ――――菅原邸すがわらのやしきから大路へ走り、安倍邸へと到着すれば、何やら邸内が慌ただしくなっていた。

 邸にいるのは基本的に式ばかりで、後は父の北の方と供くらいだ。


 この刻ならば日も暮れてかけているため北の方の買い出しも終わって慌ただしいのもうなずける。

 ……が、そんなに和気藹々とした類の雰囲気ではなかった。



「なんだろう……この刻に来客か?」


「雅相、今帰ってきたのだね」



 不安に感じながら渡殿を見回していると、背後から人の声が。

 その声は久しぶりに聞いた紛うことなき探し人の声だった。


 雅相が勢いよく振り返れば、やはりと言わんばかりに祖父が穏やかな表情でそこに立っていたのだ。


 烏帽子から流れる藤色の長い髪を緩く元結で一つに結び、反射する光を全て吸い込んだような塗り潰された黒色の瞳を雅相に向けていた。

 見た目で判断すれば、雅相の兄か父だと言われても相違ない若いかんばせであった。


 しかし藤色の髪を持つ人は恐らく祖父だけだろう。孫の雅相でさえ黒髪である。



「じっさま!もうお戻りだったんですね!!実はお話が」


「済まない雅相、これからまた出立せねばならないんだ」



 飛びつかんばかりに祖父に話を持ち掛けたが、どうやら祖父は一時帰宅をしただけのようだった。

 あまりこういった事は珍しいが、安倍家を取りまとめる立場の人間ならばこういう事もある。


 ……そう己に言い聞かせても、雅相の顔はどんどん沈んでいき、顔を俯けさせた。

 そこに祖父の細くて陶器のように白い手が頭に乗ったのを感じて、上目遣いで見上げてみる。



「話ならば帰って聞こう。急ぎならば書に認めて式に託しなさい」


「あ……はい」


「御総代、そう言ってやるな。雅相も寂しい思いをしているのだろう」


「あっ炎縳えんてん!」



 祖父と雅相の話に割って入ってきたのは、雅相が炎縳と呼んだ浅黒い肌に深紅の髪を逆立てた紅い二本の角を持つ祖父よりも長身の祖父の式の鬼であった。


 炎縳は屋根の上からひらりと降りてくると、手近な柱に寄りかかる。

 話を振られた祖父は少し困ったと言いたげに眉を下げるが、浅く息を出すと雅相の髪を優しく撫でた。



「……支度が終わるまでまだ時間がある。少しだけでいいのなら話を聞こう。どうしたんだい?」


「あっあのさじっさま!実は見てもらいたいものがあるんだ。斜め読み程度いいから!」



 不思議そうに首を傾げる祖父に向けて、雅相は菅原家から借りてきた(許可はない)数冊の古ぼけた日記を手渡した。

 それを受け取った祖父がパラパラと書を素早く捲っていく。


 その読んでいる間の表情の、一切ピクリとも動かない能面さは凄まじい。


 そうして読み終えれば、祖父はしばらく黙って手に持つ書を見下ろして……書の表紙を撫でた。



「これを一体何処で?」


「えっと行信が今住んでいる菅原旧家だよ」


「そうか」


「中身はなんだった?」


「……後ほど話す」



 何故か祖父と炎縳が書の表題を見て難しげな顔になってしまい、雅相にとっては思いの外想定外の出来事になってしまった。

 どっちとも取れそうな曖昧な態度、これでは判別できる訳が無い。


 内心困惑する雅相だが、それでも行信に結果を伝えると約束(一方的な)したため、どうしても聞かなければならなかった。



「ねぇじっさま!一つ聞きたいことがあるんだ」


「なんだい」


「あっあの……その、じっさまは噂通り本当に百年生きてきた人なの?」



 若干の抵抗を感じつつも、雅相は真に迫る気迫で祖父を見つめる。

 しかし当の祖父は目をぱちくりとさせて、ふといつもの穏やかな表情に戻ってしまった。



「お前の目に、私はどう映るのかな」


「え?」


「いや、雅相は今は年幾つだい」


「拾と四つだけど。僕の年関係ある?」



 しかし雅相の問に応えてはくれず、祖父はただ「そうか」とだけ囁いて目を細める。


 はぐらかされた気分で心の中がもやもやする雅相は顔をしかめてさらに聞こうとしたが、祖父の出立の支度が整ったと言う式の呼ぶ声に思わず口を噤んで出かかった言葉を飲み込んだ。



「雅相、私が戻り次第菅原の子息殿も混じえ、私の事・お前たちの事について話をしよう。菅原の子息殿にそうお伝えしておきなさい。いいね?」


「は、はい」


「いくぞ、御総代」


「嗚呼分かった」



 静観していた炎縳が踵を返したことで促され、祖父はこくりと頷くと古ぼけた書を雅助へ「きちんと返しておきなさい」と言葉を付け足して返す。


 思わずぎくりとする雅相だが、曖昧な笑みをして勿論とだけ言ってぎゅっと書を握る手に力を入れてしまう。


 祖父の背を見送りながら、祖父が言っていた『祖父のこと・自分たちのこと』の話が何かについて不安と期待が心に募り出していく。


(なんだろう。僕と行信のことって)


 ぼーっと藤色の髪が動きに合わせなびく様を眺めていると、髪が突如くるりと反転して祖父の白い狩衣へと変わってしまう。



「雅相」


「あ、は、はい」


「夜廻の道中はくれぐれも気を引き締めて行いなさい」


「!!はい!」



 まさかの祖父からの激励に思わず雅相の声が上ずってしまう。

 今の今までこうして気にかけて貰えるような言葉を掛けてもらったことがなくて驚きで興奮しているのだ。


 バクバクと大きく脈打つ心の臓が普通は煩わしいと思うことなのに、今は全く気にならない。むしろ嬉しさで満たされていた。


 雅相は初めて夜の帳が早く降りないかと待ち遠しくなり、夜廻に出掛ける支度を早めにし始めた。

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