第22話 あの夜からずっと


 

 くるみに記憶が無いということは何となくわかっていた。

 実は、くるみが知らないところでミナトは何度かくるみに会いに来ていたのだ。


 1度目はくるみが森で発見された夜から1か月後だった。

 診療所の玄関掃除をしているくるみをようやく見つけた。


 思い切って診療所の前を歩き、話しかけてみた。「おはようございます」そう声を掛けると小さな声で挨拶が返って来た。


 ただそれだけだった。一瞬目が合ったものの、何の感情の湧いていないようだった。

 何とも言えず表情の暗いくるみを見ているのは辛いことだった。


 2度目は、高校の入学式の朝だ。美沙と一緒に見慣れない制服を着て車に乗るところを見た。

 緊張した面持ちで玄関から出て来たくるみは診療所の職員や警察官に見送られ照れくさそうにしていた。

 少し笑顔も見られ、落ち着いた生活ができているのだろうと安心した。


 3度目は若い男の車に乗り、どこかへ行くところを見た。

 楽しそうに話すくるみの横顔が見えた。自分が隣にいないのが悔しかった。

 

 そうして、いよいよ作戦実行の日。

ミナトが転校生として高校にやって来た日だ。くるみは友達と廊下を歩いていた。

 ミナトとすれ違ったが振り向いたのは別の女の子だった。くるみは何も気に留める様子もなく振り向くこともなかった。


 こうしてミナトは1年以上もの間、くるみのことを陰で見守っていたのだ。 

 

 本当のことを何も言えないまま、転校生に扮して1カ月が過ぎようとしている。

 

 ミナトは何のために、この世界にやって来たのかもう一度、思い起こした。「自分のことを印象づけること。そして、くるみに時計を渡すためだ。」

 

 初めからくるみを元の世界に連れ戻すことは今はできないと分かっている。ある手段を踏まないことにはどうにもならないことなのだ。

 明日別れを告げなくてはならない。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


「おはよう」


 くるみがバスから降りるとミナトが待っていた。


「今日はバス停まで来てくれたんだね。どうしたの?」


「1つ早い電車に乗ることができたんだ」


「よかった!私ミナト君にお弁当作ってきたんだよ」


「えっ、期末テストが終わったらって言ってなかった?」


「そうなんだけど、美沙さんに言ったら、期末テストなんだから、栄養たっぷりのお弁当を作ってあげようって話になったの」


 くるみは嬉しそうに朝日を浴びて歩き出した。

 横を歩くミナトを見上げると、揺れる髪の間から優しい瞳が見えた。その瞳はどこか遠くを見つめている。

 ミナトと朝にフルーツ街道を歩くのは初めてだった。

 

 夕方の空気とは違って実に清々しい。そして、ミナトはこの街を流れている風のように安らぎを運ぶ存在だ。


 ミナトに出会うまで、この道を歩くことは、自分を強くするために必要な時間だった。

 でも今はそんな必要が無い。


 ミナトの存在がたった1カ月でくるみの穴だらけの心を一気にふさぎ、自分の知らない本当の自分を見せてくれた気さえする。


「あっ、そう言えば今日は午前授業だから、お弁当要らないはずじゃない?」


 ミナトは急に思い出し、申し訳なさそうな顔をした。


「午前授業だからゆっくり食べられるでしょ!」


 くるみは、たしなめるように言った。


「そうか、そういうことか…」


 ミナトはしばらくの間何も言わずに歩いた。ミナトの目から涙が伝った。

 くるみに見つからないように髪をなでるふりをして涙をふいた。


 7月の風は暖かくいろんな香りを運んでくる。かすかな磯の香りに、甘い花の香り、そんなこの街の香りはくるみと過ごした楽しくも儚い幻のような思い出の詰まった香り。


 2人の心は対照的だった。


 学校へ着くまでの間、くるみの笑顔を見るたびにミナトの心にはチクチクと何かが刺さっていくのを感じた。


「じゃあ試験が終わったらお弁当持って行くね」


「わかった、じゃあテスト頑張って!」


 2人はそれぞれの教室へ入って行った。

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