第2話 はじまり

 川崎夫妻は日が沈んだ林道を車で走らせていた。街灯はなく徒歩で歩くのは無理であろう田舎の林道。

 道幅は狭く手入れされていないこの森は昼間でも薄暗い。

 

 かろうじて舗装されているが地元の人もあまり通りたがらない。まして夜はなおさらである。

 耳を澄ませば獣がパキッパキッと落ちた枝を踏む音が聞こえ、車のライトに反射した小動物の目が不気味に光る。

 そんな夜の林道を注意深く運転するこの夫妻。

 

 3年前からこの町に診療所を構え、夜に往診のため山間部へ出向くこともよくあることだった。つまり、言い換えると、川崎夫妻にとってこの林道はよく利用する慣れた道なのだ。

 

 今日も本郷地区と呼ばれる集落への往診の帰りだった。週に2度、水曜と金曜の午後は診療所に来られないお年寄りのお宅を訪問診療している。

 

 今日は土曜で休診日だったが、夕方に電話があり車に飛び乗った。もう長いこと寝たきりになっているキヨさんの容態が悪化したと家族からの連絡があったからだ。

 痛み止めの点滴をすると血圧も落ち着き、会話もできるようになった。

 

 病院で最後を迎えたくない患者と家族にとって、在宅医療は選択肢の一つだ。家族の負担はかなりのものだ。しかし、住み慣れた家で、家族の声が聞こえる空間で過ごせることがどれだけ幸せなことだろうか。

 

 世間の考えは様々だが、何をしても後悔はのこる。だからこそ、これを選んだ患者と家族を全力でサポートしたいし、これができるのは自由がきく診療所の強みなのだ。

 

 最後の小さな峠を一つ越え、町の明かりが木々の間からちらほら見え始めた。

 和哉は帰り際にもらったマドレーヌを紅茶で食べようか、それともサイフォンで淹れたコーヒーにしようかと模索中だった。


 明日も休診日。夜にカフェインをとっても構わない。急患に備え、診療所を構えてからは禁酒宣言を自らしたが、つい甘いものには手が出てしまう。

 

 和哉かずやは小さい頃、この町の神童と噂されて育った。浪人もせず周囲の期待を無言で背負い、医者になった。

 

 都会の大学病院の医師になり脳外科という緊張感のある診療科に勤務し35歳で結婚した。5歳年下の美沙みさは同じ病院の看護師で同じくこの町の出身。

 忙しい病院勤務で実家に帰れる機会は限られ、和哉にとって唯一安らぎを感じさせてくれる地元のような存在が美沙であった。

 

 結婚はしたが子どもに恵まれることはなく、気が付くと17年が過ぎていた。その間不妊治療も試してみようと思った。しかし、生活を変える勇気もなく、赤ちゃんがほしいという気持ちは頭の片隅に追いやってしまった。

 そのせいなのか、結婚前とあまり変化のない忙しい生活を二人は送っていた。

 

 和哉は50歳を前に妙な息苦しさを感じ始めた。和哉の息苦しさの原因はこの忙しい環境だと自分でも感じていた。

 

 現に美沙も、同じ大学病院の看護師をしていたが、毎日名前を覚えきれないほどの患者さんに出会い、病院外で患者さんに「あの時はお世話になりました」などと声を掛けられても何一つ思い出せない。


 もう少し患者さんとゆっくり向き合いたいと思ったが、そんな暇もなく仕事に追われる。一昨日会った患者さんが休み明けに病院へ行くと、亡くなったと聞かされた。

 

 当たりまえのことだ。ここは病院で、産まれる命もあれば消えてしまう命もある。いちいち自分の感情に流されていては仕事にならない。若い看護師もそうやって乗り越えて成長するものなのだ。でも、でも…。


 2人は大学病院を辞め、生まれ育ったこの町で診療所を始めることにした。子どもがいないせいか2人の決断は案外簡単なものだった。

 

 何年か前に休診になっている診療所の話は聞いていた。仕事を始めてみると、同じ医療の仕事とは思えないぐらい新鮮だった。

 

 2人は患者さんから毎日たくさんの話を聞いた。そして自分の話も聞いてもらった。

 患者さんと共有する時間は日常に溢れ、待合室は地区の集会場のようで、本当に病人なのだろうかと目を疑った。


 お年寄りたちは診療所の再開を喜んでくれたし、小さな子どもたちも訪れるようになった。親たちにすれば、すぐに薬を出してもらえるのがいいそうだ。

 待つ時間も短く学校にもすぐに戻れるとのこと。なんなら、待合室のお年寄りたちに声を掛ければ順番も入れ替え1時間目に間に合うこともできる。

 そんなことで誰も文句は言わない。「学業優先!学業優先!」とお年寄りたちは温かかった。

 

 だから川崎夫妻は今日のような夜の往診も、早朝にやって来るお年寄りも、苦にはならなかった。誰に言われるわけでもなく町に戻り、感謝はされてはいるが、感謝しているのは2人のほうだ。

 和哉の息苦しさも嘘のようになくなっていた。


 

車の時計に目をやると9時をまわっていた。


「今日はレモンティーにしよう」


 ちょうど里子さんからもらったレモンを思い出した。高血圧とリュウマチで毎月訪れる患者さんだ。まだ少し緑が残るレモンは香りが強く紅茶によく合う。

 マドレーヌに果汁をかけて食べるのが和哉のお気に入りだ。さっぱりとして鼻から抜ける香りが何とも言えない。家が近づいたこともあり少しほっとした空気が流れた車内であった。


 風もないのに落ち葉が舞っている。


 さほど気にすることもなく運転を続けていたが、タイヤからも落ち葉や枝を踏む振動が嫌でも伝わってきた。その時だ。助手席の美沙は森の異変に気が付いた。美沙が声に出す前に和哉はブレーキを踏んだ。


「どうしたんだ、いったい! 来た時はこんなんじゃなかったよな」


 美沙もよく見ようと窓を開けた。

 

 風はなく、頭上に広がる小さな空には星が輝いていた。



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