第93話 ベランダの影



 ベランダには艶やかな黒髪の男がひざまづいている。何か迷いでもあるのだろうか、視線を下げたまま男は動かない。


 くるみは臆することなく白いネグリジェのままベランダの扉を開けた。


 時代屋時計店の中で嗅いだことのある薫風くんぷうが病室に流れ込んできた。この香りはくるみが長い螺旋階段を下り、たどり着いた「春の大地」から流れてくるものと同じだった。くるみは視界を遮る髪を片手で押さえながらゆっくりと男に近づいた。


「フウマでしょ、フウマ先生でしょ」


 くるみは顔を見るまでもなく、その男をフウマと呼んだ。


 男は立ち上がりくるみを見つめた。はっとするほど綺麗な瞳と、全てを受け入れてくれる笑顔がそこにはあった。


 くるみは何も言わずフウマの胸に飛び込んだ。ミナトよりも背が高く鍛えられた肉体が、薄い服の上からでも感じられる。


「フウマ、会いたかった。私本当は怖かったんだ。でも、ミナトとフウマが死んでしまう方がずっと怖かった。だから、だから私は死んでも2人を守りたかった」


「ありがとう。くるみはいい子だ。王子を守れなかった僕よりも勇ましかったよ」


 フウマは子供でもあやすかのようにくるみの頭をなで、力強く抱きしめた。そして、震える声で言った。


「こうやってくるみを抱きしめたのは2回目だ。覚えているかい?」


「そうなの?」


 くるみはフウマの胸にうずめた顔から少しだけ視線をフウマに向けた。


「忘れたのか……。よし、今からド―トル湖へ行こう」


「でも夜だし、私面会謝絶なの」


「知っているよ。でも、くるみはそんなこと気にする子じゃなかっただろ」


 確かにそうだった。日本の高校生だったくるみは少しか弱く、遠慮がちな少女だった。でも本来のくるみは自分をしっかりと持った負けず嫌いで、正義感の強い女性だったのだ。

 

 フウマは病室のベットにナナ宛の書置きをした。

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