第94話 ドートル湖



 2人はドートル湖を目指し夜の空に飛び立った。


 ミナトと飛んだ時と同じく、恐怖は感じない。むしろ、そよ風のように優しく触れる風が心地よかった。


 眼下に広がる記憶の森は色とりどりの光の玉を実らせている。10日前まではたった4年間の記憶しかなかったくるみだが、今は23年分の記憶が詰まっている。


 完全な自分になりつつある心と体は水を得た魚のように生き生きと輝き、止まっていた時が動き出したようだ。


 ガーラの恐怖におびえた暮らしはもうなくなった。あるのは、フウマとミナトに対する複雑な恋心だけ、ということだろうか。


(2人を好きだったなんてあり得ない。でも……。ド―トル湖に行ったら何か思い出せるのかな。パルブーンで見た湖の絵。見た瞬間に切なく胸を締め付けられるような感覚がした。ケイジロウさんのお母さんは、昔あの島で争いがあったと言っていたけれど、あの切ない感覚はきっとそんな理由じゃない)


 くるみは深呼吸をするように夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。湿度のせいか、花の香りが昼間よりも濃い。


(そう言えば、この香り……日本で高校生だった時にも嗅いだことがある。通学路の横に植えられていたレモン畑の香りだ!この香りにいつも背中を押され、幾度も勇気をもらった)


 くるみは日本の両親とも言える、和哉かずや美沙みさを思い出さずにはいられなかった。「本当の自分を確かめておいで」和哉に言われた言葉。くるみは改めて自分の歩んできた人生を思い返していた。


 どんな自分であっても逃げることはできない。自分の気持ちに嘘はつかず向き合わなくてはいけないと覚悟を決めた。

 


 ジャスミンの花のように甘く優雅な香りに包まれ2人は月の無い空を飛び続けた。


「くるみ、手を離しても落ちないから大丈夫だよ」


 フウマは力強く握るくるみの手を見て言った。くるみは少しずつ力を抜いてフウマから手を離した。宙に浮かぶ体は安定したままくるみを運んでいる。2人の周りの空気全体が空を移動しているのだろう。


「こんなに飛ぶのが上手くなったんだね、フウマ」


「おっ、思い出したんだね。4年前はこんなに高く飛べなかったし、2人で飛ぶのも無理だったよね。ミナトはどうだった?どれくらい飛べるようになってた?」


 くるみは昨日の夜を思い出した。しかし、自分の魂の樹を探すことで精一杯で飛び方までは意識していなかった。でも1つだけ違いがあるとすれば風当たりの違いだろうか。


「フウマの風は優しいと思う。ミナトの風はもう少し粗いと言うか、スピードを感じたかな」


「そうか、まだ俺にも教えることがあるんだな」


 フウマは満足そうに微笑んだ。1時間もすると記憶の森は終わり、暗い森が続いた。そうしてようやく2人の視界に大きな湖が現れた。


「これがドートル湖?」


「そうだよ」


「私がここへ来たのは確か……、BBのメンバーになって初めての遺跡調査のときだった」


「そうだね、正解!それは覚えていたんだね」


「うん。空から見るとドートル湖ってこんなに大きいんだ~」


 くるみは心を解き放ったかのように両手を大きく広げた。


 湖の周りには宿泊用のコテージやホテルがいくつか見えた。そして、150年前に栄えていた島がドートル湖の中に浮島のように存在していた。今は誰も住むことがない無人の遺跡が残る島だ。


 くるみは指輪の適合者になって2年後の秋、この遺跡に指輪の回収のために調査へやって来ていた。ミナト・フウマ・くるみと他2名の計5名で1ヶ月間の長期の調査だった。


 まだ見つかっていない指輪の回収は国の最重要課題であった。全部で30と1個ある指輪のうち、9つの指輪が不明なのだ。この中にはガーラが最も欲しがっていたが4つも含まれている。これらを早く見つけ出しガーラの手に渡らないようにするのがBBに課せられた使命だった。

 

 


 

 2人はドートル湖の湖岸にようやく降り立った。


 静かな夜に、わずかな波の音だけが聞こえる。


 いくつかある桟橋さんばしの先にフウマは1人で歩いて行った。くるみも後を追うように桟橋を歩いた。


 すると突然フウマが振り返り、真っ直ぐくるみを見つめた。くるみは目を逸らすことも閉じることもできず、フウマをただただ見つめた。とても長い沈黙があったように感じた。


 最初に口を開いたのはフウマだった。


「くるみ、俺のことをどう想ってる?」


「私は……」


 くるみはようやく視線を逸らした。


「もしかして、俺のこと好き?」


「私は……私は、フウマを好きなんだと思う」


 その途端フウマはくるみに背を向けた。


「やっぱり、勘違いをしてるんだな」


「勘違い?」


 フウマの黒髪が風に揺れている。くるみは理由の分からない涙をこらえ、フウマの背中にそっと近づいた。そして、寂し気な背中に頬を寄せ後ろから抱きしめた。


「私、フウマのことが好きだったんだよね?」


「約束、忘れたんだな……」


 フウマは振り向きもせず、水面みなもを見ていた。

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