短編 「ハンプティ・ダンプティ」

水野スイ

#1 卵のキミへ


ハンプティ・ダンプティ塀の上

ハンプティ・ダンプティ落っこちた

みんながどんなに騒いでも

もうもとへは戻らない





「あたしの人生もそんなものなのだろうと思うよ、今となってはさ」

 桜の花びらを見たのは数か月前、いやもっと前。時は新緑の季節、いわば出会いの季節からはとっくに過ぎてる。なのに俺はまだ出会いを求めている。時期でも、年齢でも。

 特別な出会いでなくていい、少年時代に読み漁った漫画のようなストーリーで無くていい。ただ、”誰か”と出会いたかった。

 だから今こうして、受話器片手にぼんやりとしている。

 あたしの人生も…そんな言葉を言ったのは、俺がテレフォンクラブで電話をかけた接待の仕事をやっている女性だった。お互い顔も知らない、詳しいことは分からない。1時間前に話し始めたんだった。

「昔ダンナには子供連れて逃げられたよ。子供は今はもういい歳してるだろうねえ」

「はぁ…」

 誰かと出会うために、恋愛感情が必要なわけではない。人生、倫理観、視点、俺はそういうもの、刺激が欲しかった。

 今話しているこの女性は、旦那に逃げられてからずっと接待の仕事をしているらしい。1時間前からその絶妙な生い立ちを聞いている。いや、聞かされているのだろう。

「声変わりしたあとの声なんて聞いてない。あんたは、ちゃんと親に声を聴かせているかい?それとも、まだなけなしのヒヨッコかい?」

 それは、親のすねかじり、とかそういうものか。

「自分は、経済的には自立してます。けど、多分まだヒヨッコですね」

 俺がそう真面目な雰囲気で言うと、受話器から女性の大笑いが聞こえた。

その笑い方が独特だったもので、俺もつられて笑いそうになった。その後、笑い声が聞こえなくなったのでどうしたのか、と問いかけると、とっくに電話の制限時間が来ていた。

「鳴く事さえ許されてないんです」

 何故かぽつり、とその一言だけつぶやいた。



 店を出て、久しぶりの太陽に町の人は上着を脱いだり日傘をさしていた。自分は厚い黒スーツに、重いカバンを持って足元ばかりを見ながら歩いている。厚さでやられたわけではないと思うが、なんだかフラフラするのだ。

 先ほどの女性の話ばかりを聞いていて、なんだか疲れたのか。どこかで休もうとは思ったのだが、これは会社の休み時間だったことに気づいた。

 「やっちまった」

 俺は急いで踏み切りを渡って、ビルに入る。壊れて使えないエレベーターにイライラしながらも、ぜーぜー言いながら12階まで階段を昇る。

 すると、同僚のヤマシタも同じように階段をめぐっていた。コイツ、若手なのに遅刻なんて。俺のことをチラ見すると、汗だくになって急いで仕事場へと戻っていった。その時のヤマシタの眼は、なんだか見た事のある目立った。昔かなぁ。思い出せないものだ。

 「上司に怒られるよな、俺が依存症だってこと、言えるわけないもんな」

 ヤマシタが入っていた後、俺が入るなんて、なんだか申し訳ない。洗濯ばさみでつねられたかのように、口角を上げる。

 「何をしたって変わらないのにな」

 そう言って、テレクラに行っている自分が頭に横切った。そんで、重くて分厚いドアを開けた。ためらい、恥も、な、く。


 案の定叱られる。赤色のネクタイを付けた上司の眼が見えない、いつも叱られる体制は決まっているからだ。

 「恥をしれ」

 それがお決まりの言葉だ。

デスクの周りには、テレクラに行く前、つまり2時間前に終わらせなければならなかった仕事の資料が山積みであった。全てやり残したまま、手を付けたが、途中でやめてしまったものもある。

 「ヤマシタクン!!君はウチノ自慢だよ!」

 デスクの周りを片付けていると、俺に聞こえるようにわざと言っているのか、先ほどの山下が上司に激励されている。

 「道端で倒れている人を救ったそうだ!なんと素晴らしいんだ!社会に貢献しているね、よしよし」

 褒められたヤマシタは照れくさそうに、自分の頭をさすっている。これが、本来恥じるべき場所、そうか?

 なんだ、と俺は思う。さっきのテレクラを思い出すのだ。俺だって、見ず知らずの女性の愚痴話を聞いていたじゃないか。いかにもそれは社会貢献なのか否なのかや。

 

 「あれが愚痴話だってェー?勘違いしないでおくれよ、あれはあたしの人生を語ったもんさ」

 再び、テレクラに戻る。先日話した女性と話して、今度は自分の愚痴話を聞いてもらおうと思ったからだ。出会いを求める、刺激を求める、もうそんなことはどうでも良くなった。


 「聞きたいんですが…あなたはなぜ接待の仕事をしているんですか」

 ちょっと聞いてみた。すると、受話器越しで ハァ?!と言われたので思わず耳を退けた。

 「…カネだよ。カネが無いと生きていけない。カネが無いと何にもなくなっちまう。そんでもって、仕事の後にタバコを吸う、これがるーてぃーんってやつ。男に逃げられたからっていうわけじゃあない」

 「多く稼げるからですか」

 「そんなトコ。あんたは?社会人っぽい口調してるけど、仕事はうまくいってるの?」

 思わぬところをつかれた、とは思った。もちろん今自分が抱えている、ある、依存症のせいで、毎日に支障が出ている。

 「あなたに言われた通り、こんな歳になってもヒヨッコです」

 「もはや声を上げるにも上げられない、社会の人の波にのまれたヒヨッコだねあんたは」

 社会の波にのまれた、確かにそうである。自分は受話器の隣にあるいろんな店の広告をちらちらと見つめ始めた。

 「おふくろさんは?」

 「子供の頃、自分を置いて男と出て行きました。自分は父親とあまりあったことが無かったので、そいつが母の夫だったかどうかは分かりませんが」

 俺がそう言うと、女性はタバコでもふかしているのか、ふーっと深い息をついた。

 「……そりゃ気の毒に」

 女性がそう言うと、俺はたまたまタバコの広告を見つけた。

 「タバコって美味しいですか?」

 「あんたはどう思う?美味しそうには見えないと思うけどね」

 「…なんで吸うんですか?」

 「それがその人にとって美味しいからじゃないの?一度やったら、まっさかさまに落ちていくんじゃない?」

 まっさかさまに落ちる、それは俺と同じだ。

 「もう戻れないっていう、あれですか?それも依存症で? 」

 「あんたの言い方じゃあ、なんかかっこよく聞こえるねえ、もう戻れない、なんて」

 真面目に聞いたつもりだったが。

 「じゃあ、戻りたいですか?その頃の、タバコを知らない自分に。金も男も知らない、自分に」

 俺が息を吸ってそう言うと、受話器から聞こえるタバコの音が消えた。

 どうやら、制限時間が来てしまったらしい。

 「もう戻れないなんて、かっこいいんですかね」

 そうつぶやいた。

 2時間話していた。




 

 

 

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