#4 彼方の待ち人 ー1
白い百合が、あの忘却の丘に一輪だけ咲いている。
いつか忘れようと思った事を、忘れてしまった事を、ぬぐいとるように、
私は。記憶の中で、その百合を摘んでいる。
花びらを一枚ずつ丁寧にとっていったら、もう一度あなたに会えるのだろうか。
―——触れていい?
―—どこまでも
そんなことを、毎晩思い出して、来るはずのないあなたとの明日を願い消えていく。
でもあなたは、誰なのでしょう。
『あなたは、ただ記憶にすがっているだけなの。記憶の中であの人を生かし続けているのよ。忘れなさい』
『そんなこと、忘れられるはずないでしょう。私の涙は、朝露に消える百合の涙のごとくもろいのです。誰にも触れられない空間の中で、あの人を想い続けるのです―』
母に連れられて行った初めての舞台演劇。男役の女と、女役の女が熱心に恋愛劇を繰り広げている。広がるステップ、眩いスポットライト、それは彼らの空間の調和—いや、触れられない空間そのものであった。観客は静かにその様子を見ている、時に息をこらして彼らを見定める。いよいよ、クライマックスとやらだ。
『ああ、消えて行った。私の、私のあの人は消えてしまったのです…もうどこにもいない、』
男役の女がわめき散らし、女役の女がそっと駆け寄る。そして男役の女と目を合わせ、抱き合う。
『いるわ、私はここにいるわ。あなたの傍に居るじゃない―』
スポットライトが、2人を照らす。
『ああ、わが愛しの…』
彼らは一度熱いキスを交わすと、女役が短剣を取り出したのであった。男役は驚き、彼女を拒絶する。一緒に死のう、2人会えない運命ならば、共に死のう。—ということだろうか。
『…それは、私の短剣ではないか。』
『そうよ、さあ、私を…』
―—その後のセリフは、思い出したくはない。
あれから、母は演劇を嫌った。不潔だ、なぜ、と。だから私も自然と嫌いになった。しかし母とは違い、演劇の中の世界がうらやましくなるほどに。勝手に、自分勝手に、どこかあの世界を羨ましがっていた。
「—清水ふみ花。好きな事は絵を描く事、嫌いな人は男の人。どうぞよろしく」
母は私を男という存在から遠ざけた。遠い所へ、私を想っての事なのだろうか。
男性教師がいれば、転校をさせ―またその繰り返しだ。今回の女学校は、女性しか勤めない、非常に条件が良い学校だった。
「まあ、清水さん、男の方と話したことも無くて?」
教室の席に座ると、私の周りには多くの女学生が集まった。私のように都会からやってきた人は少なく、男嫌いという部分に興味がわいたのだろうか。
「ええ。まあ。父は小さいころ他界いたしまして―」
私のクラスには、いかにもお嬢様らしき風貌の女学生が大勢居た。身に着けているものは高級品ばかりで、多分私は浮いていた。
「嫌うのは当然ですわ。むしろそう思わない方がおかしいですもの。ところで清水さん?最近のスタイルはご存じなくて?」
「私、流行には疎いもので。あまり好まないので―」
そういった偏見が出るのは当然であった。
「まあもったいないですわ!清水さん、可愛らしいのですから。男は利用するものですのよ。ああたやすいこと。今度教えて差し上げるから、放課後いらしなすって」
そう私に言ったのは、いかにもお嬢様らしい見た目としゃべり方をする東條元麗華であった。彼女の取り巻きがクスクスと私を見ている―…何かを企んでいる事は容易に分かる。
しかし人間というのは、いかにも興味にそそられ、甘い蜜をすいたがる。私は麗華に連れられ、例の場所へとやってきたのだ。
麗華に手を引かれ、歩いていく中、校舎裏だ。そこには百合の花が沢山咲いていた。赤や紫—見たことの無い百合が咲いている。誰かが植えているのだろうか。私はその花を横目で見ていた。
「とても綺麗な花ですね―—」
「白ユリの花言葉は、『純潔』まさにわたくしたちにふさわしい言葉ですわ」
花壇に近づくと麗華はここよ、とばかりに手を離して、私をその場へ置いて、どこかへ行ってしまった。
「あの、麗華さん…私は」
「君が今日のいけにえ?結構かわいいじゃない」
目の前を見ると、2,3人の男と思われる人物が立っていた。顔にたくさん傷があり、私は身震いをした。それは写真で見た猛獣のような、ああそれは…それは…
「ああ…あ」
怖い、ただ怖さが全身を稲妻のように走る。しかし足が鉛のように動きやしないーどうすればいいのか、わからないのだ。
「ちょっと痛いだけだから、ほら、お金欲しいんでしょ?」
男が手招きする。私はずるずると後ずさりし、花壇の百合を踏んでいた。
「あ…」
「じれったいなあ、早くやっちまおうぜ」
奴らは、走ってこちらに向かってきたのだ。
「い…いやだ」
猛獣の牙が、私を、蝕むように、襲い掛かる。壊れる、壊される!私はいきおいあまって、地面に頭をぶつけ、意識を失った。不自然なほどに痛いわけではない、ただ、眠りに落ちるようだった。一瞬だ。
ゆっくり目を開けた。広がる新鮮な空気に、私は驚いた。深呼吸をして、自分の身体を触ってみる。制服も、何も、変わっていない。何もされていないのだ。
あれから何時間たったのかわからない、日はとっくに落ちていて、百合の花壇の上で寝転んでいた。
「あの人たちは…」
回りを見渡しても、あの人たちが居た痕跡もなかった。…ただ一つ、変化したことと言えば、私が踏んでしまった百合はまっすぐ伸びていた。美しく、凛々しく咲いている。
「…綺麗な、白色の百合だわ」
私は、その百合に手を伸ばした。花びらをさわると、少し湿っていたのだ。
「そう、白色の百合の花言葉—知ってる?」
…耳元で、そう呟かれ、私は息を飲んだ。それは人か?女性だ。とても美しい声の。誰なのか、?いいや、どうしてここにいるのか
「…あなた、誰?」
さっきまでいたのだろうか、いいや居なかったはずなのに。いつのまに、その、人が居た。
「あなたの顔、見てもいい?」
後ろにいる、その、美しい声の誰かに、私はそう言った。
「その前に…花言葉、知ってる?」
「知…知らない」
その美しい声の誰かは、私の肩に手を置いて、まっすぐに伸びる白い百合の花びらを私に差し出した。
「純潔——…」
私は、その湿っている花びらを受け取った。
「ありがとう…受け取ってくれて」
「あなたは、誰?」
美しい声の人—いや、美しい人は長い髪をたなびかせていた。どちらかと言えば、髪の色素は薄くグレーがかっていて、神秘的だった。
「明日もここに来ましょう。百合の花たちが露を垂らす頃—。この花びらが無くなるまで、ここにいよう」
私は何故ここまで惹かれているのか分からない。しかし、その一瞬の契に、魅力を感じてしまったのだろう。この人は誰か、あの男たちはどうなったのか、そんなのどうでもよかった。今まさに、あの時、うらやましく思っていた、瞬間が訪れたのだ。
スポットに照らされた二人だけの時間。誰にも奪うことは出来ない。
——いつのまにか雲が晴れ、月の光が、私達だけを照らしていた。
家に帰って、夜遊びをしていたと嘘をついた。
家に帰ったのは、丑三つ時を過ぎていた。
怒られて、叩かれて、痛かったけど、私の頭の中はそれどころでは無かった。
あの美しい人は誰か、どうしてあの場所にいたのか、何故私は無事だったのか。
考えたいけど、考える間もなく、どうでもいいという感情があったからだ。
私は母にあの演劇の続きを聞きたかったけど、そんな勇気無かった。何を聞いたらいいか分からないし、それを聞いて得をすることもないのだろう。
「ごめんなさい もうしません」
そう言って、私は来るべき時を、待ち望んでいる。よくわからない。
翌日学校に行った。平然とした顔でいる私に、麗華は耳打ちをしてきた。
「…昨日はどうなったんですの?まさか本当に手玉にしたのですか?」
私は少し鼻で笑った。
「いえ、お気遣いなく。なんともありませんでしたから」
麗華はムッとした顔で、また耳打ちをしてきた。
「男を操るのが上手い様で。よっぽど慣れているんですわね?まあ、みなさんお聞きになさって。」
麗華はそう言って、教室中の視線を集め始めた。
「清水さんは、男の方が大好きなようですわ。とんだ遊び人だったこと。」
つまらなかったのか、退屈なのか、そんな戯言を取り巻き立ちに話していた。
面倒なことに、その逸話は先生、そして親にまで知られてしまった。私は大きくため息をつくばかりであった。
親には昨日の何倍も叱られた。昨日の何百倍も怒鳴られて、いくつく果ての無い戯言を延々と聞かされて、ああいやだな、と自分にも絶望する。
黙る事しか出来ない―そのワケというのは、あの出来事が、真実かウソか、はたまた虚構なのか、分からないからだ。私が私として求めるもの、こういう時—理想形と言うべきなのだろうか。あの、演劇、不潔な、演劇そのもの。
「じゃあ、私は不潔なのかもしれない」
「それは違うわ、あなたは純粋な心を持っている」
百合が涙を流し―白露に垂れる時、私達は出会うのでしょう。
理念なのか信念か、信じたい欲望。
あなたが私の真実であると、月の光は教えてくれる
あの場所で、グレーの長い髪をたなびかせながら彼女は私を肯定する。
美しい声に私はいごこちの良さを感じている。
「再び会えるなんて思いもしなかった。あなたは夢だと思っていた」
「あなたが、”会いに来た”のよ。私を必要としているから―この、百合の花壇で」
囁きは、轟達を誘い、そして墜ちていく―…あなたの膝の上で、私は心地よく寝ている。
「私のどこが純粋なの?」
「全て。生まれてから、ずっと」
「ずっと?」
「穢れた時、人は欲を知る」
「私に欲は無いの?」
「あなたが感じているもの、それは汚れなき一凛の花の白露に等しいわ」
彼女の声—私は手を伸ばして、彼女の口に手をやる。すっと頬をなでて、彼女の手を取る。それをまた自分の口にやる―
「私は、目を開けたくない。目を開けたら、あなたが消えてしまいそうだから、こうして形だけ、あなたを感じている」
それでいい、とばかりに私達は百合の花壇の上で寝転ぶ。
「また明日も来ていい?」
「あなたが求めるなら、何度でも」
月の光がかげっていた。とても、じっくり、さびしそうに。
—それから、私は毎日、毎晩…月の光が出るころ、そして百合たちが涙を流す頃に、この場所に来る。それは私の理想形だと、理想そのものでしかないと知っている。虚しくて、尊くて、清らかなこの時間を失いたくはない。
あの日から始まった、(どこか微妙な点において)”ふしぎな”出来事に耳を傾けることは無くなっていた。私達がどこから出会って、どうして出会ったのか、そんなことはどうでもいい。私を、待っていてくれる人がいる―
「今日は、いじめられたんだ。いろんなもの、隠された。また男遊びをしているって、怒られた。そんなはずもなく、そんな欲も無いのに」
少しかげった月の光に向かって、そう言った。独り言だから、彼女には聞こえてほしくないなって、でも案の定彼女はくすくすと美しい声で鳴く。
「あなたの気を惹くのは、私だけで十分なのに」
そっと、心地いい風が吹いた。彼女の吐息は私を、うねらせる。
こうやって―時間を過ごしていれば、どんな屈辱にだって耐えられる。しかし、時間は有限ではない。いつか終わりを迎えることを知っている―
「また明日も来ていい?」
「あなたが私を知りたいのなら、何度でも」
知っているなら、わかりきっていることだ。これは恐ろしいことだと。
すると彼女は、「何か」の気配を感じ、私から多分目を反らした―そして彼女は百合の花のつぼみを見つけると、そっと、いや強く強引に花を開かせた。その光景に私は、なんだか、よくわからない感情を覚える。
「ねえ、触れていい?」
「…あなたが私を知っているのなら、いつでも」
…ああそうか、彼女は欲を知り尽くしている。それで十分なのにね。
月の光は、完全に雲に隠れてしまったようだ。
つづく
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