第70話 婚約者
「失礼します。ケイジロウに頼んであったのですが場所をお借りできますか」
「もちろん準備はできてますよ。今日は貸し切りです」
マーサは10歳ほど若返った声で答えると、店の奥にある硝子張りの喫茶室へミナトを案内した。窓辺にはカウンター席がいくつか設けられ、壁側には大きなソファーとローテーブルが置かれていた。
天井の梁からは蔦植物がジャングルのように垂れ下がっている。日が降り注ぐ素敵な隠れ家のような喫茶室だ。天井が高く開放的な空間は外にいると錯覚するほどの開放感があった。
少し遅れてやって来たくるみは何か腑に落ちない様子で首飾りを見ている。
「あら、それは恋人キャンディー!私も昔は掛けてもらったわ~」
マーサは昔を懐かしむように呟いた。この首飾りは昔からの伝統で男性から女性へ恋人の誓いとして渡す風習があるのだそうだ。しかし、今では友情や親しみを込めてプレゼントすることもあるという。
どちらにしてもくるみは嬉しかった。その気持ちを隠そうとなかなかミナトを見ることができない。
マーサに促されようやにくるみは喫茶室のソファーに座った。
お互い何から話していいのか分からない。聞きたい事、話したいことはたくさんあるはずのくるみだったが、隣に座るミナトを見ることすらできない。
その沈黙を破ったのは、またまたマーサだった。
「王子、婚約おめでとうございます。先月婚約をしたと街中で噂になっていましたよ。それなのに女性にキャンディーを贈るなんて大丈夫ですかねぇ」
くるみは耳を疑った。始めは自分たちに冗談で婚約したと言っているのかと思った。しかし、実際は……違うようだ。
ミナトは慌てだした。くるみは更にうつむき首が折れそうなくらい曲がっている。ミナトは慌ててくるみを見たが、もう遅かった。肩が上下に動いている。泣いている。
「くるみ、違うんだ。婚約なんてしていない…あれは嘘なんだよ」
「あら王子、嘘ってどういうことなんだい」
マーサが間に入ってくれた。
「わが国では20歳を超えると毎年のように現時点での婚約者候補を国王に伝えなければならない慣わしがある。しかし、ガーラとの戦いで国の体勢が大きく崩れた…」
「それで、どうしたんだい」
マーサは言葉に詰まるミナトに容赦なく合いの手を入れる。
「それで、現在に23歳になった私は国王に呼ばれた…」
「それで、何て言われたんだい」
「今まで先延ばしになっていた婚約者候補の名前を告げろ…と」
「それで、何て答えたんだい!」
「私は困って、フウマ先生と言いました」
「フウマってそんな男っぽい女の名前があるだねぇ」
マーサは感心しながらくるみを横目で見たた。まだまだ悲しみのどん底のようだった。
マーサはくるみとミナトの間に大きなお尻をドカッと置いて座った。そして、くるみを抱きしめ、ゆっくりと話し出した。
「くるみ、彼は王子だからねぇ。ケイジロウあたりで我慢しておくれ。ケイジロウもなかなかの男だよ」
くるみは温かなマーサの腕に抱かれて少し落ち着いたようだ。
「そうですね、ミナト君が王子だったなんて昨日知ったばかりで、私が好きになっていいわけないのに」
「女はねぇ辛い恋を重ねるごとに強く美しくなるんだよ。あんたももっと美人になるよ」
マーサとくるみの会話が一通り終わるのを見計らってミナトは首をかしげて話し始めた。
「フウマ先生は男ですよ!」
それを聞いた2人は目を見開いてのけぞった。
(今はジェンダーフリーの時代だからねぇ。そんなこともあるのかねぇ)
(昨日ケイジロウさんが話してくれたお兄ちゃん先生のことだよね)
2人の頭には完全にミナトが男を好きだとカミングアウトしたように伝わっていた。
「2人ともよく聞いてください。僕はくるみが好きなんだ。ずっと始まりの国へ戻るのを待っていたんだ。もし戻らなかったら一生結婚なんてしないつもりだった」
「じゃあ、何で男と婚約したんだい?」
「だから、婚約なんてしていません。国王には男に興味があると思わせたのです。すると、父はよく考えなさいと言いました。これでまたくるみを待つ時間ができたのです」
「なんだい、街の噂はあてにならないねぇ」
マーサはほっとしたように立ち上がった。
「紅茶を淹れてくるねぇ」
2人きりになった喫茶室はくるみのすすり泣く声だけが響いている。
「くるみ、驚かせてごめんね。それと、2年前急に転校してごめんね。あと、時代屋時計店の事を教えてあげられなくてごめんね。あとは…、時計を大事にしていてくれてありがどう」
ミナトは矢継ぎ早に思いのたけを吐き出した。くるみはようやく顔をあげた。
そこには一緒にレモン畑を駆け回ったミナトがいた。2年前と何も変わらないミナトが微笑んでいる。
「やっと会えたね、ミナト君」
また泣き始めるくるみをミナトはそっと抱きしめた。
「僕を助けてくれてありがとう。くるみのおかげで僕は死なずにすんだ。そして、また君と始まりの国で会えた。奇跡だよ。一人でよく頑張ってここまで来たね」
ミナトはくるみの頭を撫で、今度はきつく抱きしめた。
喫茶室のドアの前で熱い紅茶を淹れたマーサはもらい泣きをしなから入るタイミングを失っていた。
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