焔の舞姫

藤宮彩貴/富士見L文庫

一章 こじか

「また油をこぼしたのかい、こじか。館で使う油は安くないんだよ」


 こじかは、脇殿そばに建つ蔵の前でへたり込み、使用人頭のアケノに叱られていた。

 ぐいっと、髪をつかまれて顔を覗き込まれた。額に皺を寄せつつ、アケノはひどく怒っている。

 なのに、アケノの背後にある真っ青な空と白い雲の対比に、こじかは心を奪われた。


 痛いほどに強い陽射しが照りつけてくる。まぶしくて思わず目を細めた。空を泳ぐように浮かんでいる雲がゆっくりと動いている。汗なのか湿気なのか、まとわりつくような熱気を振り払いたくなるほど蒸し暑いものの、雨が降りそうな気配はない。

 淡海国司が住んでいる、館の屋根は陽を受けて輝き、建物は大きな影をくっきりと落としている。夏の午下がりはまだ長い。


「ちょっとあんた、聞いてんのかい? 今日は都からお客があって、特に忙しいのに」


 耳もとで叫ばれてこじかは我に返った。急いで謝る。


「ご、ごめんなさい。ぼんやりしていました」


 夏の広い空に見とれてしまいました、とは言えない。


「やれやれ、親なし子の面倒を見てやっている身にもなっておくれ」


 つかまれていた髪から、急にアケノの手が放れた。再び、こじかは地に伏せた。細かい砂や土が、顔に張りついた。ざらざらして気持ち悪いけれど、拭うことができない。


 淡海うみに流れ込んでいる、川の上を渡る風が、わずかに頬を撫でてくれた。庭のほうから刈り取られた草の匂いがする。館の見映えを少しでもよくするために、伸びてしまった雑草をいっせいに引っこ抜いているせいだ。せわしないセミの鳴き声は、こびりつくように耳奥まで届く。


 大きな湖を有する、淡海国。湖の、南のほとりには、役所を中心とする国庁が建っている。碁盤目状に大路小路が整備され、小さいけれども都に似ているらしい。

 国庁をいったん抜ければ田が広がっている、豊かな水と緑に囲まれた土地だという評判だった。



 油が入っていた甕が転がり、あたりに油がこぼれ落ちていた。砂地の上に、どろっとした液体が浮かんで光っている。


 小柄な身をますます縮め、こじかは地面に額をこすりつけるようにしながら、アケノに対してひたすらひれ伏した。

 顔や髪、衣が汚れてしまっても、気にしなかった。単衣など、着たきりの襤褸である。もとは、藍色の麻布だったのに日に焼けて、さらに何度も水にさらしたため、ぼけたように色褪せている。


 鏡を見たことがない。自分の姿は盥の水に映るとき、たまに見かけるぐらい。痩せているとしか感じない。

 だから、つけられた名が『こじか』。脚の細い、赤ちゃん仔鹿。十四歳になるけれど、いまだにこじか。ほんとうの名前もあったようだが、誰も覚えていやしない。


 こじかの身体で、もっとも目立つのが、両脚にくくりつけられた枷のごとき重い砂袋。母が亡くなり、国司に任じられていた父が館から去ったとき、脚に砂袋をつけられて育った。奴婢ではないが、軽々と動けない。


「申し訳ありません」


 もう一度、こじかは謝った。その潔い態度さえも、アケノには気に入らない。


「謝って済むなら、はじめから怒ったりしないさ。まったく、あんたってやつは、おのれの立場を分かっているのかい。心が広くておやさしい今の国司さまは、身寄りのないあんたを、館に置いて使ってくださっているんだから。父母に捨てられた、親なし子の小汚いこじかをね」


 端女はしためたちを仕切っている中年女のアケノは、特にこじかを目の敵にしていた。太った身体を左右に揺らしながら声を張り上げ、こじかのささいな失敗に対してもしつこく小言を繰る。


 歳は四十手前のアケノ。長いこと国司館で働く女たちをまとめ、絞り上げてきたのでアケノに反論できる端女はいない。館で働く官人たちも避けて通るほど、存在感がある。


 ここで言い返そうものならば、アケノの説教はもっと長くなる。おとなしくするのが吉。下働き暮らしの長いこじかは悟っていた。


「はい。じゅうぶん知っています」


「だったら、すぐに代わりの油を届けるんだ。今日は、都から高貴なお客さまがおいでになる。ちらと垣間見たけど、お若いのに随身を多く引き連れて、たいそうご立派なご様子だったよ」


 自慢気に語っているものの、アケノは仕事をさぼって、お客人を見物に行ったのだ。


「そろそろ日が暮れるというのに、灯りがひとつもなかったら、宴もできやしない。どんな鄙かと思われるじゃないか。ここは、淡海国おうみのくにの国府だよ。山城にある都から急いで歩けば、たったの一日しかかからない、大国なんだからね」


「はい」


 こじかはますます頭を地にこすりつける。健気なふうを装いながらも、実はこじかは顔をしかめて奥歯を喰いしばり、アケノに反抗していた。


 意地悪なアケノ、大嫌い。あんた、けちだし、威張るから。館のみんなに嫌われているよ。知らないのはあんただけだ。

 心の中でそう唱えると、少しだけ胸がすっとした。


 数日前から、館はあわただしかった。にわかに、都の使者が来るという一報が入り、準備に追われていた。地方役人を繰り返している現国司よりも、はるかに身分の高い頭中将とうのちゅうじょうが使者だったので、これは相当な知らせだろうと、館全体に緊張が高まった。


 頭中将とは、帝の側近である蔵人所の長官を指す『蔵人頭くろうどのとう』と、近衛府の中将という、文武を兼ね備えた花形である。主に、良家の若者が任命される官職で、淡海を訪れる頭中将なる人物も右大臣の嫡男。いずれは、位人臣を極めると噂されているようだ。


「分かったら、早いとこ動くんだ。新しい油を運べ。庭の篝火は、昼間のように明るくしたいそうだから、いい油がたくさん要る。脇殿の局からも、油をほしいと頼まれている。ぐずぐしていたら、このあたしが叱られるじゃないか」


 つまり、アケノはこじかに当たり散らしているだけだった。


「ものぐさをして、いっぺんに運ぶんじゃないよ!」


 もちろん、こじかは丁寧に運んでいた。良質な油は貴重で高価。ふだん館では、主である国司の居室以外はほとんど使わない。


 こじかは、油が、火が怖かった。炎を見ると、あの日の記憶がよみがえる。父と館を焼くために、母がつけたという火のことを。

 油は、匂いさえも苦手なので、鼻と口もとを布で覆って頭の後ろで結んでいた。ふと、強めの風が吹いて布が飛んで行ってしまった瞬間に気が緩み、小石につまずいて転んでしまったのだ。言い訳はしない。悪いのは自分。


 落ちている油甕をかかえ直す。中はカラだが甕そのものがずっしりとして重い。脚を引きずるようにして静かによろよろと歩きはじめたところ、こじかの先輩端女であるタツミが、蔵の前まで駆けてきて告げた。あちこち探し回ったようで、はあはあと息が切れている。


「こんなところにいたのか。ねえ、アケノ。国司さまが、こじかをお呼びだそうだよ」


「こじかを? なにかの間違いではないのかい」


 振り返ったこじかに、アケノとタツミの視線が集まった。



 こじかは、館の中へ連れて行かされた。こぼした油の始末をタツミに押しつけてしまったので、仕事に戻ったらしつこく厭味を言われるのかと思うだけで気が重い。

 脇殿の土間に、盥の水が用意してあった。


「さあ、脚を洗うんだよ。ぼけっとしてないで、早くしな」


 アケノがこじかをせき立てる。こじかは言われるがまま、あわてて砂袋をおさえながら汚れた両脚を濯ぐ。水は、ひんやり冷たくて心地よいのに、砂袋が妨げとなってうまく洗えない。濡れると、さらに重くなるので厄介でしかない。


 ふと、こじかが見上げると、アケノと官人が小声で話していた。どうやら、砂袋を取れと命じられているようだった。アケノの顔は渋い。


「仕方ないな。そいつは預かっておこう。でもいいかい、くれぐれも跳び回るんじゃないよ。みなが腰を抜かしてしまう。あんたは人が五歩で進むところを、一歩で跳んでしまうんだから」


 強引に、アケノはこじかを座らせた。意見は許されない。


「あっちを向いて目を閉じな。袋の外し方は内緒だよ。ま、紐の結び目は難しいし固いから、簡単には外せないけどね」


 砂袋が外される。久々に軽くなった脚もとに、こじかはよろこんだ。砂袋を取ってみようと数回は試してみたが、一度も外せなかった。

 跳んでしまいそうになる脚をおさえるのが、難しい。躍りそうになる心をおさえ、こじかは脚を洗い直した。


 寝るときにも外せない砂袋のせいで、足首には痣のような痕がついているが、気にしない。ためしに、数歩だけ歩いてみた。足首に、羽が生えたかのように、軽い。もう一歩、と踏み込んだところ、アケノにぎろりと睨まれて踏みとどまった。


「これに着替えるように」


 館の官人より、見るからに高価そうな上着と帯を差し出された。黙って受け取ったものの、腕をどのように通せばよいのかさえ分からない。帯の結び方も知らない。きれいな緋色だなと見とれてしまうだけだ。


「ああもう、じれったい子だね。貸しな」


 こじかの様子を見かねたアケノが、こじかの身体に帯を使って上着をぎゅうぎゅうとくくりつける。苦しいが、黙っておく。


「あとは髪でも梳かしたら、いくらか見られる形になるよ」


「そんな暇はない。着替えさせただけでもありがたく思え。ご使者さまがお待ちだ、さあ歩け」


 こじかを急かそうとする官人に、アケノは食い下がる。


「ちょっとだけ待ちな。ほら、顔を」


 アケノは自分の袖で、ほこりっぽいこじかの顔をごしごしと拭いた。頬が突っ張る。痛かったけれど、こじかはひたすら我慢した。

 ついでに、軽く髪を結ってくれた。肩にかかるほどの長さなので、うっとうしくならないよう、首の後ろでひとつにまとめ、紐できゅっとくくる。


「ありがとう。行ってきます」


「すぐ戻ってきな。仕事の残りが、たんまりとあるんだ」


 こじかはアケノと別れ、国司館の奥へと進んでゆく。脇殿の渡殿から正殿に入る。こじかは、はじめて脚を踏み入れる場所だった。


 いくつもの間があり、広くて、でもほんの少し肌寒く感じるのは、ひんやりと冷たい床のせいなのか。それとも緊張? 目新しくて、つい視線を動かしてしてしまう。

 床板がまっすぐで、平らなことに驚いた。しかも、四隅に至るまで磨かれたように光っている。塵ひとつ落ちていない。柱が太くて立派。天井も高くて屋内なのに明るい。香を焚いているようで、あたりには花のようなかぐわしい匂いが満ちている。こじかが起居している、端女の曹司とはえらい違いだった。なにしろ、あちらは床が波打っていて、虫も湧くし、じめじめしていて、人が多くて落ち着かない。


 すれ違う官人が、横目でこじかを窺う。

 棒きれに近い体型の自分が、いつになくめかし込んでいるので、さぞかし奇妙に映っているに違いない。肩を縮こませ、俯いて歩くようにした。


 案内の官人が、立ち止まった。


「こちらだ。国司さまのおことばがあるまで、頭は下げたままでいろ」


「は、はい。でも、国司さまって、私になんの用ですか。ご使者さまって?」


 おそるおそる、こじかは聞いてみた。こわい。仕事はいやだが、早く戻りたい。

 まさか、日ごろの働きがよくなくて、叱られる? 館を追い出される?

 おっほんと、咳払いをした官人は淡々と答えた。


「お前は知らなくてよいことだ。とにかく、失礼のないように。むだなことは、いっさいしゃべるな」


 こじかはぶるっと全身を震わせ、しきりに頷いた。



 国司館正殿の大広間には、人が大勢集まっていた。こじかが入ると、いっせいに目という目がこじかに向かった。


 黒い装束を身にまとった、身分の高そうな男性がずらりと並んでいる。たまに見かける国司の姿もある。ふだんはやたらとえばっているのに、下座で小さく丸まっていた。部屋の奥、一段高い場所には御簾が下りており、誰かがいる気配があるけれど、こじかの通された場所からは遠くて、窺い知れない。


 指示されたように、こじかは座って頭を下げた。これ以上見ていたら怒られる。


「これが前国司の娘にございます。母が死んだあと、館で働くようになりまして。ほら、頭を上げろ」


 そう言われても、この衆人環視。ひとりで向き合う勇気は、なかなか出てこない。こじかがためらっていると、御簾の中より装束の滑る音がした。するすると、心地よい、絹の音。


 誰かが、出てきた。


 こじかの身体はますます固くなった。こじかの前で立ち止まった貴人の、着ている衣からは、よい香りがする。咲き誇る百花のごとき。


「そのままでよい。わたしは頭中将と言います。あなたに会いたくて、都から参りました。こんにちは、かわいい人」


 涼やかな若い声。耳に心地よい。都の人など、熊のように怖ろしい人かと想像していたので、この声の主が噂のご使者さまなのだと思うと、緊張がほどけてきた。


「こんにちは」


 ゆっくりと、こじかは頭を上げた。


 すぐ目の前に、驚くほど整った顔があった。黒い装束に、冠をかぶった青年が座っている。目が合うと、ほほ笑んでくれた。春の野に咲く花のごとき愛嬌があふれている。こんなにうつくしい人を見たことがない。都の人はみな、こんなにきれいな顔なのだろうか。あるいは、会ったことのない父も。こじかもつられて笑顔になった。


「こじか! 頭中将さまに対して笑いかけるなど、無礼だぞ」


 国司が叫んだ。


「よいのだ、淡海国司よ。しばらく、許しておくれ。あなたは、『こじか』というのかな」


「はい。館では、そう呼ばれています」


「珍しい名前ですね。でも、愛らしい名。歳はいくつになりますか」


 そう言うと、頭中将という青年はまた明るく笑いかけてくれる。だいじょうぶだ、もう怖くない。こじかは安心した。


「十四です」


「ここは堅苦しいゆえ、庭に出ませんか。外で話をしましょう、ふたりで」


 頭中将はこじかの手を取り、しっかりと握った。働きづめであかぎれて、ひび割れてがさついた、粗末な手を。頭中将の手は指一本一本、指先の爪までみごとに白い。日に焼けていないし、しみのひとつもない。短く切り揃えられた爪も、貝のようにつややかでうつくしい。


 こじかは貴公子とともに、廂へ出た。こじかはもちろん、誰も想像していなかった展開になり、館は困惑した雰囲気に包まれている。響くのは嘆息のみ。


 引かれる手を気にするあまり、こじかは着慣れない衣を踏みつけてしまい、手を離した。そのまま、床の上にころりと転んだ。砂袋のない今だ、跳べばよかったけれど、力を使うなと言われている手前、自然にまかせて転ぶしかない。頭中将も手を差し伸べたが、間に合わなかった。


「だいじょうぶですか、こじかさま」


 転んで痛いとか恥ずかしいことよりも、『こじかさま』と呼ばれたことにこじかは驚いた。こじかさま。そんなふうに言われたのは初めてだった。


「おかしいです、『こじかさま』なんて。どうか、こじかと呼んでください」


「では、こじか。痛いところはないですか」


「はい、だいじょうぶです」


「わたしがもっと早く、支えてあげればよかった。申し訳ありません」


 しかも、このうつくしい青年は、こじかを心から心配してくれている。


「い、いいえ! とうの……ちゅうじょうさまこそ、一緒に転ばなくてよかったです」


「この次は、お手を離さないで。転んだらすぐに抱き止めます。もしや、着ている衣の裾を踏んでしまいましたか」


「慣れていませんので。これ」


 こじかは着ている衣を指差した。


「なるほど、借り物でしたか。若いあなたの装束にしては、色も文様も年寄りじみているし、おかしいなと感じたのですよ。都から、いくつかおみやげを持って参りましたので、その中からあなたに布を差し上げましょう」


「そんな、受け取れません。私には、もったいないです」


「かわいいこじかには、うつくしい布が似合いますよ、きっと」


 都人とは、お世辞もうまいものらしい。きらびやかなことばを聞き、思わずうっとりしてしまう。


 庭へ出るため、頭中将は当然のように沓を履く。革の沓だ。こじかに用意されている沓はもちろんない。ぺたぺたと裸足で地を歩くこじかに、頭中将は目を丸くした。


「痛くないのですか」


 こじかには、頭中将の意味することが理解できない。脚を縛る沓こそ、窮屈そうなのに。


「心地よいですよ。さすがに冬は寒いですが、この時季に沓を履くなんてもったいないです」


 装束の裾をたくしあげてこじかは答えた。やや浅黒い、細い棒のごとき脚が二本、まっすぐに伸びている。地面から生えているかのように。


「失礼ですが、足首は痣ですか? なにかに締めつけられたかの痕。あなたは、奴婢ではないと聞いていましたが」


「これは、その……私は動きが雑なので、重しのようなものをいつもは身につけています。御前では失礼に当たるかもしれませんし、今日は外してきました」


 こじかのつたない説明では納得できないだろうが、気をつかってくれたのか、軽く頷いた頭中将は深入りしてこなかった。


「よし、わたしもやってみよう。おもしろそうだ」


 履きかけた沓を蹴飛ばした頭中将は、袴をたくしあげて乾いて砂っぽい地面に立った。何度も土を踏みしめて感触を確かめている。


「なるほど、意外といいものだね。固いような、そうでもないような。ほどよくあたたかい。おもしろい。あなたに礼を述べなければ」


「いいえ。こんなこと、ふつうです」


 裸足で歩く頭中将を見た従者が、あわてている。その多くは、けがでもしたらどうする、という心配だった。


「よいよい、落ちている石や木の枝は避ける。慣れているこじかに先導してもらう。あちらの池のほとりまで行きましょう。このように歩くのは初めてです」


 頭中将はご機嫌の様子で、こじかの手を取った。


「あっちは、木の枝や小さな石もたくさん落ちていますので、気をつけて歩いてください、とうの、ちゅうじょうさま」


 土に慣れていない頭中将の足裏は、皮がやわらかくておそらく破れやすいだろう。こじかは駆け出したい気持ちをおさえ、そろそろと歩きだした。


「わたしは、タケルと言います」


 突然、頭中将は名乗った。


「頭中将は、わたしの官職名です。あなたの呼び名がこじかのように、わたしの名前はタケル。そう呼んでください」


「タケルさま。かしこまりました」


「いいえ、タケルです。『さま』は要りません」


 頭中将、いやタケルは言い直した。


「……タケ、ル?」


「そうです、こじか」


 ふたりは、庭の池のほとりに出た。昼の強い光を浴び、水面がまぶしいぐらいにきらきらと輝いている。池から吹いてくる風がいくらか涼しい。大きな日陰を作っている里桜の木の下に、ふたりは腰かけることにした。


「そうだ、これを」


 地面には短い草が生えているが土埃っぽく、高貴なタケルを座らせるにはふさわしくない。こじかは、ためらうことなく借り物の上着をぱっと脱いで広げ、下に敷いた。汚れないよう、気遣いをするこじかを見てタケルはほほ笑んだ。


「よいのですか」


「はい。それに、暑くて。このほうが私らしい」


 貸された衣を脱いでしまえば、その下は身軽な、しかしくたびれた単衣のみ。気楽な姿になったので、丁寧なことばもどこかへ飛んで行ってしまった。


「なるほど。猫をかぶっていたのですか」


「まあ、そんなところだ。私はただの下働き」


 こじかは笑った。外に出て装束を脱いだとたん、こじかは気分明るくなった。息を吸い込む。


「館の中にいるよりも、よい顔をしていますね。あなたは前国司の娘なのに、外の光がずっと似合う。……この桜、春にはさぞかし見事でしょうね」


 とんとん、とタケルは桜の幹をたたくようにして、撫でた。


「枝が折れてしまうのではないかと思うほど、花がたくさんつく。桜が咲くと、国司館では毎年、花見の宴をする。この夜ばかりは、近くの民も集まってそれはにぎやかに。散りぎわも潔くて、見事だよ。都にだって、これだけの桜はそうそうないはず。タケルにも見せたいぐらい」


 熱く語るこじかに、タケルは同意した。


「今日はね、あなたにお話があって都より参りました。都で、父上である前淡海国司が、あなたを待っています。わたしと一緒に参りませんか」


 都……父……待っている? まさか。


「都に?」


「聞けば、あなたは父上と親子の対面を果たしていないとのこと。親子の名乗りを上げ、裳着もぎのお式を執り行いましょう」


「裳着、とはなんだ?」


 袖の中で、こじかはぎゅっと拳を作って握り締めた。


「女子の成人式のことですよ」


「私はこじかのままでいい。おとなになんて、なりたくない。私は淡海にいる。都にも興味がない」


 考えてもいなかったことを次々と提案され、戸惑う。とにかく断る。手のひらに汗が浮いてきた。べたべたする。袖で拭いて、もう一度握り直す。指先がとても冷たい。


「ですが、いつまでもこのままというわけには、いきますまい」


「いや。ほんとうに、このままでいいんだ……私を見てくれ」


 こじかは跳んだ。


 高く、高く跳んだ。


 自分が異能の持ち主だということを見せ、驚かせるために。


 近くの大きな岩を蹴ってさらに跳び上がると、天に届くのではないかと思うほどの高さで、くるくるくるりと三回転。ふわりと落ちてくるこじかの姿は羽のごとく、まったく重みを感じさせない。大きな物音も立てなかった。


 続けて、桜の枝の間をたくみにすり抜ける。次第に、勢いを速めて木の幹を蹴り、樹上まで駆け上がる。


 タケルは息を吸うことも忘れたのように、唖然としていた。跳ね回る少女の動きを目で追うのがやっとの様子。こじかはタケルの驚く顔がおもしろくて、久しぶりの解放感にも包まれ、思わず笑みがこぼれた。


 そこからは、一気に降下する。

 池の水面をするすると滑るように飛び、軽く跳ねて桜の下に戻った。


「見たか? 都では、きっと気味悪がられる、これでは」


 こじかは辞退の意味を込めて丁寧に頭を下げた。諦めてくれるだろうか。

 しかし。


「なんとすばらしい。これは、理想の舞姫!」


 期待とは反対に、賛辞を得てしまったこじかは、戸惑った。一方で、タケルは手をたたいてよろこんでいる。


「まい、ひめ?」


「ええ。わたしは舞姫を捜しているのです。宮中で舞う、うつくしい姫君を。豊穣を祈り、疫病の流行を鎮めるため、神に届く舞姫の登場を帝が強く願っておられます。本年は我が右大臣家が、宮中の行事にて舞姫を出す役を仰せつかっています」


「私は姫などではない。こじかだ」


 自分の振る舞いにより、話が妙な方向に進んでしまったので、こじかは強く否定した。


「わたしの父に、あなたを養女にするよう進言します。そうすれば、こじかは前国司の娘ではなく、右大臣家の養女。姫と呼ぶにふさわしいですよ。休暇を願い出て、淡海まで来たかいがありました」


「いやだ。姫なんて。ただの、こじかでいい」


「心映えまで変える必要はありません。こじかはこじからしく振舞って構いませんよ。未来の妹、さあ」


 従者に囲まれたこじかは、自慢の跳びを見せるまでもなく、あっという間に取り押さえられ、正殿のさらに奥へと連れて行かれてしまった。こじかが知っている館の範囲は、ごく一部だった。行きたくもないのに、引きずられてゆく。



 強引に湯浴みをさせられ、髪をくしけずられ、先ほど貸し与えられた衣よりも、いっそう豪華なひと揃えを用意されている。


 いやがるこじかに装束を着付けているのは、正殿で暮らしている国司の妻付きの女房たち。いくら身軽なこじかでも、数人がかりでは身動きが取れない。


「苦しい。痛い。やめてくれ……じゃない、やめてください」


 女房のひとりに激しく睨まれたこじかは、ことばを言い直した。


「これは御命令です。そなたは、都へ連れて帰るに足る娘なのか、見極めるための」


 都になど、行きたくない。成人なんてしなくていい。自分と母を捨てた父になど、会いたくもない。ましてや、何とかの宮中行事のために、タケルの義妹……貴族の姫になるなんて。自分には関係ないのに。


「日焼けして乾燥した髪と肌、それに貧相な身体つきは残念ですけれど、意外と顔立ちは悪くないわね」


「小柄で愛らしいし」


「一応、前国司さまの娘ですものねえ」


 夏のさなかだというのに、こじかは新しい単衣の上に袴、濃淡のうつくしい紅の衵を数枚、さらに橘色の細長を重ねられている。都の姫君の正装束のようだが、重くて暑くてかなわない。じっとしていても汗が吹き出る。こんな厚着、女房たちはよく耐えているものだと感心してしまう。


 顔全体に白粉をはたかれて、こじかはむせ返った。唇には紅をさされた。はじめての化粧である。手鏡を渡されたが、そこには見たことがない自分がいた。


「この扮装、いつまで続ければいいんだ」


 滑稽でしかない。鏡に映っているのは、ただの作りもの、まがいもの。似合わないどころではない。吐き気がする。鹿の仔風情が姫君の真似なんて、おかしい。


「いいんだ、ではありません。よろしいのですか、ですよ」


 紅の入った貝細工を持っている女房が、こじかの喋り方を注意した。


「でも、タケル……とうのちゅうじょうさまは、私らしくあってよいと笑っていた」


「そなたみたいな粗野な者がいると、淡海国の評判が下がりますでしょう。国司さまは、今年で任期を迎えられます。来春、いっそうよきお役目に就くために、ぜひともこのたびの縁は逃がせません」


 じろりと睨まれ、こじかは怯んだ。


「それは、私が右大臣家に気に入られたら、国司さまにも恩恵があるってことか」


「あけすけな言い方ですが、その通り。そなたも、国司さまには育てていただいた恩があるはず。都へ出れば、運も開けよう」


 育ててもらった恩はない、端女が起居する狭い曹司に詰め込まれていただけ、などと言い出したら収拾がつかなくなるだろう。いわくつきのこの身を、館に置いて使ってもらったのは事実。渋々、こじかは受け入れた。


「この扇で顔を隠しなさい。貴族の姫君は、みだりに顔を晒しません」


 面倒だと感じたけれど、黙ってこれを受け取った。

 慣れなくて、どうにも手に余る。最後に持たされた扇を、せわしなく開いたり閉じたりして遊んでいたら、いいかげん静かにしなさいと、女房に耳をぎゅっとつねられた。


「いたた……」



 アケノも正殿の奥に呼び出され、砂袋をまた括りつけられてしまった。こじかよりも機敏に動ける者など、いない。逃げられては困るので、当然の措置だった。砂袋は、アケノにしかつけられない。本人のこじかですら、つけかたは知らなかった。

 ついでに、姫装束がまるで似合っていないと、失笑するアケノにさんざん、からかわれた。


 似合わないだけではない。この装束は重くて動きづらい。装束が枷そのもの。床をずるずると這うように進む布の様子が、こじかにはうつくしいと思えない。

 先ほどのように、衣の端を自分で踏まないこと。そればかりを考えて俯いて歩くので、ますます気分が沈んでくる。床の板目を見つめて歩く。


「お待たせいたしました、頭中将さま」


 こじかを先導する女房が、タケルに声をかけた。


 タケルは階にもたれて庭を眺めていた。別れてから一刻ばかりしか経過していないのに、ひどく懐かしく感じた。きれいな装束に着替えられたら、またタケルに会わせてもらえると教えてくれればよかったのに。そうしたら、おとなしく我慢できたのに。


「タケル!」


 手にしていた扇を放り投げ、こじかは気軽に声をかけた。女房たちが目を剥いて驚く。軽々しいと責めたいのだろう。だが、タケルもあまり意に介さないといったふうで、手を振ってこじかを迎えた。タケルは話が分かる。


「やあ、とても素敵ですね。都から持って来たかいがありました」


「この装束は、タケルが用意したのか」


「どうか、受け取ってください。姉はいますが末っ子なもので、誰かに装束を贈るのははじめてなのですよ」


 暑い、苦しい、などと言ってしまって申し訳なかった。うつくしい贈り物など、はじめてもらった。こじかは大切に着ることに決めた。


「ありがとう、うれしい。そういえば、タケルはいくつなのか、聞いていなかったな」


「十八です。幼いころ、病がちで元服が遅れ、出仕も二年前から。朝廷からは頭中将などという立派な官職をいただいてしまって。光栄ですが、恐縮ですね」


「決まった相手はいるのか? タケルに、妻はいるのか?」


 勢いでつい、聞いてしまったあとに図々しいのではないかと感じたが、遅かった。おそるおそる、タケルの顔を見上げると、そこには明るい笑顔があった。


「病弱のわたしを案じる両親が手放してくれませんので、いまだに里住まいを続けています。恋にも疎くて、お恥ずかしい限りですよ」


「そ、そうか」


 ひとり身だと聞いて、こじかは胸のつかえが下りた。しかも、恋が苦手。話題にするのさえ照れるらしく、タケルはこじかの頭を撫でてきた。


「髪さえ伸びれば、こじかは姫君そのものですね」


「いや。振る舞いが粗暴でよくないと、さっきから女房たちに叱られてばかりだ。正直なところ、姫の装束は窮屈で苦しいぞ」


 大きく口を開けて笑うこじかに、タケルもほほ笑んだ。こじかが放り出した扇を、そっと拾い上げながら。


「あなたは、型にはめられそうにありませんね。十一月の、豊明とよあかり節会せちえが終わるまで都にいてくだされば、そのあとはあなたの好きにしてよいのです。都に残るなら、わたしが面倒を見ましょう。淡海へ帰るというのなら、それで構わない」


「なんだ、たったの半年もないのか」


 半年の間だけ都にいて、宮中の行事に参加すればよいとのこと。こじかは少しずつ心が動いた。都を見てみたい。父に、母のことを聞きたい。謝ってほしい。

 国司に恩を売っておけば、館でも働きやすくなるはず。こじかの中に、わずかな欲がふつふつと沸き上がってきた。


「舞が終わったらすぐ、淡海のこじかに戻ってもいいのだな」


 こじかは念を押した。


「ええ。約束します、こじか。あなたの跳ぶ力は神も認めるでしょう。こじかしかいません。都には、おいしい食べ物もたくさんありますよ。うつくしい布も用意しましょう。市に行けば傀儡師や辻占師など、こじかのように不思議な力を持っている人もいます」


 タケルの目は澄んでいた。嘘は感じられない。生まれてから、淡海の館を一度も出たことがない。怖い。なのに、好奇が勝った。礼を述べて扇を受け取る。


「よし、行ってやってもよいぞ。その代わり、タケルは今のことばを忘れないでほしい。一度でいいから、おなかいっぱい食べてみたい」


「おお、ありがたい。これで我が家は安泰です。こじかのおなかが、はちきれそうになるまで、馳走しましょう」


 その夜は賑やかな酒宴となった。



 笛の音が響いている。


 音楽に、あまり触れたことがないこじかにも分かるほど、笛は冴え渡っている。吹いているのは、タケルに違いない。うっとりと聞き入ってしまい、次第に胸が高鳴って踊り出したくなった。


「それに比べて、琴と琵琶の下手なこと!」


 合奏の主は、国司とその妻だろうか。調子はずれで、どうにもみっともない。申し訳ないけれど、笑ってしまう。


 寝起きしていた使用人の曹司を離れ、こじかは館の奥で寝る準備をしていた。国司夫人の女房たちが起居する部屋の片隅。几帳をめぐらせ、畳を与えられ、よい香りのする寝具代わりの掛け衣もいただいた。明日は都へ向けて、朝早くに出発するという。


 成人前の娘ゆえ、こじかは宴に呼ばれなかったが、しばらくは眠れそうにない。

 幸か不幸か、都へ上ることになってしまった。こじかの中で、不安と好奇心がせめぎ合っているのに、タケルがいると思うだけで、不思議と気持ちが落ち着く。


「おい。こじか、いるのかい」


 がさがさと這う音がしたが、その声はアケノのものだった。


「どうして、ここへ?」


 近くに誰もいないのを確かめてから、こじかはアケノを寝所へ迎え入れた。ふだんならば、アケノ程度の身分の者が入ってよい場所ではない。しかし、忍んできたからにはそれなりの理由があるのだろう。


「急いでいるから、用件だけを言う。逃げな。荷はここにある。タツミが協力してくれている。官人に薬をかがせて北門を開かせた。そっちへ回るんだ」


「逃げる、って、なぜ」


 戸惑ったこじかは、まばたきを繰り返した。


「行きたくもない都へ行かされるんだろ? こっちも、お前がいなくなったら人手に困るんだ。なに、三日も里山に隠れていれば、連中は諦めて都へ帰るよ。そら、水と食いもの。こいつを持って早く館の外へ。夏でよかった。藪蚊に気をつけなよ、それに蛇」


 アケノは、こじかが無理やり都へ連れて行かされるものだと思い込んでいる。意地悪なくせに、心配してくれるなんて。こじかは胸が熱くなった。


「ありがとう、アケノ。でも、私は都へ行きたいの」


「なんだって。あのきれいな公達に惚れでもしたかい? こじかごときでは、身分違いもはなはだしい」


「いいえ。都へ行ってみたい。頭中将さまはおうつくしいけれど、惚れるなんてとんでもない。憧れるけどね」


「あんた、ばかだねえ」


 ふふん、とアケノは鼻で笑った。


「都なんて、いいところじゃないよ。飢えや病で野垂れ死んだ者が、大路の側溝に落ちているし、野犬はうろつく、盗賊も出る。お前みたいな子どもは、市で売り飛ばされるのがオチさ。とっとと山へお行き。お前に逃亡を勧めるあたしが、誰かに見つかったら、どうするんだい」


「心配してくれているのは、うれしい。でも、だいじょうぶ。舞姫が終わったら、帰ってもいいって言われたの。半年ぐらいで、淡海へ戻るよ」


「そんなの、口からでまかせさ。こじかが貴族の若君を信じるなんて、おかしいねえ」


 大きく笑いながら、肉厚のおなかをよじらせた。その様子に、こじかは苛立った。ふだんならば耐えられるのに、今日ばかりは許せない。


「私は選ばれたんだ。前の国司だった父に、母を捨てた文句を言ってやりたい。終わったら、きっと帰る。アケノ、おみやげはなにがいい? きれいな櫛とか、鏡?」


「ばか言うな!」


 こじかは不意に、頬を打たれた。不意のことに、壁際まで吹っ飛んでしまった。驚きと痛みのあまり、その場にうずくまる。


「あたしは、あんたの母……美良みらに、あんたの身を頼まれたんだよ! 都へなんて行かせるものか」


「美良? 美良っていう名前なの、私の母は」


 言い過ぎたという苦い顔をしていたが、アケノはひるまなかった。


「ああ、そうだよ。美良だ。覚えてないのかい。まあ、無理もないか。美良が死んだとき、あんたは五歳ほどだったからねえ」


 そこまで白状すると、アケノは薄笑いを浮かべた。


「美良は、北の高志こしのほうから来た一族だと言っていたが、ここらへんに住んでいるあたしたちとは違って、肌が白くて背が高くて、目も碧玉みたいな色をしていた。それはうつくしかったよ。鬼神に魅入られるんじゃないかと思うぐらいにね。あんたもきっと、ほんとうは透き通るような色白だろう」


 月の光で、自分の腕をまじまじと見てみる。いつも日に焼けて、埃や砂で汚れているので、肌が白いなんて感じたことはない。


「だから、守ってほしいと美良に頼まれたんだ。炊屋の隅にいるあたしには守るもなにも、できやしない。目の届く場所に、あんたを置いておくだけさ。美良にはね、対価を受け取っちまったんだ。ほら」


 アケノの手のひらの中には、宝玉がふんだんにちりばめられた首飾りがあった。碧、紅、緑。翡翠。柘榴石。水晶、銀金。白珠。


「美良がいた一族では、こういうものをよく使うそうだ。きれいだし、もらっておいたけど、あたしには用がなかった。第一、似合わない」


 自嘲を込めてアケノは笑ったが、こじかは笑えなかった。


「あんたと首飾りをあたしに預けた美良は、ひとりで火に飛び込んだ。こじかは、美良を追いかけたけど、すぐに戻ってきた。火事騒ぎのあとから、あんたはその脚でやたらと跳びはねるようになって。周りが驚くやら不吉がるやら、大変だった。だから跳ばないように、あたしは砂袋をくくりつけたんだ」


「これ、アケノが?」


 こじかは脚の砂袋を見た。自由を縛る枷を。


「そう。そして、髪もわざと短く切った。あんたの美を隠すことしかできなかった。こじか、あんたほんとうは、とてもうつくしいんだよ。男どもの目を惹かないように、わざとみすぼらしいなりを強いたのはあたしだ。きれいな装束を身につけて分かっただろ、あんたはやっぱり、美良と、都のお貴族さまの血をひいている」


「うつくしい? 私が。まさか」


 こじかは自分の頬に触れた。手入れしていないので、肌がざらざらする。うつくしいなんて思えない。


「いまだに気がついていないようだね。さっきは、見慣れなくて似合ってないと罵倒したけど、あと二年もすれば、誰もがあんたに夢中になるよ」


「そうは思えない。私は、ただの棒きれだ」


「いいんだよ。美なんて、周りが決めること。あんたはあんた。堂々としていればいい。さ、荷を受け取って逃げな」


 どうしても、アケノはこじかを逃がしたいらしかった。けれど、こじかは頭を下げた。


「ごめんなさい、アケノ。私、どうしても都に行きたい。都の父や、今の国司さまに利用されても」


 迷いはない。もう決めた。アケノはさみしそうに顔を曇らせた。


「ばかな子だよ。おとなたちに利用されるって承知で行くなんて。あたしのほうが、よっぽどこじかのことを考えているのに」


「そんなことはない。頭中将さまは、誠実なお方。信じられる」


 訴えるように言ったものの、アケノは鼻でせせら笑った。


「あんなの、家柄と見た目がいいっていうだけで、都でちやほやされて、女がわんさかいるだろうね。あんたなんか、数にも入らないよ」


 アケノの、両の眼が、異様に光っている。


「あたしよりも、今日会ったばかりの男を信じるのかい? とにかく、こじかは淡海にいないと、あたしが困るんだよ! ただ働きできるやつなんて、そうそうつかまえられないんだからさ。ほら、おとなしくしろ!」


 襲いかかってきたアケノは、持っていた紐でこじかを縛ろうとしてきた。


「やめて、アケノ。お願いだから」


 砂袋が重くて、とっさに動けない。ここで騒ぎを起こしたら自分はもちろん、アケノにも国司にも迷惑がかかる。こじかの抗う心が薄れてゆく。都へは行きたい。しかし、アケノの気持ちも分かる。


「うつくしい公達が迎えに来て、きれいな衣を着させられて、選ばれたんだって、のぼせあがってんじゃないよ!」


「違う。私は、心から都へ行きたいと思っている。この、おかしな脚の力が、舞姫には必要なんだって。ここ数年、稲は凶作。今年だって、いい出来じゃなかった。流行病も続いている。来年の豊作、それに健やかな世になるよう、祈りたいと帝が仰せなのだそうだ。そのために、神に届く舞が欲しいと」


「舞姫? 豊作? 健やかな世、だと?」


 こじかはアケノの顔をしっかりと見据えた。宴はまだ続いているようで、楽の音が遠くで響いている。


「人に嫌われてきた、この脚がようやく役に立つんだ。行きたい」


 不意に、砂袋の紐がゆるんだ。アケノがこじかを放した。


「……こじか。あんたって、どこまでも頑固で不憫な子だね。美良そっくりだよ。もう、知らない。早く寝ちまいな」


 ようやく理解してもらえたらしい。アケノの口調は静かになった。よかった。正直、やさしいアケノなんて気味が悪いし、怖い。毒づいて、蹴り飛ばすぐらいの勢いで送り出してほしい。


「はい。おやすみなさい、アケノ」


「せいぜい、よく寝るんだね。ああそうだ、手土産代わりというか、話のタネに。こじかって呼び名は、あたしがつけたのさ。美良はあんたのこと、『スミカ』って呼んでいた」


「すみか?」


 こじかは自分の名前を呼んでみた。まるで実感がない。


「スミカじゃ、きれい過ぎるだろ。ぴょんぴょん跳び回っているから、こじか。子ウサギでもよかったね。跳べる理由は知らない。美良ゆかりだろうけどさ。砂袋をつけるぐらいしかできなかったよ」


「ウサギなんて、あんまりだ」


 スミカとは、どんな字を書くのか。

 こじかは字が書けないし、読めもしない。明日、タケルに聞いてみよう。


 考えることがいろいろありすぎて、寝られそうにないと思ったのに、頭から衾をかぶるなり、こじかはことんと眠ってしまっていた。




 翌朝も、こじかは早起きしてしまった。夜が明ける前から、毎日働いていたせいだ。


 館の中は静かだった。昨夜、遅くまで宴を張っていたせいか。かすかに、穏やかな寝息がいくつか漏れ聞こえてくるだけで、しいんとしている。

 こじかは、誰にも見つからないように、割り当てられた部屋をそっと滑り出る。


 庭に出た。


 夏の朝は好き。今日も暑くなる予感しかないのに、なぜか心が浮き立つ。生きている証を、熱と、肌で感じられる。


 出立への準備があるならば、手伝いたい。ぼんやり待っているだけでは、つまらなくて身がもたない。なにも考えずに済むので、動いていたい。こじかは裸足、単衣に衵を一枚、裾をたくし上げて着ているだけ。


 朝は早いと聞いたのに、誰も働いていない。元気なのは蝉の鳴き声だけ。

 正殿を離れ、脇殿にある厨近くをふらふらしていると、タツミにつかまってしまった。


「ああ、もう。姫君さまが、こんなところに」


「姫って、誰のこと」


「自覚、ないのかい。仕方のない子だねえ。こじか、あんたは都で右大臣家の養女さまになるんだろう」


 養女。ああ、そんな話も出ていたかもしれない。舞姫のほうにばかり気を取られていた。


「それより、仕事はないのか。畑から朝餉の菜を取ってこようか、それとも」


「逃げる勇気もない姫君さまに、手伝っていただくお仕事はございませんわ。アケノに言われてゆうべはひと晩、外で待っていたのに来やしないし。せいぜい朝寝を貪っておきな。こんな薄着で、外に出たらだめだ。冷えるし、男たちに見られたらどうする」


「悪かった。でも、私は都へ行きたいんだ」


「ふうん、そうかい。ご勝手に、幸運な姫君さま」


 タツミは軽く笑いながら行ってしまった。


 逃げるつもりなど、はじめからない。それどころか、立ち向かおうとしているのに。


 こじかは、どうしてもアケノにもう一度会いたかった。

 さんざん意地悪をされてうんざりしていたのに、この気持ちはおさえられない。厨にもおらず、道すがらで出会った館の仕丁(下男)などにも訊ねたが、アケノの居場所は分からなかった。


 朝の陽が上りきるころ、タケルの乗る牛車が牽き出された。ようやく、人々の起き出す気配もある。出立にはまだ時間がかかりそうだ。


 面倒な身の上になってしまった。姿を人に見られたら噂になるし、堂々と歩けば咎めを受ける。男どもの好奇の目。女たちのひそひそ話。


 こじかにとっては、すべてが鬱陶しい。


 ああ、見るな。そんな目でこちらを見るな。見世物ではないのに。


「わたしの支度を手伝ってくれませんか、こじか」


 笑いながら話しかけてくれたのは、タケルだった。客間から続く廂の柱に、もたれかかりながら立っている。単衣に袴の、しどけない姿。


「庭で、あなたが怒りながら歩き回るのを見るのも一興でしたが、そろそろ悪趣味に思えましたので」


「私などの世話でいいのか」


「はい。わたしは、あなたの手による世話を望んでいます。さあ、こちらへ」


 手を握り締められ、こじかは戸惑う。義理とはいえ、兄となるかもしれない人。恥ずかしくて、振りほどくこともできない。こじかはおとなしく客間へと入った。


 しかし、身の回りの世話は、タケルの従者がさっさと終わらせてしまっている。貴人の身支度など勝手が分からないので、したくてもできないことに改めて気がつく。


 朝餉を一緒にいただく。タケルも、はじめからそのつもりだったようだ。


「役に立たなくて、すまない」


「これからですよ、こじかが活躍するのは。まずは都の暮らしに慣れてもらわねば。わたしがずっとついているわけにはいかないので、我が邸の女房たちに任せることになるでしょう」


 頭を下げたこじかだが、にわかには信じられない。


「我が邸とは、タケルの邸か? 私は、実の父のところへ引き取られるのではないのか」


「残念ですが、節会の日が迫っています。あなたの父君に任せていては、間に合わないかもしれませんし、舞姫の件はわたしが引き受けたこと。こじかを紹介してもらっただけで、助かりました」


 父の生活が、困窮しているのだという。

 国司館を含む、国庁全体が火災に遭ったことで、父はその責任を負った。再建にかかる費用をすべて負担した。しかし、新しい国への辞令は下りなかった。淡海国司の任期を終えてのち十年近く、散位(無職)のまま留め置かされている。


「舞姫の支度には費用がかかります。あなただけではない。舞姫は、童女や女房を大勢連れて宮中へ上がります。帝や東宮も御覧になりますし、そちらも着飾らせる必要があります。最近では、舞姫を出したがる貴族は少ないんですよ。そもそも、高貴な女性は外に出ませんので」


「聞いたことはあるが、ほんとうなのか。姫は歩かないのか? 走ったりも?」


 ここは大事なところ。こじかは前のめりになって訊いた。


「しませんが、働きますよ。邸で、裁縫、染めもの、香作り。歌や楽を学び、子を育て、邸を守っています」


「それは困る。私は外を跳ねたい。都へ行ったら、いろいろなものを見て回りたい」


「都見物へは誘います。舞がうまくいくよう、祈願しに行きましょう」


「それは、楽しそうだが……」


 こじかは愕然とした。半年とはいえ、自由に外を出歩くこともできないなんて。


「だいじょうぶ。無理は強いません。あなたには、あなたにしかできない舞があるのだから。ああ、でも多少は師について基本を学んでくださいね」


 考えていたものと、だいぶ違う。こじかの予定では、まずは父の邸へ行き、母のことを謝らせたかった。今は、暑い夏。舞は十一月なのだし、あとから稽古しても間に合うのではないか。


 できれば、母の墓を建てると約束させたい。


 放火の犯人ということで、忌まれた母の墓は建っていない。骨のひとつも残っていないけれど、母の魂をなぐさめたい。


 舞を終えたら淡海に帰り、眺めのよい高台に母の墓を作る、そんなふうに思いはじめていた。のに


「父に、会えるのはいつか」


「なるべく早めに招きましょう。わたしでは足りませんか、やはり父君が恋しいのですか」


「違う。母を見捨てたことを、謝らせたい。母は、父を信じていた。都へ連れて帰る、ということばを。できないのなら、はじめから愛するべきではなかったのに」


「時機を見計らって、呼び寄せる予定だったのかもしれません。都には、本妻や子どもがいたのでしょう。わたしがもし、父君の立場ならばそうします」


 言い切られてしまった。自分を否定されたかのようで、こじかはタケルにも疑いをいだいた。


 アケノたちが言うように、都人とは嘘の塊なのかもしれない。都合よくこじかを扱い、使い終わったら……打ち捨てられる?


 そのとき、こじかを着替えさせると、女房の声が聞こえた。話は途中だったけれど、こじかは部屋に戻った。



 用意されていたのは、うつくしい撫子色の装束。濃き袴、紅を基調に、淡い紫を重ねた衵。明るくて華やかな色合いは、幼いこじかにぴったり。


 着替えたのちも、牛の機嫌が悪いというので、出立が遅れている。淡海から都までは、急げば一日でも行き着く行程だが、今日はあまり進めそうにない。


「歩いてもいいのに」


 砂袋さえ外してもらえたら、こじかはどこまでも歩けるのに。細い身体つきのわりには、力があるほうだと思うが、砂袋は自分では外せない。これまではアケノが管理していた。これからは、タケルがするのだろうか。


 こじかが、逃げないように。


 ぞっとする。自分は愛玩物ではない。館にも飼い猫がいるが、縄で柱につながれていて自由に動くことができない。それが都での猫の飼い方なのだという。


 こじかは庭を眺めていた。


 不安だ。


 いや、淡海を初めて出るせいで、感じやすくなっているだけ。戻って来る。必ず。ここには母と暮らした跡がある。よい思い出はなくても、離れられない。


 ぼんやりしていたら、西門の近くにアケノの姿が見えた。こじかは急いで身を起こし、袴の裾を手でぎゅっとつかみ、裸足で庭に下りた。装束が重いが、我慢した。


「アケノ!」


 叫べば気がついてもらえるはずだと、こじかは声を上げた。なのに、アケノはさっさと厨のほうへ進んでしまう。


「アケノ、待って。ねえ、待ってください!」


 ありったけの声を使った。アケノはようやく立ち止まった。


「もうすぐ出立だけど、最後にお礼を言っておきたくて……ではなくて、言っておきたいのです」


「礼なんて。どうでもいいさ、そんなの。あたしに近づくんじゃないよ。こじかは都の姫さんになるんだ、あたしみたいな端女と並んでなかよく話をしてごらん、よくない噂が流れるよ」


 違う。こじかは、首を左右に振りながら、アケノの袖の端をきゅっとつかんだ。


「必ず戻る。戻ったら、母のお墓を建てたいの。都でおみやげをたくさん買ってくるから、母の首飾りと交換してほしい。お墓に入れたいんだ」


「あの首飾りを墓へ? ばかだねえ、あんた。もったいない」


「アケノだって、使っていないって言ったじゃない。私、いい舞を見せて、帝に褒美をうんともらう。だから、お願い」


 ぎゅっと握ったアケノの衣に、もう一度、そっと力を籠める。すると、アケノがこじかの両手を、大きな手のひらで包みこんでくれた。そんなやさしいしぐさ、はじめてだった。驚いたこじかが視線を上げると、アケノは困ったようにほほ笑んでいた。そんな笑顔も、見たことがない。


「……死んだんだ」


 アケノは突然、語りはじめた。


「誰が、死んだの?」


「あのときの火事で、あたしの子どもは焼け死んだ。ちょうど、こじかと同い歳ぐらいの男の子。救助にあたっていた、だんなも火に巻き込まれた」


 聞いたことがなかった、アケノの過去。


「だからこじか、あたしはあんたが憎い。火をつけたあんたの母に、あんたはどんどん似てくる。見ていてつらい。とっとと、どこへでも行っておしまい。都で姫さんになったほうが、人生ラクだよ。あたしだってこれ以上、醜い心を持ちたくないんだ」


 ずっと、アケノが心に秘めていた迷いをこじかは理解した。本気で突き放してはいないことも、痛いほどに伝わってきた。


「立派な供養を約束する。偉いお坊さんをたくさん呼んで、あの火事で亡くなったみんなをなぐさめよう。私、利用されたっていい。都で、がんばってくる。行ってきます」


 舞姫を差し出すことで、父やタケルがどのように変わるのか。でも、それでいい。自分は自分の舞をする。こじかは誓った。



 ―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―



 ――この続きは本編で!


『焔の舞姫』(著:藤宮彩貴族/イラスト:HxxG)は、富士見L文庫より、7月15日発売予定です。


 ※この試し読みは制作中のものです。実際の刊行物では加筆修正される場合があります。

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焔の舞姫 藤宮彩貴/富士見L文庫 @lbunko

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