時代屋時計店

しほ

第一章 記憶を求めて

第1話  レモンの香り

 あと1か月で夏至をむかえる。

 

 朝日は真夏のように地面を照らし、草木は太陽を搾り取っているかのように濃く、全身で成長を楽しんでいる。


 県の中心から車で1時間、電車だと乗り換えも含め1時間半はかかるこの町。


 果樹園と漁業が盛んで、夏場は観光客も多くにぎわいを見せる。

 

 人口は3万人を切っているが、昨今のスローライフブームも手伝ってか、人口の減少は緩やかになっているようだ。

 

 漁港が見える灯台公園の近くには別荘も多く建てられるようになり、おしゃれなカフェや天然酵母パンの店なんかもできた。


 町の一部はさながら雑誌を切り取った都会の様相だ。


 川崎くるみは現在高校2年生。


 朝日を正面から受け、高台にある高校に向かって歩いていた。家が学校から少し離れていたため、バス通生だった。


  朝、家の近くのバス停、森下水源もりしたすいげん停留所から7時15分のバスに乗り、7時45分に高校前停留所に到着。


 そこから昔ながらの商店街を横目に20メートルほど歩くと左に高校へつながる坂道に出る。

 

 道幅が広く、右に緩やかにカーブしたこの坂道は、フルーツ街道と名付けられた。


  歩道は車道と同じ石灰岩の粗い石畳になっている。夜にはガス灯を模した街灯がいっそう異国の雰囲気を醸し出す。

 

多くの学生が通学路としているこの道を、くるみも毎朝歩いていた。前から来る歩行者ともストレスなくすれ違うことができる。


 歩道のすぐ脇には柑橘系を中心とした果樹園が広がり、この時期はレモンの花が咲きほこる。

 薄紫のつぼみ、白く可憐な花は、くるみの気持ちを優しく穏やかにしてくれる。


  高校に着くまでの数分間、甘いジャスミンにも似たレモンの花の香りに包まれて歩く。


 くるみはこの時間が好きだった。


 いつから好きなのだろう。


 くるみには思い出せない。


 思い出したくても記憶がないのだ。


 くるみの記憶の始まりはちょうど1年と7ヶ月前からしかない。

 

そう、冬も近い11月の夜だった。

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