「トカゲとトラブル」
美しい満月が浮かぶ深夜。豪奢な雰囲気が漂う広々とした一室でカリナ・フリードは眉間にしわを寄せて、歯ぎしりをしていた。
「あああ、アイナのくせに!」
その場にいない姉に対して憎悪を吐いた。理由は二つある。
一つは国王の息子であるレイニス・アレスティアを懇意の仲である事。
眉目秀麗、才色兼備、竹を割ったように快活な性格。そして、次期国王という将来が約束された存在だ。
裏では彼を巡って少女達の熾烈な争いが起こっているのだ。
それほどまでに彼はこの国の若い少女達にとって憧れの存在である。
「きっと体を使って誘惑したに違いないわ。なんの才能も木偶の坊に一国の王子が振り向くはずなんてありえませんもの」
カリナは傲慢にもそう自分に言い聞かせた。
二つ目は自分の動きに対応できないはずの彼女が即座に対応していた事である。
数日前、模擬戦でアイナを完膚無きまで叩きのめした時とは違い、確かに動きに反応したのだ。
カリナは幼い頃から、双子の姉であるアイナよりも優秀だった。
勉学も剣術も礼儀作法。どれをとっても姉を超えていた。
故に父は自身を深く愛し、反対に出来損ないのアイナには実の娘とは思えないほどの冷遇を強いて来たのだ。
いつだって自分が一番だった。しかし今、地位が微かに揺らいでいる感覚を覚えたのだ。
「おお、おかえり!アイナ!」
玄関の方から父の方からが聞こえた。どうやら姉が騎士団の訓練から帰ってきたようだ。
「どうやら最近、殿下と知り合ったらしいじゃないか!」
「えっ、はい。最近、レイニス殿下とは交流を持たせて頂いています」
カリナが部屋から降りて、父とアイナを物陰から覗き見る。
「そうかそうか、さすが我が娘だ」
少し前までアイナに対して廃棄物を見るような目を向けていた父。
しかし、今は手首がねじ切れんばかりの手の平返しの対応をしていた。
おそらく王族との関係を持ちたいのだろう。そしてあわよくばアイナをくっつけさせて、王族にさせるつもりだろう。
そうすれば確かに身内である父やカリナも王族になる。しかし、それはカリナのプライドが許さない。
常に出来損ないの姉より上に立つ。それこそが彼女の信条であり、生きる上で重要な事である。
「こうなったら、やるしかないわね」
親指の爪を噛みながら、悪女は静かに笑みを浮かべた。全ては自身の栄光を盤石の物へと変えるために。
晴れ渡る空の下、竜吾は木の上でアイナの特訓風景を眺めていた。
鎧を纏った男達に混じって訓練に励んでいるその姿はいつ見ても素晴らしい。
最初はあまりの過酷さに息が上がっていたが、重ねるごとに体が慣れていったのだ。
「お嬢ちゃん。やるじゃねえか!」
「まだまだ。こんなもんじゃありませんよ!」
剣の素振りや筋肉を鍛えた後は模擬戦である。アイナの相手は勿論、騎士団長アーノルドである。
「今日こそ取りますよ!」
「来い!」
アイナが剣を握りしめて、アーノルドの元へ走って行く。頑丈な木刀同士がぶつかり合い、激しい音が周囲に響き渡る。
「なかなか、いい動きだ!」
「まだ行きますよ!」
僅かだがアーノルドの動きに対応できるようになっている。これまでの訓練の日々が着実に出ているのだ。
「やあ!」
アイナの一振りがアーノルドの方を掠めた。予想外だったのか、騎士団長の目がカッと見開かれていた。
「悪くない」
アーノルドがニヤリと口角を上げた。勢いよく地面を蹴り、一瞬でアイナの間合いに入り込んだ。あまりの速度に彼女は対応することが出来なかった。
木刀の先端が顎下に突きつけられた。これ以上抵抗するなら突くという事だろう。
「参りました」
アイナはため息を付いて、手を上げた。完敗。彼女の脳裏にはその言葉が過ぎった。
「本当に上達したね。以前の君なら私の頬に傷をつけることすらままならない程、だった」
結果的に負けてしまったが、あの騎士団長の頰を掠めるほどに成長したのだ。
それだけでも十分な結果である。
竜吾は彼女の元に歩み寄り、静かに肩に乗った。
『凄いね。頬をかすめるなんて』
「ありがとう」
「アイナ!」
彼女の耳に爽やかな声が聞こえた。振り返ると、そこには金髪王子ことレイニス・アレスティアがいた。
「殿下!」
『おっ、イケメン王子』
「レイニスでいいよ。おや、こんにちは。小さなお友達」
レイニスがにこやかに笑った。それ同時にアーノルドを含めた騎士団の面々が一斉に敬礼を始めた。
「おはようございます。殿下!」
「おはよう、みんな!」
「それで殿下は何故、ここにいらしたのですか?」
「お昼頃、時間空いているかな?」
「ええ、今回の訓練は午前のみなので」
「よかったら食事に行かないか。従者達に言ってもノッてくれなくてさ」
「わっ、私でよければご一緒させて頂きます」
「そうか!ありがとう」
レイニスが太陽のように温かい笑みを浮かべた。青春だなあ。
竜吾はそんなことを思いながら、ほんのり頰の赤いアイナに生暖かい目を向けていた。
訓練から一時間後、清楚な服装を着飾ったアイナと共に待ち合わせの場所に着くと、アイナが仕切りに髪型を気にし始めた。
こういう仕草を見ると彼女が剣士である以前の一人の年頃の少女であるという事を思い出させた。
「りゅ、竜吾。髪乱れてないかな? 粗相はなさそう」
『大丈夫だよ。似合っているよ』
「ねっ、ねえ本当にそばにいないつもり。きっと殿下は気にしないよ」
アイナが竜吾にそばにいるように懇願してきた。緊張のあまり誰かがいないと不安なのだ。
しかし、竜吾もここは心を鬼にして、彼女の頑張りを見守る事にした。
元の世界では竜吾は男女間の甘酸っぱい経験はなかったが、多少の憧れはあった。ましてや親しい人間がそのような状況に足を踏み入れているなら、背中を教えあげたくなるのは必然というものである。
『殿下が気にしなくても僕は気になるんだよ。二人だけで話したい事ももしかしたらあるかもしれない。大丈夫。僕は遠巻きから見ているから』
「アイナ!」
聞き覚えのある声が背中に当たった。どうやらご本人がお越しになったようだ。
『じゃ!』
竜吾は目にも留まらぬ速さでアイナから降りた。
「待ったかい?」
「いいえ! 私もさっき、着いたばかりなので」
「では行こうか」
竜吾は仲良く街中を進んでいく二人も見つめていた。
二人の若い男女を見つめる悪意と嫉妬に満ちた眼差しに気づかずに。
竜吾は建物の塀や屋根を渡りながら、二人の動向を追っていた。二人は洒落た雰囲気が漂う飲食店に向かった。
周囲の人々は殿下とレイニスとアイナを見て、嫉妬や羨望が入り混じったようななんとも言えぬ表情を浮かべていた。
日頃から彼らはアイナに侮蔑の目を向けていたのだ。これくらいの
店内ではなく、店で買って持ち帰って食べる類のものだった。二人はクレープらしき食べ物を購入すると、近くのベンチに腰掛けた。
「中々、美味しいな! 街の外ではあまり買い物をしないから分からなかったよ」
「私も街にはあまり行かなかったので、知りませんでしたよ」
竜吾は二人の若者の仲睦まじい光景を見守っていた。
「アイナはすごいね。剣術にあそこまで熱心に取り組めるなんてさ」
「いいえ。昔から取り柄と言ったらあれくらいしかないので、それでも妹のカリナに劣ってしまいますけど」
「それでも十分にすごいよ。毎日懸命に努力できる人間は」
「そっ、そうですか。ありがとうございます」
アイナが顔を斜め下に向けた。おそらく照れ隠しだろう。
《ルビを入力…》それでも照れを隠しきれないせいか、食べ物を早々と口の中に入れてしまった
「すみません殿下。御手洗に行ってまいります」
顔を伏せたまま、スタスタと街の公衆便所の方に足を進めて行った。
「おや、君は」
「お久しぶりです。殿下。カリナ・フリードと申します」
カリナが両手でスカートの端を持ち、恭しく頭を下げた。
「姉様が何やら急いだご様子で家を飛び出して行ったので、何事かと思いまして、まさか殿下にお付き添いなさっているとは知りませんでした」
「ああ、あまり街には歩かないものでね。公務が済んだからついでにと思ってね」
レイニスが朗らかに笑いかけた。しかし、竜吾は内心、不安感に駆られていた。
実姉を陥れるような妹だ。一体、何を仕掛けてくるか分かったものではない。
「最近、姉様とよくお話をされるそうですね」
「ああ、面白い人だよ。彼女は」
「もしかしたら、姉様に好意を持たれているのですか?」
突然、カリナがどストレートな質問をぶち込んできた。
「どうだろうね。恋というしたことがないから、僕自身もこの感情を確かめてために彼女とともにいる感じだね。でも彼女のそばにいると胸が温かくなるんだ。恋という感情がこれねらならきっとそういうことなんだろうな」
レイニスが気の抜けるような甘い声で呟いた。彼自身も不確定なのだ。
だから心の中で蠢く感情に答えを出すためにアイナを誘い出したのだ。
「姉様はずっと私達の先祖であるアレフ・フリードを目指して、日夜剣術に励んでいます」
「ああ、かつて聖竜メノールと共に世界を救った英雄か」
「ええ、ですが姉様はあまり器用な方ではありません。昔から一つの事にしか目が向かないのです。しかし、剣の才能も秀でたものではありません。仮に交際したとしても貴方様を愛してくれるか分かりませんわ」
「ねえ、殿下。それでも想い続ける事が出来るのですか?」
カリナが上目遣いで王子の手にそっと手を置いた。
竜吾はカリナに吐き気を催すような不快感を覚えた。彼女はそんな軽薄な人間はない。
その事実の脳天に叩きこんでやろうとした時、レイニスが口を開いた。
「それでも構わない。僕は彼女のそういうまっすぐなところに惹かれたんだよ。王国騎士団の特訓は非常に過酷だ。余程の心の強さがないと耐える事が出来ないはずなんだ」
レイニスがつらつらとアイナの事を語り始めた。
「彼女の剣に対する熱意。訓練の際に揺れる海のように青い髪。何より剣を振っている時の彼女は何物よりも輝いていていたよ」
竜吾は視界が潤んでいくのが分かった。短期間でここまで自身が敬愛する人物に理解者が出来たことが嬉しかったのだ。
「そうですか。では」
カリナがレイニスに重ねた手をどけて、席を立った。踵を返そうとした瞬間、背筋が凍りつきそうなほど冷たい目をしていたのが見えた。
「殿下! 遅れて申し訳在りません」
アイナが慌てふためいた様子でレイニスの元へやってきた。
「ああ、構わないよ。さっき、君の妹と少し話していたから退屈しなかったよ」
「そっ、そうですか。カリナったら」
アイナがぎこちない笑みを浮かべた。どうやらカリナがきていた事は知らなかったらしい。
「では行きましょうか」
アイナがレイニスと共にゆっくりと足を進めていった。竜吾は本人のいない中で思わぬトラブルが起こったと肝を冷やした。
もう一度、アイナの後ろ姿をよく見ると耳がほんのりと赤くなっているのが見えた。竜吾はクスリと笑った。
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