第9話 自由、足跡。
ジルト連邦市民は、自由と自律を好む。
国家の主権は市民一人一人の総意に存するという、危うくも美しい、ガラス細工のような思想は、「立つ」「律する」といった動詞の頭に「自」を付けて、やがては「傷付ける」や「殺す」といった動詞にも同じようにするだろうと思われたが、この時点ではまだ前者の2つに止まっている。
連邦のステンドグラスの自由は、聖なる夜の暗闇に、家族の団欒の明りを灯す程度には力を持っていた。だが、ガラスが衝撃に割れ砕け、熱に溶けるものであるのを忘れることはできない。
いつか他の国で苛烈なる覇者が誕生し、軍靴の轟きと臣民の熱狂が連邦を包み込んだなら……
連邦首都セントルの明りの中に、そのような空想を描く家族は居なかった。ある男の家庭も、プレゼントを抱きしめる少女の笑い声に包まれている。
雪が降り積もり、まばらな足跡がまた薄らぎ始める頃、悲劇を前にして空気は澄み切っていた。
「とある国の話だ」
コーヒーに付き合え、と側近のジェイ・レンドン大佐をテーブルにつかせたウェルナーは、味の落ちたコル・ブレンドを飲んで眉をひそめた。
「その国で生まれた男は、ある女を愛していた。その愛していた女と結婚しようとした男に、神父は言ったんだそうだ。『今、汝ら罪多き身なれば、祝福されざるなり。主の御心に寄り添い給え。さすれば主もまた、汝らの心に寄り添わん』、とな」
「結婚が、認められなかったのですか?」
「……男は何としても祝福を受けるために、10年、死に物狂いで神父に仕えたんだそうだ。だがあるとき、その女が路上で強姦に遭って死んだ。男は主を恨んだ。何が御心だ、何が寄り添うだ」
「神を恨むのは……いや、神を恨むのも仕方のないことかもしれませんな」
「欲深く肥えた豚が。人を弄ぶ死神の傀儡が。そう言って男は都まで行くと、飾られた椅子に座る教皇と周りの司教共を皆殺しに……」
「……それは」
「冗談だ。男は何もかもどうでもよくなって、今度は自分が大司教になってやろうと、教皇の下で働き始めたんだそうだ」
「はあ、いや、なんとも、救われ難い話ですな」
「そう思うかね?私はこの話が結構好きなのだ。虐げられた人間は、ときにまた誰かを虐げんと欲するのかもしれない、とな」
ある国の、名も知らぬ男が語ったほら話だ、忘れろ。そう言うとウェルナーは、レンドンが最後のひと啜りにカップを傾けるまで、黙って窓の外を眺めた。
「いずれにせよ、パトロ・バルスキに接触しないことには、何も分からないのではありませんか?仮にバルスキ作戦が内通によって仕組まれ、連邦が我々を害しようと企んでいるのだとしても、全ては餌の我々が落とし穴に嵌ってからの話であるはずです」
「確かに、落とし穴を掘る者は、必ず木陰で様子を見守るものだ。我々が罠に掛かった瞬間が、謎を知る唯一の手掛かりと言えるかも知れんな」
一行はベリノルバッハの部屋で仮眠を取った後、これからの行動を深夜まで会議した。
仮に作戦が内通の賜物であるとするなら、それは立案者であるウェルナーを黒幕に見定めることも同義であった。しかしながら、全ては仮定の話である。
ウェルナーは糸で操られた人形であるかも知れなかったし、或いはただの海軍大将や、傍観者であるかも知れなかった。そしてそもそも、作戦とゲルグンの死には何の関係も無いということも、十分に考えられた。
もう一人の諜報員、ここで仮にAとする者についても、ベリノルバッハとAが互いの居所を知らず、部員の内の誰であるのかも推測できない状態であったから、いくら探ろうとしても、それは白紙のトランプで神経衰弱をするが如き所業であり、一行は諦めざるを得なかった。
「明日早朝、バルスキが研究社に出勤する前に、彼の邸宅で作戦を決行する。准将閣下、邸宅の位置情報は入手済みですね?」
「ああ、ラプトー郊外の15番地だ。今地図を持ってくる」
「それと、これを配っておく。ヤラルトの連中から譲ってもらった」
「これは、駅内の専用無線」
「駅を出たら使えないのでは?」
「駅内用に改良される前の一般用だそうだ。300年前の遺物であることに変わりはないが、何かあったときの為に持っておくと良いだろう」
こうして、バルトロメオ歴260年・大陸歴2860年12月26日早朝、パトロ・バルスキ、陸軍兵器研究社研究開発部主任の拉致が決行されるのである。
転生したら帝国軍人になっちゃった!? 若き絶対君主にやたらと重用されて困ってますwww 藤野 里人 @FujinoSatohito
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