第8話 消えた傷口


 時計は深夜を回っていた。


 航を玄関まで見送り、二人きりなった診療所はどこか寂しかった。和哉は航がいた時にはできなかった胸の内を小声で話し始めた。


「あの子が目を覚ましてくれればきっと解決するだろうと思っていたけど、やっぱりそれは無理な話だ。少女が目覚めた時に何て質問したらいいのだろう」


『君は森の中で光る植物に包まれていだけどどうしてかな?』

『君は魔法のようなものを使えるのかな?』


「さすがにこんな質問をぶつけることはできないだろ。少女が目を覚ましたら普通の患者のように、何事も無く接すればいいのかな。美沙はどう思う?」


「私はあの子の声が早く聞きたい。体を拭いてて分かったことは私たちと同じってこと。かもしれないけど、同じなのよ」


 美沙は自分の口からと言ってしまったことにためらいを感じたが、当てはまる言葉が見当たらなかった。


「でも危険な感じはしないの」


「そうなんだよ、俺もあの子が仮に…宇宙人…だったとしても安全な気がする」


「今日は私、あの子の隣のベットで休むわ」


「じゃあ俺は二階で寝るけど、何かあったらすぐ呼んでくれ」


「あっ、言い忘れてたんだけど、あの子は外傷もなくきれいな体だったの。でも、長い間指輪をつけていたのかもしれない。右手の薬指にくっきりと跡が有ったの」


「そうか、じゃあ年齢はもっと上かもしれないな」


「あと…」


そう言いかけて美沙は話すのを止めた。


「何?」


「何でもない、ゆっくり休んで。明日はお休みだから」


「ゆっくりは休めないだろ、患者がいるんだから」


 そうだった。あまりにも信じられないことが起きたのに、ベットに横たわる少女は何度も見てきたそのものなのだ。森にいた時の様子からは考えられない、ただの少女に映ってしまう。

 

 和哉は、スマホを上着のポケットに入れ書棚から数冊の本を抜き取り二階へ上がって行った。美沙は診察室とベットを仕切るカーテンを開放し、少女の隣に並ぶ廊下側のベットに腰かけた。意識が戻っていないことを確認すると、少女の体の上にそっと銀色に光る小さな鈴を置いた。


「これでよし!」


 腰に転倒防止のバンドをしておいたが夜中に意識が戻ったらすぐに気付いてあげたかった。

 どこの誰かは分からないけれど愛おしさを感じてしまう美沙だった。

 寝る支度を簡単に済ませ、スマホのアラームを一時間ごとにセットし枕元に置いた。

 

 そしてもう一度自分の両手を眺めた。


 確かに消えている。


 さっき和哉に話せなかったこと。それは小さい頃に負った手の甲のやけどの痕が消え、今朝ツナ缶を洗っていて切った指先も完治していた事だ。

 

 少女の体を拭いている時に気が付いた。(あの光のせいかしら、それとも体に付着していたべたべたとした軟膏のようなもののせいかしら)


「今夜は不思議がいっぱい」


 美沙は小さくつぶやき、サイドテーブルに置かれたスタンドをつけたまま横になった。

 

 病院のベットは寝がえりをうつたびにキシキシと音をたてたが、何度目かの寝返りの後、すーっと眠りについた。


 最初のアラームが鳴り、少女と仕切っていたカーテンを少しめくる。何も変化がない。それを何度か繰り返しているうちに朝刊がポストに入る音がした。二階からも物音が聞こえ始めた。


「かずさん起きたのかしら」


 カーディガンを羽織り素足のままサンダルを履いた。静かに診療所内のカーテンを開けると朝日が差し込む。

 

 小さな鈴の位置は昨日と変わらない。新聞を取りに玄関へ行って戻ると、和哉が温かいお茶を手に、二階から降りてきた。


「お疲れ、昨日は眠れたかい?」


「たぶん寝てたと思うわ」


 美沙はお茶を飲んだ後、和哉と交代で二階へ上がって行った。今日は日曜で診療所は休みだが、患者が来ないとも限らない。和哉は少女を診察した後、見えないように仕切りのカーテンは閉めたままにしておいた。


 シャワーを浴び着替えた美沙が申し訳なさそうに下りてきた。お盆には庭に植えている三つ葉がトッピングされた鮭茶漬けと小皿にゆで卵とミニトマトが乗っていた。


「ごめんね、こんなのしか用意できなかった」


「いいじゃない、俺 お茶漬け好きだから」


「そうよね、ありがとう。」


 診察室で朝食を食べるのは初めてのことだったが、二人とも表面上はいつもと同じく穏やかな朝を迎えていた。食後のほうじ茶を手に窓から見える終わりかけの家庭菜園や、壁に貼られた健康喚起のポスターを取り留めもなく眺めていた。


「あの子のことだけど」


 最初に口を切ったのは和哉だった。


「今日夕方までに意識が戻らなかったら市内の病院で検査をしてもらおうと思う。もし意識が戻って自分の住所や名前の確認ができたら警察に連絡する。これでどうかな」


「警察に連絡!何て言うの?」


「往診の帰りに道端に倒れていたことにしようと思ってる。もちろん暗闇で光っていたことは言わないつもりだ。この診療所でできる治療は限られている。あの子の命を守るためにもそうしたい」


「そうね…今のところ顔のつやもいいし、むくみもない。ここでできるのは水分や栄養の点滴だけだし」


 二人は少女のための口裏合わせを入念にし、美沙は航にも電話でそのことを伝えた。

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