第3話 ウニ
「詳しい話を聞こう」
アリアのその発言を皮切りに、メイリーはアリアの故郷である、フェリーチアを目指すに思い至った経緯を話し始めた。
「私は、メイル・ラ・フィリア。
使族であり人間の王族。その地位や揮える権力が与えてくれる恩恵を考えれば、メイリーの第一声は欲深すぎるものと捉えることも可能だろう。
だけど、更なる欲を求めての言葉ではないことは、語る彼女の表情を見れば瞭然だった。
「人を人とも思わない父が大嫌いでした。自分の血こそが至高。それ以外は
そう語る彼女の父を見たことはライセも含めてありはしない。それでも彼女の語り口が、家族を想っての言葉ではなかったことを悠然と教えてくれる。
使族はなにも天使と人間だけで構成された種族ではない。それこそオーガも過去は使族であったように、今なお使族領域に身を置く者たちは少なからずいるのだ。
天使を頂点とする使族間の生態系ピラミッド。その第二位に位置づいている種族が人間である。
個人によって差はあれど、人間が秘める体力や魔力は使族内において取り分け高いというわけではない。
それでも第二位の座に君臨し続けていられる力を人間は持っている。それは数という名の暴力。
「攻めてくる魔族から守ってやっているからと……周りの村や街から、お金だけでなく、加工品や食料まで奪って! ……自分たちだけ甘い蜜をすすってる!」
人間は搾取した。人間のみならず他種族からも……容赦なく。自分たちの方がこの力では勝っていると分かっていても誰も歯向かうことなどできなかった。反発した後、自分たちがどうなってしまうのかなどは火を見るよりも明らかだったから。
それでも人間が傲慢の限りを尽くせば、その矛先は力を持たない人間たちに向けられる。
メイリーたち王族とそれに連なる家系の者たちは、見て見ぬふりをした。自分たちには関係のないことだと笑みすらも浮かべて、言い放った。
敵は魔族であるはずなのに、使族同士で争うことも近年では日常茶飯事と化していった。
何が至高。
何が良かった。
「……戦争が自分たちに豊かさを与えてくれる。だから戦争は必要なんだ…………父が言った言葉です……」
勝った時の喜び。平和である時間の有難さ。戦争が与えてくれる恩恵は違う形で皆が受け取れるものなのかもしれない。
だけど。アリアは断言できる。
「そんなものがあってたまるか……」
「…………私もそう思います……」
戦争がない世界の平和を誰も知らない。願い、祈ることはあっても結局この世界には戦争が存在してしまうのだ。だから目を背け見ないようにして、あるものの中から平和を探すしかない。
そうして見つけ出した平和は偽りで、仮初めであると言い切ってもいいものだ。
虚構の平和を皆に押し付けて、自ら平和を手放したことでメイリーたち王族が得られる物こそが偽りであると言ったところで、悪意に染まった者たちの心に届くことはないだろう。
メイリーはどこか諦めたように顔を落として話を続ける。
「私たちの国には守護してくれる天使様はいません……元々はいたんです。ラファエル様。ですが、帰ってしまわれました…………はじめは、どうして? と思いました。でも気付いたんです。魔王は……攻めてこないんですよね……」
魔族は魔王が統治している。そして、魔王は攻めない。ただ使族に攻められ、落とされ、奪われた土地を取り返す。
その取り返すための侵攻を使族は「魔族が攻めてきた」と騒ぎ立てる。
「魔王はただ守っているだけ。自身の命を、大切な仲間の命を。そして、大切な場所を。ラファエル様は聡明な方でした……知っていたんです。こちらが侵さなければ魔王は動かないという事を…………逆だったんですよね。魔族の侵攻を止めるためではなく、魔族領域に人間が侵攻しないためにラファエル様はいらっしゃった……」
そして大丈夫だと見切りをつけて、いなくなった――。
「でも……大丈夫ではなかった。父は侵攻してこない事をいいことに、嘘を触れ回った」
自分たちは何もしてはいないままに、長きにわたり侵攻を食い止め続けていると国民に伝えた。
王族が搾取した物。それは人員や食料。富であったり武器などの加工品。その中の一つ、それが情報だ。だがこれは搾取ではなく遮断。
使族領域との国境を越えて魔族は攻めてはこない。だけどその事実を捻じ曲げ、隠し、自分たちの都合がいいように国民へと嘘を伝えた。
結果、国民たちからしてみれば命を脅かされることはないのだから僅かな疑いすら生まれない。ただ自分たちを守ってくれる者たちに感謝し崇めるだけだ。
騙し潤う者も。騙されていることにすら気付かず渇く者たちも。両者には然したる差もなくアリアには滑稽に思えた。
だけど騙されている側の者たちに悪気なんてあるはずもない。逆に騙している側の者たちはどうだろうか。
――悪意しかないだろう。そう判断してアリアは自分ならばどうするのかを考える。
「私は国民を助けたい。父の手から……そう願い、覚悟を決め剣を手にした」
自分ならば迷うことなく振りかざせるその刃もメイリーには無理だった。アリアとは違い彼女は赤の他人を殺すわけではないのだから。
力もなければ剣を握ったことすらないメイリーは万に一つの失敗があってはいけないと枕元に立ったことこそが失敗だった。腐っても父。どこまで堕ちても家族。安らかに眠る父の顔を苦痛に染め上げる事などできはしなかった。
「私の心は弱すぎる……国民を助けられない私に生きている資格なんてない。次はそう心に決めて、剣を振り上げた……だけどそれすら…………」
それを止めたのがライセだという。
「ありがとう、ライセ」
優しく微笑むメイリーのお礼を受け、ライセは赤く染める頬を掻いた。
「あの時のライセは本当に怖かったわね」
「そりゃ怒るさ、あの国の現状はメイリーのせいじゃないんだ」
「……ええ。そうね。そう願いたいわ……」
自分の心の弱さを嘆き自決の判断をすることも、その愚行を止めてくれた者に対する感謝の言葉も。アリアには痛いほどに理解できる想いだった。
ここまで聞いてようやくメイリーの心にアリアたちは追いつくことができた。
そして、メイリーは出会ったという。たまたま呼んでいた本に描かれた悪魔アスタリアに。
「悪魔のことが描かれた本だったけれど、そのページだけは違って見えたの。色とりどりの花に囲まれて描かれるその姿は、まさしく天使様のようだったわ」
元から魔族に興味があったメイリーは、その一人の悪魔に魅せられて興味が信仰へと変わる。
何もかも捨てて逃げ出すようにその場所を目指した。
花の都、フェリーチアへ。
「一度でいいから、逢ってみたかった…………あ、ごめんなさい。つい……」
すぐに頭を下げて謝ったけれど、彼女の言葉に悪気なんて一分も存在してないだろう。それに……
「いいよ別に。褒めてくれてるんだろ? 悪い気はしないさ」
「ありがとう。それに私は幸運ね。こうしてアリアに出会えた」
お互いに顔を見合わせ照れて笑う。なんだかのいい雰囲気の二人を見てウニが唸る。
「アリア、私もアリアに出会えて幸せですよ!」
「お、おう」
ぐいぐいとその身を近づけるウニの圧に押され、若干引き気味に返事をするアリア。その様子を黙って見ていたセキエンが、噴き出すように高らかに笑った。つられてメイリーとライセが笑う。そしてウニが笑い、アリアも表情を緩めた。
その場に流れていた湿っぽい空気が、その笑い声を受け霧散する。
響く笑い声を受けて、メイリーの心を縛り付けていた自責の念が少しだけ緩んだことに彼女自身、気付くことはなかったが、それはそれで良かった事だと、未来の彼女はそう言える――。
「はー。こんなに笑ったのは久しぶりね」
「……そうだな」
国を飛び出すよりも、ずっと前から、メイリーは自身が背負った責任に圧迫されていた。
メイリーの表情は憑き物が取れたように晴れやかで、ライセはそれを確認して安心する。
「それで……どうするんだ? まだ行く気があるなら連れて行ってやるけど……」
メイリーたちはフェリーチアには行かないだろう――アリアはそう予測を立ててはいたが、一応確認をした。
「いえ、私たちは他にやるべきことが見つかりましたので」
「そうか……」
アリアは満足そうに頷いて続ける。
「よし。じゃあ行くか」
「ええ、お元気で。またどこかで会える日を楽しみにしています」
「ん? なに言ってんだ、俺たちも行くんだよ。お前たちと一緒に」
メイリーは首を傾げた。
「えっと……それはどういう……」
「国を救いたいんだろ? 手伝うよ」
アリアとしては自身とは違った道筋で自身と同じ境遇に身を置いたメイリーを、素直に助けてあげたいと思って出た言葉ではあったのだが、気持ちが先走っていることに変わりはない。
余計なお世話である可能性も十二分に存在しているのだからと、先行する気持ちに輪留めをかけて告げる。
「……もしかして必要ないか?」
きょとんとするメイリーはゆっくりとアリアの言葉を理解し、急いで首を横に振るった。
「いいえ、助かります。ですが、よろしいのですか?」
「よろしくなきゃ言わないよ…………まあそういうことで、よろしく」
「は、はい! よろしくお願いします!」
差し出されたアリアの手を握り返すメイリーの表情には雲一つ懸かっていない。
「で、具体的な救国案はあるか? 個人的にはとりあえずぶっ潰すのが楽でいいな」
「と、とりあえずぶっ潰せるのですか?」
「ああ、天使がいないなら楽勝だ」
「そ、そうですか……」
魔王の息子という、規格外の味方を獲得したと素直に喜ぶべきことなのか。メイリーは困惑していた。
「と、とりあえず、そうですね。フィリアに向かいましょう! 作戦は道中で考えます」
「ああ、そうしよう」
こうしてアリアたち一行は、一時的にメイリーとライセを加えた五人へと人数を増やし聖フィリア王国へと出発した。
数日後――
聖フィリア王国を目指す一行は、薄っすらと霧が懸かった森の中を進んでいた。
使族と魔族、敵対する者同士であるはずなのにメイリーの心の内に抱く想いを聞いたからか、五人を包む雰囲気はとても軽いものだった。
「ところでアリアさんとウニさんはお付き合いをされているのですよね?」
だからだろう。メイリーの口からはそんな軽口が飛び出した。彼女からしたらちょっとした話題振りであったのだが当の本人、アリアとウニには大問題。その証拠に思わず噴き出した。
「い、いえ! アリアと私はまだそのような関係ではありません!」
「まだ?」
「あ、いや。まだというかなんというか……」
必死に弁明しようとしているウニの隣でアリアは吹き出し尖った唇の形状を変えず、かすれた口笛を吹いていた。そのアリアに冷ややかな視線を送る二人の男。
「感情を隠すのが下手とかって次元じゃねえな。というかこれで隠してるつもりなのか?」
「これでもアリア殿は必死に隠しているつもりでござるよ。かすれた口笛が続く間は、そっと見守るのが吉でござるな」
「……吉って……凶が出たことがある口ぶりだな?」
「以前、茶化し続けたら頭を百メートルほどぶっ飛ばされたでござる。あれは死ぬかと思ったでござるよ……」
「頭を百メートルって、そんなことになったら死んでるじゃねえか。どういう話の盛り方だ?」
怪訝な表情を浮かべるライセの返答を受け、何でもないことのようにセキエンは話す。
「拙者はデュラハンでござるからな。頭が飛んで行っても無事なのでござる。ほら」
そう言うとセキエンは《頭だけ》を両手で持ち上げて見せた。
「って。えぇぇぇぇぇ! お前! デュラハンだったのか! てっきりヒテンの侍かと思ってたぞ! なんでプレートアーマーじゃなくて甲冑なんて着てるんだよ!」
命を刈り取る魂の執行官――首無し騎士デュラハン。それがセキエンの種族名称。
そしてライセの言葉通り、デュラハンは基本的にフルプレートアーマーを着用している。というか、緋色の甲冑を身に纏うデュラハンなど世界広しと言えどもセキエンしかいないだろう。
森中に響き渡りそうなほどの驚きの声をあげるライセに、セキエンと出会った当初の自分たちの姿を重ねて見るアリアとウニ。
メイリーは目を丸くしてセキエンに対して興味深そうな視線を送っている。
「この甲冑と刀は師匠が残してくれた形見でござるよ」
セキエンのその言葉は、理解が追いついていないライセの耳には入らなかった。
(なんでデュラハンと悪魔が一緒にいるんだよ! わけわかんねえぞ! いや、同じ魔族だからそんなにおかしくもねえのか? ヒテンの侍だったほうがおかしいくらいだ…………は! まさか!)
ライセは頭を抱えつつそこまで思考しウニに視線を送る。
もしや、ウニもデュラハン的な魔族なのか? ――そう思ったからだ。
ライセからの視線に気付いたウニは、慌てて首を横に振る。
「私は違いますよ! 首だってちゃんとありますし! 私は普通にウンディーネですから!」
ライセは石像のごとく固まり、代わりに次はメイリーが叫んだ。
「きゃあああああ! え! ウニさんは精霊さんだったのね!? どおりで綺麗なはずよ! 握手! 握手してください!」
元気いいなコイツら――。
はしゃぐメイリーとライセを見て、アリアはそう思ったのだが口には出すことはせず、少しだけ笑った。
――そんなこんなでこの日この時、アリアたちとメイリーたちは、かなり仲良くなった。
太古の時代から魔力が世界、この星を
魔力には属性が宿っている。細かく枝分かれした、その先を辿れば百種にも及ぶ属性ではあったが、その威力やイメージしやすい扱いやすさから、取分け位が高いとされている属性が七つある。
二百種にも及ぶ精霊たちの中で最上位の力を持つ種族を
そしてウニは水の七大精霊ウンディーネであった。
水の精霊ウンディーネ、風の精霊シルフはその性質上、狙われやすい。
故に、隠れ里に籠もりその身を隠しいている者が大半だ。
利便性、戦闘能力もそうだが人型を模しているその容姿は美しく、整っている――いわゆる美男美女が多いのだ。
使族、魔族問わずその能力を自陣営に取り込もうと画策している者は少なくない。
しばらくして、メイリーとライセは落ち着きを取り戻していた。その表情には反省の色を浮かべている。
ライセはふと疑問に思ったことをアリアに尋ねた。
「しかし、あんたらはなんで一緒にいるんだ? 偶然ってわけでもないんだろ?」
「いや、偶然だよ」
「偶然にしてはなぁ…………ああ! 俺たちみたいにアリアが偶然助けたってところか?」
「まあ、そんな感じだ」
アリアのそっけない返答で聞いてほしくないことなんだろうとライセは察し、知りたい気持ちはあったが無駄に不興を買うのは避けなければならないと、それ以上は口にするのをやめた。
「あの時のアリアは本当に……」
「ウニ。ストップ」
ライセの追及がなくなったことでウニが話し始めた。アリアはすぐさま静止したが、おかげで彼女は少しむくれている。
「はあ……恥ずかしいんだ。何か言うことを一つ聞くからその話は勘弁してくれ」
ウニの瞳が輝きに満ちた。アリアの頭の中を嫌な予感が駆け巡る。
「なんでもいいんですか!?」
ウニの迫力に押され体を仰け反らせる。
「す、すぐできるようなことにしてくれ……」
「それでは……」
そう言うとウニはアリアに右手を差し出した。
「……手を繋いでほしいです」
「え、いま!?」
予感的中。恥ずかしさを回避した先で待ち受けていたものは結局、恥ずかしいものだった。これすらも何か言い訳をして回避するという選択肢もあるにはあるが、その先で待ち受けているものが更なる羞恥の事態であるかもしれない。
アリアはそこまで思考して諦めたように左手でウニの右手を掴む。
(あ……あったかい)
存外悪くないものだと顔をほころばせ、現在の状況を思い出す。
少しでも恥ずかしさを無くすため最後尾を歩こうと、アリアは歩くペースを緩めたが誰一人として自分たちを追い抜くことはなかった。
アリアは振り向き後ろを歩く者を確認する。
イラッ――。
三人は自分たちと同様に歩くペースを緩め、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていやがった。自身の性格を知らないメイリーとライセは仕方がないとしても、一人紛れている古参の男。
アリアはセキエンに鋭い視線を浴びせてから、伝わるようにゆっくりと口を動かす。声には出さずに動かしたその内容は「後でぶっ飛ばす」。セキエンの表情が笑みから怯えに変わったことを確認して伝わったと安堵して前に向きなおす。
「……ウニはその、恥ずかしくないのか?」
後ろの三人は気にしないことにしたが、隣を歩き自身の手を握る彼女の思いが気になってアリアは問いかけた。
「恥ずかしい気持ちはあります……ですが、それ以上にアリアのそばにいたいのです。アリアにこうして触れていられるのなら、どんなことも我慢できます」
そう語る彼女の表情は真剣で、慈愛に満ちたものだった。アリアの赤らめた頬がさらに赤く染まる。原因は「恥ずかしさ」だけではないだろう。
メイリーとライセは前を歩く二人の会話を聞いて、同じことを考えた――なにがあってそこまでアリアを愛することになったのか、と。
二人が浮かべる疑問の表情に気付いたセキエンは歩くペースを少し下げ、呟くような小声で話す。
「愛に理由はいらないと拙者は思うでござるが……ウニ殿の場合は理由のほうが先行している事は否めないでござるな……もちろん。それがダメということではないでござるが」
「その理由ってなんだ」
ライセがたまらず聞き返す。
「…………詳しいことは拙者にもアリア殿にも明かしていない……らしいが。偶然にも命を救われた事が三度あり。偶然にも、助けてくれたそのどれもがアリア殿だった…………これは拙者にも言えることであるが、同行するようになってからは、一緒にいるというだけで『無限』に救われていると言える。そういう話でござるな」
「へえー、すごい話だな。あれ? でもさっき普通に話そうとしてなかったか?」
「あーあれは奴隷商の話でござるな。命を救われた三度とはまた別の話でござる」
「ということは四度になるんじゃないのか?」
「あの程度の危機であれば五十は余裕で超えておるよ。戦場でのサポートは当たり前でござるからな」
お互いに――セキエンはそう言葉を付け足そうとしたが必要のない補足だと胸に秘めた。
「うおおお。余計に気になるぜ……」
ライセはぶるぶると体を震わしながらそう言った。メイリーはライセから視線を切って仲睦まじく歩く二人に視線を移す。
「……そして、アリアさんのいいところは、それを鼻にかけて自慢したりしないことなのでしょうね。普通そのような美談は語って聞かせたいでしょうから」
自身と変わらない歳に思える少年に、尊敬の念すらも抱きながらメイリーは呟いた。
「メイリー殿もすでに貸し一つ、と言ったところではないでござるか?」
セキエンは悪戯っぽくメイリーの呟きに答えた。
「確かにそうですね……」
メイリーは思う。
今から行く場所で、果たされるその成果によっては、一生を尽くしても返しきれない程の恩になっても不思議ではない、と。
セキエンは満足そうに頷くと自身を刺し殺さんとする程の視線に気付き、恐る恐る視線を前方へ移す。
気のせいだったのだろうか。アリアが自身を見てはいるものの表情は穏やかな笑みを浮かべている。
その思いこそが気のせいだった。ぶっ飛ばし宣告を受けた時と同様に、アリアの口がゆっくりと動き出した。前回と同様「後でぶっ飛ばす」ならばどれほど幸せなものであったか。
今か今かと待ちわびるセキエンの元に届いた言葉は。
「こなごな」という、たったの四文字だった。
少しの思考を挟んで自身の顔面から血の気が引いていくのを感じる。
(こなごな……粉々!? どこを? どのようにしてでござるか! アリア殿! ……ど、どうかご慈悲を……)
情状酌量の余地なし。心の中での懇願が、アリアに伝わるわけもなく――その時をもってセキエンの何かしらが粉々になることが決定した。
三人の会話をアリア同様に聞いていたウニは、思い出す。
アリアに救われた最初の出会いを――――。
ウンディーネの隠れ里、エナリスの泉。
その場所は今歩いている森以上に、深い霧で覆われていた。
幻惑の霧。と呼ばれるその霧はウンディーネが外敵から身を守るため、独自に散布させているものだった。その霧のおかげで、今の今まである程度の平穏を保っている。
ただ、やはりある程度でしかなかった。
ある夜、唐突にその平穏は脅かされることになる。
エナリスの泉周辺に来訪の笛の音が響いた。来訪の笛と言ってもそれは歓迎の音色ではない。隠れ里に身を隠している時点で分かるように、ウンディーネたちは外の世界を生きる者たちとの接触を完全に遮断して生きてきた。
だから今回鳴った笛の音も、客の歓迎ではなく、敵の襲来を表している。そしてその音色は最大警戒を告げていた。
最大警戒が鳴っている時点で逃げることは不可能。話し合いで何とかするしかない。そう判断した里長の《グルクマ》が騒ぐウンディーネたちをなんとか鎮める。
静まり返った泉上空に姿を現したのは天使だった。
百を超えるその天使の数は中隊と呼ぶべき規模なのだが、天使の振るうその力を考えれば軍団と言っても過言ではない。
指揮官である天使の一人が泉の水面ぎりぎりまで高度を下げると宣言する。
「これより、この里に住むウンディーネは大天使ミカエル様のご加護を授かる! 我らに逆らうものは殺してよいと言付けを受けている故、理解せよ! それと、里長は名乗り出ろ!」
グルクマ・ウィンディーネ――ウニの父親が水面に立つ。
「私が里長だ」
「一人……
贄――つまり人質を差し出せ。それを平然と口にするその天使とは話し合うことなど不可能。グルクマは怒りを向けずにはいられなかった。
だけど長として判断としては失敗だった。抱いた怒りの感情こそ鎮めなければならなかった。
グルクマの怒りに気付きその天使は言う。
「貴様、子供はおるか?」
グルクマはすぐに気付いた。「いる」などと言ってしまえば……いや、気付かれた時点で自分の子供を人質にとられてしまうと。
だから必死に平静を装って答える。
「……いない」
「ふむ。嘘はよくない」
看破された。こうも容易く。
それもそのはず、天使には能力に大小差はあれど、皆一様に《邪眼》という目を持っている。
邪眼とは読んで字のごとく、邪な心を見抜く眼である。天使にとって噓を見破る事はそう難しいことでは無かった。
逆らうものは殺してよい。
ミカエル様の御心のままに、天使は握った剣を振り上げた――。
そしてそのまま振り下ろす。
「お父さん!」
天使は剣を止め、笑う。その表情は悪意に満ち満ちていた。
「やめてくれ……頼む……連れて行くのなら俺にしてくれ…………」
グルクマの頬を伝う涙も、心の底からの懇願も。その天使には届かない。
「断る」
天使はそれだけ告げウニを泉から引き上げる。
暴れる非力な少女の首筋に剣が押し当てられた事でウンディーネたちは誰一人として動けないでいた。
副官のような天使二人に抵抗をやめたウニを引き渡しその天使は宣言する。
「今日この時をもって! 貴様らは我々を――――」
グルクマに天使の声は届かない。二人の天使に羽交い絞めにされて「助けて」と泣いている娘の声だけが彼の心を大きく穿つ。
父として助けるべきは娘であることは明白なのに、長としての心が体を動かさせてはくれない。
ウンディーネたちは自分たちと少女の命運を祈るしかなく、
――――奇跡に。
満月の中心に黒い影が現れる。
グルクマだけがそれを目撃した。
ぎゃあああああ――。
刹那。その影は忽然と姿を消して、上空で待機する天使たちが次々に悲鳴を上げる。
「なんだ! どうした!」
指揮官である先程の天使が振り返り声を荒げる。
目撃した瞬間に逃げ出すのが正解だっただろう。上空を飛んでいる天使の数は、一瞬で半分以下に減っていたのだから。
「貴様! 何者だ!」
漆黒の翼を羽ばたかせ空に立つ、その者に歯を軋らせて指揮官が叫ぶ。
だがその者は答えない。突如、指揮官の視界からその者は消えた。
「ぐあっ!」
指揮官の横を飛んでいた副官二人、少女を捕らえていた二人が墜落する。
誰一人として状況を理解できていない。
だけどウニだけが一つの結果を理解していた。先程まで自身の身を包んでいた強引な縛りはなく、優しく抱えられいることに気付き、自身が助かったことを教えてくれているから。
自分を抱え、助けてくれた者は険しい表情を浮かべている。まだ戦いは終わっていない。分かっていたが、ウニは聞かずにはいられなかった。
「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
御礼よりも先に少女から放たれたその言葉に毒気でも抜かれたのか、その者は険しい表情を綻ばすと告げる。
「アリアだ」
アリア――ウニはこの名前を、存在を、生涯忘れないと自身に誓った。
「ウニ! ウニ!」
「え? あ、はい! ウニです!」
アリアに名前を呼ばれウニは、過去に飛んでいた意識を引き戻した。
「ぼーっとしてたけど大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です。少し考え事をしていました」
「そうか。それでそろそろ手を離してもいいか?」
その言葉でウニは自身の右手を包む温もりを思い出した。
「あ、はい。そうですね。いやです」
いやなのかよ。アリアは心の中でツッコんだ。
微笑を浮かべる彼の横顔は、先程まで見ていて過去の記憶と同じものでウニは笑う。
アリアとの出会いを思い出すだけで、満たされる心。内から溢れる温かさと、外から包み込む温かさ。その両方がいつまでも続きますように――そう願いながらウニは彼の手を強く握りしめた。
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