#2 卵のキミへ(2)
会社に行った。
会社の休憩時間が過ぎた。
2時間遅れた。
今日も若手のヤマシタは、俺と同じ時間に休憩後復帰する。
今日も誰かを、助けたのだろうか。
「金も男も、タバコ、もね。でもあたしからそれを抜いたら、なんにも無くなっちゃうからさ、嫌かな」
受話器越しに、また女性のタバコをふかす音が聞こえた。今日はいつもより深い息だった。
「今日はお疲れですね」
「人と関わる仕事は疲れるよ。デ、あんたはどんな仕事してんの?」
互いのしている仕事を知りたがるのが人間なのだろうか。それで優劣をつけたがるとも?
「普通の会社員です。ある一部分を除いて、ごく普通な。」
「親鳥につついてもらえなかった殻が残ってるんだね」
一瞬、受話器越しの女性が何を言っているのか分からなかったが、それは、いわゆる、そう、世間的で言う所の
「アイってやつですか?俺には、それが足りないって?」
「アイってのにはさ、二種類あるんじゃない?なんだと思う?」
女性にそう聞かれ、10秒ほど受話器に付いている電話線をくるくるとしながら考える。
「まあるいのと…しかく?かたいか、やわらかいか」
俺がそう答えると、女性はまたあの独特な笑い方をしてきた。
「与える愛、与えられる愛。与えられる愛が少なければ、与える愛だってないだろうね」
俺にはその理由がよく分からなかったが、多分それも俺にアイが無いからだろうと思った。
「…接待の仕事に、アイはありますか?」
「あるかないかなんて関係ないと思うよ、あたしは。そんなこと気にしてたら生きてらんないよ。生きるためにはなんだってする。けどその生き方じゃあ、何かのために生きることはしないんだろうねえ」
さっきまでこの女性とは、似たもの同士だと思っていたのに、遠く感じた。よく知らない、アイというものについて語る。生き方について語る。いまいちピンとは来なかった。
「先日、というか、若手がよく会社で褒められています。あいつ、いっつも遅れてくるんですよ。理由は人命救助だそうです」
女性にこんな話しても意味は無いが、なんとなく聞いた。
「…それでヒヨッコのお前が何を思うんだい?あたしに何を言ってほしい?」
「そんなに人がバタバタ倒れているの、見たことないです」
「で?」
え、と本心をつんつんと嘴でつつかれているようだった。
「だから、それは嘘なんじゃないかって、思ってます。本当はどこかで遊んでるんじゃないかって」
「それで、あんたに何の用がある?仮にヤマシタふんたらが遊んでいたとしても、あんたが何かを感じる必要は無い。それは奴にアイを与えてしまうからだ」
「アイって…そんな、気持ち悪いこと言わないでくださいよ」
引き気味に言った。
「他人を気にする、それは与えるアイだ。与えられるアイに気づけなかったあんたが、他人に与えようとしなくていい」
…少しだけ納得できた。なんだか初めて話した時より、女性の声が生き生きとしている気がする。気のせいかも、しれないが。
また会社には遅刻した。今日もヤマシタは人命救助だと言って、すまし顔で職場にやってくる。気が付けばテレクラに居て、顔も名前も知らない女性と電話越しに電話線をくるくるさせながら話している。
「やっぱり、依存症だぁ」
職場から帰る夜道、明るい電柱の電気に群がっている虫たちを見た。
奴らはただ周りでウロチョロとしているだけなのだ。様子をうかがっているわけではない、ただ光に反応している。明日自分が奴らに殺虫剤をかけて殺してしまうかもしれない、踏みつぶすかもしれない。光を見失うんだ。
何故かそういうものを美しいと感じる自分が居た。
自分と似ているものだからこそ、そう思いたかったんだろうとも、否定は出来ない。
「あんたは、何がしたいの?」
女性の声が、今日はなんだかあれている気がする。ガラガラ声、咳、くしゃみ。
「仕事もうまくいかない、そのようすじゃ恋人もいない。このまま途方もない道を歩み続け、最後は崖からまっさかさまさ」
そうだな、とうなずく。
「自分は昔から、きっと、もう崖に落っこちています。誰にも気づかれずに、そっとこのまま堕ちていたい」
多分そうだったんだな、とため息を付きながらそう言う。今も自分は落ち続けている。這い上がる事も、差し伸べる手だって無かった自分にはどうしようも出来ない。
「バカ言うんじゃないよ!このすっとこどっこい!」
いきなり、女性は受話器越しに怒鳴り声をあげた。耳の鼓膜が破れるかと、いやもしや敗れたのではないか、と自分の耳を確認した。
「あたしも、生きろなんて無責任なことはいわない。頑張れとも言わない。あんたに金も渡せないし、ましてや赤の他人だ」
10秒ほどの間。
「堕ちていきたければ死ねばいい。それが嫌なら人間全部滅亡させて、最後の一人になってみろ。」
自分は口を開けて、ぽかんとしている。
「…自分に出来ますかね」
「出来るなら、もうこの電話は必要無いはずだよ」
そう言って、女性はまた独特な笑い声で笑い始めた。
「あたしね、この仕事に誇りを持っているんだ。生き方は人それぞれ。あんた、前あたしに何も知らなかった自分に戻りたいか?って聞いてきたよね」
「ああ、はい」
「あたしなら、なんて答えると思う?」
20秒ほどの間だった。
「戻りたくない…んじゃないですか」
「これがファンタジー小説か何かだったら、あたしは過去へ行けるのかね」
「さあ…」
女性はまた笑った。
「…あたし、接待の仕事辞めて引っ越すから、もうここに来ることないんだ。ちょっと話せて楽しかった、ヒヨッコくん」
そうか、と俺は電話線をまたくるくるし始めた。刺激や出会い、なんて、これもそのうち。また次の出会いを探そう。少しだけ納得できたし。そろそろ、制限時間か、と席を立とうとしたときだった。
「あんたに一つ、嘘をついていたよ、ヒヨッコ。」
「…なんですか?」
「あたし、子ども連れて夫に逃げられた、なんていったろ?あれ本当はな、あたしの方がチョイと不倫してたんだ。子供の目の前で、不倫相手と家を出てやった」
大きな力強い嘴で、心をつつかれた気がした。
「あんたがどこの誰かも、見た目も、詳しくは知らない。知ったところで何も起こらない」
10秒ほどの間。
「…あたしは過去に戻りたいね、もっとも、この世界では。そう思える余裕と、戻れない時間があるのって、カッコいいだろ?」
5秒ほどの間。
「それって…超カッコいい、すね」
もう自分が依存症なんて口にすることは無くなった。
そのかわり、よく、ゆで卵を食べる前に、卵をなでてやるのだ。
殻は丁寧にむくのが鉄則だ、慎重に、しかし時には黄身からほおばってもいいだろう?大胆に。
「ヤマシタくん、君、若手の頃はよくやってたのに。最近は遅刻ばかりだが…人助けをするのは辞めてしまったのかい?」
その卵を口にほおばって、笑顔でこう答えたい。
「やっぱり、戻れない時間があったのって、超カッコいいんすね」
=卵のキミへ 終わり=
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます