第13話 こねこちゃん


 三日後の水曜日は、昼からは往診に行く日だった。

 少女の記憶はまだ戻らない。体そのものは健康だったがこのまま何もしないでいるのは少女にとってもよくない。和哉も美沙も悩んでいた。

 

 日中、患者さんがいる間は二階で過ごし、ごく一部の人にしかまだ会ったことがなかった。

 秘密にしたいわけではなかったが、少女についてどう説明したらいいのか決めかねていた。

 しかし今日は天気がいいし、往診までにはまだ時間がある。


 昼食の後、美沙と少女は一緒に診療所の裏にある家庭菜園の冬支度をしていた。

 

 花を植えていたプランターを洗ったり、来年のための堆肥たいひを小屋から畑へ運んでいた。


 その時一台の車が駐車場に止まった。降りて来た小さな足は、リズムよくこちらへ向かって来る。


「どうしよう。ゆみちゃんだ」


 美沙は少女に目をやると、少女も動揺している。


「私、隠れた方がいいですか」


「いや、大丈夫。悪いことをしているわけじゃないんだから隠れる必要はないわ。私が何とかするからそのまま作業を続けて」


 ゆみは小さなリッユクを背負い、ウサギのぬいぐるみを持ってやって来た。少女は美沙に言われた通りプランターを洗い続けた。


「こんにちは、ゆみちゃん」


 美沙は汚れた軍手を脱ぎ、腰を屈めた。


「おかあさんとつくったクッキーもってきたよ」

 

 ゆみは、ぷくぷくとした小さな手でリュックを開け、お花の形とひよこの形のクッキーを取り出した。

 透明なセロファンの袋に5センチほどのクッキーがたくさん詰まっていて赤いリボンでとめられている。


「ありがとう。かず先生よろこぶわ」


 ゆみの母親はまだ駐車場の所で待っている。美沙はお礼を言いに駐車場へ向かった。


 ゆみは畑に残り、少女のそばへ近づいて行った。


「おねえちゃんだあれ?」


 少女は小さな子どもだったのであまり身構えず本当のことを言った。


「私ね、自分の名前が思い出せないの。それでこの診療所に入院しているの。」


 ゆみは、驚くこともなく自分の病気の話をした。


「わたしはせきがでて くるしくなるびょうきなの。でも、かずせんせいの くすりのむと なおるんだよ!」


「おねえちゃんのおうちはどこ?」


「おうちも思い出せないの。だから困ってるの」


 少女は本当のことを言った。


「なまえも、おうちもわからないのは こねこちゃんだね」


「こねこちゃん?」


「いぬのおまわりさんの うただよ。ようちえんでうたったよ。」


 二人は小屋の前に置かれている丸太のベンチに座った。


「私ね、胡桃の木の下に倒れていたんだって。それで、かず先生たちが見つけてくれてこの診療所に来たの。」


 ゆみは何も聞いていなかったかのようにアリを見つけてはベンチに運んだ。


 駐車場からゆみの母親の声が聞こえる。


「ゆみ帰るよー」


「はーい」


 ゆみは手に着いた泥をパンパンとはらい、ベンチに置いてあったウサギのぬいぐるみを握った。


「じゃあね くるみちゃん」


「くるみちゃん?私のこと?」


 少女は目を見開き、ゆみを見た。


「おねえちゃんのなまえはくるみちゃん。さっきおはなししてくれたでしょ」


 突然名前を付けられびっくりするやら、嬉しいやら複雑な気持ちのくるみだった。

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