第32話 扉を開けると
それにしても本当に古い建物だ。
木造平屋建てのこの店には自動ドアなんてあるわけもなく、店の正面には、木の枠にガラスをはめ込んだだけの両開きの引き戸がある。
まるでアニメに出てくる駄菓子屋のようだ。都会の真ん中にしてはあまりに不用心。
中を覗くと薄暗い店内が少しだけ見えた。
入社して半年近くが経つが、まだ新人の域は超えていない。
1人で飛び込みの営業をするのは緊張する。ましてこの店はちょっと特殊な感じがした。
恐る恐る引き戸に手を掛け、指先に力を入れた。
(不思議な感じだ)
少し開いた戸の隙間からは風を感じる。家の中から窓を開けた時のように新鮮な空気が流れ込んで来た。
外にいるのは自分のはずなのに、まるで逆の感覚だ。
目に飛び込んできたのはガラスのショーケースに並べられた時計たち。
腕時計・懐中電灯・目覚まし時計がきっしりと詰まっている。
どうやらここは時計屋のようだ。
「すみませーん、社長様いらっしゃいますか?」
何も反応がない。
ビルの谷間に埋もれているせいか店内は昼間でも薄暗い。
店の奥の窓からは、かろうじて日が差していて、夕方の西日のようでどこか懐かしい。
少し待ってもう1度声を掛けた。
「すみませーん!」
すると店の奥から声がした。
「ゴメン、今手が離せないんだ」
声と同時に、薫風が立ち込めた。
人がいた。しかも予想に反して若い男の人の声だった。
「企業保険の者です。よかったらチラシを置いて行きますので見てみてください」
「分かった、ありがとう」
顔は見えないが優しい声だった。
「アンケートも入れておきます。後日取りに来ますので」
くるみは少し早口になったが用意しておいた言葉を全て言うことができた。
くるみは封筒の上に名刺を置いた。店の奥からは重い扉の閉まる音が響いた。
低いウインドチャイムが「カランコロン…コロン…コロン…」と徐々に小さくなっていく。
「失礼しました」
やはりこれには反応がない。(どこか別の部屋に行ってしまったのだろうか?)
胸がドキドキした。緊張なのか戸惑いなのか分からない。とにかく、チラシとアンケートを渡すことができた。これで次に繋がる。
ほっとしながら店の外に出た。やっぱり最初に感じた感覚は間違っていなかった。
店の空気の方がよっほど清々しい。
会社に戻り空いているフリーデスクを見つけ今日の活動報告をまとめていた。
仕事用にタブレットが支給されており、キーボードで文字を入力することにもだいぶ慣れてきた。
今日1日で何軒回っただろう。担当者不在も含めて10件ほどだろうか。
高校生の頃には感じたことのない肩のコリを最近は感じるようになっていた。鞄も重いし、緊張もする。(あぁスニーカーが懐かしい)
「おつかれさま」
コーヒー片手に
「おつかれさまです」
明はくるみのタブレットに映し出された活動報告の画面を覗いて驚いた。
「もしかしてあの店行ったの?」
「行きました!人がいましたよ!」
「そうかぁ、行ったかぁ。どんな感じだった?」
「まだ社長には会えていません。アンケートを回収しに後日行くつもりです」
「もう一度行って反応みてだね。話聞いてもらえなかったら撤退すればいいよ」
「そうですね…。」
明のアドバイスに返事はしたものの、店の奥から聞こえたあの優しそうな声が耳から離れなかった。(どんな人だったのだろう)
あの店のショーケースに並んだ時計は本当に売り物なのだろうか。とても古い物が並んでいたように思う。
店の雰囲気は明治?大正?昭和?なんと表現したらいいのか分からなかったが、時計だらけのはずなのに時が止まったような部屋だった。
明が言っていたようにビルが立ち並ぶオフィス街の中にあるということは相当お金が必要なはずだ。
何を商売にしてお店を維持しているのだろう。
くるみの興味は保険に入ってもらうことよりも、店の存在だった。
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