第33話 睡蓮鉢のメダカ  



 今日は半年に一度の定期検査の日だった。


 くるみが一人暮らしを始めたこの街は、和哉かずや美沙みさが昔勤めていた大学病院がある。


 午前中だけ有休を使い、仕事に戻るつもりで検査にやって来た。


「川崎さん」


 待合室で名前を呼ばれ、慣れたように脳のCTを撮り、先生からの問診と診察を受けた。


 今回も何の異常もなく進展もなかった。

 

 やはり、川崎家で目覚めた時からの記憶しかない。


 会計でお金を払うとまだ11時前だった。会社に戻るには少し早すぎる。

(少し歩こう)


 大学病院はバス通りに面しており、たくさんの店や企業が建ち並ぶ。

 ゆっくり歩いても昼までには会社へ戻れる。


 くるみはあかりからのアドバイスもあり、街の様子を見て歩くことにした。


 小さな雑貨店や、間口の狭い美容室、印鑑専門店にフラワーショップ、いつもバスで通り過ぎていた街がこんなにも色鮮やかで活気があるとは思わなかった。


 しばらく歩くと、軒先に睡蓮鉢すいれんばちが置かれた店を見つけた。思わず腰を屈めて覗き込んだ。


 濃いピンクの睡蓮は夏の日差しにも負けないくらいの存在感だ。


 よく見るとメダカも泳いでいる。


 涼しげで癒される。

(こういうのいいなぁ。何の店なんだろう)


 白地に店の家紋が描かれたのれんをくぐり、中に入ってみることにした。季節の和生菓子がずらりと並んだショーケースが目に飛び込んでくる。


「凄い!」


 思わず声が漏れてしまった。


「いらっしゃいませ」


 落ち着いた女性の声が出迎えてくれた。


 白い割烹着を身に着けた和服の女性が店の奥から現れた。

 

 目移りするほど見事な和生菓子だった。一つ一つが芸術品のようだ。


 もちろん季節の花々も食べてみたかったが、くるみが買ったのは、かわいらしい鯛の親子の和生だった。


 週末に川崎家に帰ることも頭にあったのかもしれない。


「また、ごひいきに」


 にこやかに割烹着の女性は言った。和生菓子の入った紙袋を受け取ると、少しぎこちなく頭を下げて外に出た。(あぁ緊張した)


 すぐに睡蓮鉢のメダカを覗き込む。


「またね。あなたの店素敵ね」


 メダカはスイーっと睡蓮の下に隠れた。


 その後も遠足の子どものようにキョロキョロ周りを見回して歩いた。

 

 だいぶ会社が近くなってきた。次の交差点で曲がると会社の前に出る。でも、なぜか交差点では曲がる気になれなかった。

(時代屋時計店に行ってみよう)


 交差点は曲がらず、このまま通りを歩き続けた。

 

 5分ほど歩くとあの大きな木の看板が見えて来た。見えたといっても文字は今日も読めない。


 それにしても暑い。7月ってこんなに暑かったのだろうかとため息が出た。


 歩いたせいなのか、これからあの店に入ろうとしているからなのか、心拍数が上がっているのがよくわかる。


 昼から会社に行くつもりだったので、スーツも鞄も仕事用だ。資料がぎっしりと詰まった鞄を反対の肩に掛け直し、スーツの乱れがないか確認した。


 小さく息を吐き、扉に手を掛けた。


「ごめんください」


 戸を開けると、爽やかな風と共に、春のむっとするほど生命力を帯びた空気がくるみを包んだ。

(何だろう。どこまでも続く草原。咲き誇る花々)


 一瞬何かが見え、知らない記憶を思い出せそうだった。もう一度目を閉じ記憶をたどってみる…。


 突然、交差点に車のクラクションが響き渡り、くるみは我に返った。

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