君の殺人論

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君の殺人論

 僕には友人がいる。

 聡明利発。

 闊達でいてとても丁寧に人と接し、よく周囲を笑わせる。

 まるで晴れた初夏の日差しのような。

 それでいて清流の流れるように穏やかな。

 こんな魅力的な人間がいるのだと、初めて出会った時には少し驚くような気持を僕に抱かせた男だ。

 そんな彼の名を、仮にYとしよう。

 Yとは大学の同じ講義を通して出会った。

 ある日、僕らはとある論文への考察発表を課題として出されたのだが、発表した日の授業後にYの方から僕に声をかけてきたのだ。

『君の思考は、とても素敵だね』

 Yはそう言って僕の発表をいたく気に入ったと述べ、僕を昼食に誘った。

 それから僕らは軽い食事片手に、空き教室で長い休みを静かに語らった。

 まず述べておくなら、僕は元来人を寄せ付けぬ性質だ。

 あまり交友を好む方ではなく、会話というものにも苦手意識がある。

 そしてそもそもが一人という時間を心から愛していた。

 だからその日Yという男にまんまと対話へ引きずり込まれたのは、僕にとって衝撃的な経験だった。

 しかし、Yをいう男は巧みだった。

 人に開かず、己という城を堅牢に守る僕を、それでいいじゃないかと柔らかく突き崩した。

 彼は、全く見ず知らずの僕を。

 ただ論文の考察の中に僅か落とした思考の片鱗を。

 たったそれだけを美しいと愛して、僕を丸ごと自分に受け入れてくれた。

 それは、僕という存在との未来を望みたいという、この先のあらゆる変化に共に挑もうと手を差し伸べるようにな受容だった。

 彼は僕との未来が暗澹たる結果となるとしても、それも悪くないとその日から本気で思っていたのだ。

 そんな生ぬるいメルヘンのような彼の覚悟を最初の日の会話で思い知らされた僕は、圧倒された。

 その途方もない受容に怯えもした。

 しかし、僕は囚われた。

 彼の眼差しに囚われ、彼との未来を無意識に受け入れてみたいと思っていた。

 だから僕らはその日の会話という儀式を通して、生涯をかけた友情の船出をしたのだ。


 *


 さて、彼のとの出会いについてはこれくらいにしよう。

 実は、よくできた人間の手本のような彼にも、よくできた手本のようだからこそ、欠点はあった。

 ブロッコリーの茎が少しだけ苦手な事(食べられないわけではない)。

 女性にも好意を持たれるという同じ男として多分に羨ましい境遇であるのに、友情以上にあまり興味がない事。

 寝汚く、朝に弱いこと。

 実は丁寧な一面に反して、ひどく面倒くさがりなこと。

 人はそんな彼の些細な欠点すら好意的に愛した。

 でも、僕だけは知っていた。

 Yが自身に思う、彼曰くより重要な欠点は――――付き合いの浅い人間に知られれば必ず眉を顰められる類の欠点は、Yがデコイとして時折意図的に見せる好意的な欠点に巧妙に隠され、確かに彼の内に存在していた。

 彼はそれを、僕だけには包み隠すことはなかった。

 より正確に言うなら、僕の心の準備ができるのを怜悧に見極め、少しずつ小出しにしていった。

 Yは僕に、彼自身を賭けたゲームを無言のうちに持ち掛けていたのだ。

 思考の乏しい僕は、まんまとそれに乗せられていた。

 それに気づいた時、僕は怒りを覚えるよりも、ひどく当惑した。

 そのような行為に出る人間を他に知らなかったからだ。

 理由を求める思考が先に来た。

 Yは僕に何も包み隠さない目で、僕が投げかけた問いには真摯に答えてくれた。

 しかしYの内部はこれまで会ってきた誰よりもコンプレックスで、僕は一層混乱してしまったのを憶えている。

 それでも彼は僕に乞うように言った。

『分からないなら分からないでいいんだ。ただ、それを受け入れて』

 彼を、僕が受け入れることができるかどうか。

 Yが一方的に持ち掛けたそのゲームを投げ出さないことを、しかし、それも僕の自由だと許しながら、希うように言った。

 結論を言うなら、それから数度の衝突を経て、僕は現在までYとのゲームを続けてる。

 このような行為をゲームと評する彼の精神を批判する者もあるかもしれない。

 しかし友人として一つ断っておくが、Yは決して軽薄な人間でない。

 全くの逆だ。

 僕はYほど誠実で真剣に他者を見つめる人を知らない。

 彼は全く、信頼に能う人間だった。

 だからYがゲームという呼称を使うのも、彼の特異な思考がもたらすユニークな言語選択の結果に他ならない。

 もう少し言葉を足すなら、Yにとってゲームとはルールがあり、対戦者は盤上において公平。

 対戦者の僕を正面に捉え、必ず対等に扱うという誓いの、無意識の表れでもあったのだ。

 Yは、そんなユニークな男でもあった。

 そして逸れた話を戻すが、Yにはそのユニークさゆえに、一般的には理解するものが少ないであろう欠点があった。

 その一つが、人を分析するときに殺人を犯す手法を例にして話したがるということだった。


 *


『今日合同ゼミで組んだ彼、あの思考の混濁の様子では、軽率に事を犯す傾向がありそうだ』

 ある頃からだ。

 そんな風にYは僕に、僕ら以外の人間について考察するとき話を振るようになった。

 ある程度Yの人となりを察し、友情を重ねてきていた僕は、それを自然に受け入れるようになっていた。

 僕はただ静かにYの殺人を犯す手法に例えた彼の他者への印象を聞き、それに相槌を打ち、淡々と意見を述べた。

 それらを傍から全く僕らを知らない誰かが聞いていたならば、きっと僕らを非難の目で見ただろう。

 でも僕は殺人という例えをする彼に嫌悪を抱くことはなかった。 

 なぜなら、Yのそれは現実と思考にきっちりと線を引いた、分別のあるものであったからだ。

 Yは己の思考を上手く共有するために、殺人論を利用しているに過ぎない。

 そこに殺人を肯定する意思などなく、増してや殺人を口にすることへの軽率さもない。

 彼は自分が倫理に触れそうなラインに立っていると知っていた。

 それを他者は否定的に見ることも知ってた。

 決して安直に人に見せていい思考の一面ではないとも弁えていた。

 そんな彼の冷静を。

 それでも正確に伝えるにはその手法を望むと、リスクを踏む彼の熱情を。

 僕には反倫理的な雰囲気を纏う手法で挑むという捨て身を。

 僕は全て見つめて受け入れた。

 Yの真摯を信じると、僕の真実が頷いたから。


 *


『僕は、きっと二つの殺人手法を持つ。一つは冷静に死体の始末までを計算に入れた冷えた手法。もう一つは、自己の破壊を目的にした激情に突き動かされる刹那の手法だ』

 Yは自分自身についてはそう、常々言っていた。

 曰く、彼には人間が持つ静と動という要素を一段高めたような内面があるのだという。

 深海の底のような不動の静が前者の殺人を可能にし、もう一つの瞬間的に膨れ上がる核爆弾のような情動が後者を可能にするのだと。

 僕は彼に、そのような二面性は誰もが持つものではないかと問うた。

 Yはその問いに、『確かにそれは正しい。しかし、僕はこの各人がそれぞれ持つ静と動の微細な個性について、上手く説明する術を持たない。だからこのように殺人論にて、君に僕の言わんとする真意を感覚で捉えてほしいのだ』と。

 僕は彼の言いたいことが、最初はよくわからなかった。

 だが少しずつYの分析した架空の殺人論の例えを積み重ねるうち、おのずと理解が及ぶようになった。

 Yは短い言葉では評しえないものを、殺人論を主題とした対談によって、僕と共有しようとしていたのだ。

 僕は、それをいつの間にか納得するようになった。

 人間は深遠だ。

 深遠でいて、簡潔ともいえる。

 簡潔な見方をするなら、言葉は大いにその役目を全うするだろう。

 端的な文によって、形ない概念を表すだろう。

 だが深遠な見方をした場合、少なくとも僕らは切り取るという手法で言葉を利用することはできなかった。

 削るのだ。

 語り、言葉を尽くし、途方もなく対話を重ね。

 そうやって莫大な何かを削り、形ない何かにたどり着こうとする。

 Yはその深遠な手法のプロフェッショナルだった。

 彼は、だから深遠な手段によって、見えない、形のない、己の内面を僕に伝えようとしてくれていた。

 そのための膨大な他者の殺人論の事例。

 長い対話。

 時間だった。

 僕はそうやって、Yを知っていった。

 彼の殺人思考によって、形ない彼を見出そうとしていた。


 *


『僕は掃除がとても面倒な性格だから、基本的には後始末をよくよく考えて殺すだろう。犯行を隠蔽するための努力を軽減するためにも、細心の注意を払うはずだ。だから、これが意外と殺すのは本当に最後までしないタイプだよ』

 そう自分を評するYに、僕も頷いた。

 僕の中でも、彼を受け入れてきた印象と整合がとれていたからだ。

 だが、彼には忘れてはいけないように動の手法もある。

 それを僕にYが苦し気に打ち明けたのは、彼が長らく患ってきた個人的な悩みの過渡期にあった時だ。

 その悩みについてはここでは言及しないが、朗らかで何も影を感じさせない彼にも、悩みは深かったのは確かだ。

 Yはその問題にひどく苦しんだ果て、僕に欝々と打ち明けた。


『僕はまだ動を受け入れていないんだ。動は、僕にとっても、周囲にとっても、あまりにも暴虐すぎる。現状では、決して見せることはできない。もしも僕がこの綱引きに破れたら、動の殺人手法はこうだ』


『僕はあの人に馬乗りになる。心から敬愛するあの人に降魔の如く覆いかぶさり、手にした煉瓦を振り下ろす。棒状のものでもいいだろう。接する面積が小さい分、力がかかりやすい。しかし手が滑る可能性も大いにあるし、重量も乏しいと思う。だから煉瓦のような掴みやすく、ブロックよりも軽くて振り回しやすいものがいい。それを僕はあの人に振り下ろす。煉瓦はあの人の固くも脆い骨の球を砕き、内部の脳を小気味よく、軽々しく潰す。僕は何度も振り下ろす。穏やかで僕自身心から慕ったあの人の笑みがあった顔が潰れていく。僕は興奮冷めやらない。しかしまるで流れ作業のように行為を繰り返す。あの人の頭部を地面に平らに広げるまで、ずっとずっと繰り返す。周囲で人が見ている。それらがあげる悲鳴も、僕には蚊の羽ばたき程には気を取られない。ただ続く絶叫を心地いい声援に、僕は解放されていく。沸き立つ情動が解放されていく。僕はそれが罪だと知りながら、何一つ後悔などしていない。そして罰せられることすら理解しつつも、全く重きを置いていない』


 僕はただYの殺人論を聞いた。

 ただ彼を聞いた。

 それはあたかも冴えわたった、明解な音楽の旋律だった。

 Yは何一つ飾ることなく、形なき己の内側に挑むようだった。

 僕はただ涙した。

 彼を憐れんだのではない。

 僕らはボードの上で対等な対戦者だ。

 そして長い時間が緩ませた、穏やかなつながりを持つ者同士でもある。

 僕はYが望んだ『その通り』を、その時には知っていた。

 だから僕にとって選ぶものは一つ。

 彼を見つめ続けるというゲームの続行意思を示すだけだった。

 Yはそんな僕の目を見て、苦悩にまみれて笑った。

 君を見つけてよかった。

 僕にとって君は幸いだった。

 そう言って笑った。

 僕はあまりに過剰な表現に、それは極まりが過ぎると肩をすくめた。


 *


 さあ、最後にしよう。

 誤解を恐れずに言うことが許されるのなら、僕は、彼は見事な殺人を行うだけの資質を持つ男だと思っている。

 Yの明晰な頭脳はそれを確かに成し遂げるであろうし、彼の堅牢な意思は、なすべきと判じたならば行うものだろうと感じているからだ。

 ただ、だからと言って僕はYが怖いかと訊かれれば全くそうではないと答える。

 彼を恐れるには僕はもう彼を知りすぎているし、僕は――――そう、もう侵されているのだ。

 それは何か?

 それはYが殺人論を通して僕に注いできたマヒという毒だ。

 僕はもう、彼に出会う前程、殺人論に動揺しない。

 彼が僕をそうやって導いた。

 だから僕はもうYの毒をグラスに注がれても躊躇うことなく飲み干す程度にはコマを進めている。

 僕は彼を注がれ、そして同時に、彼は僕を飲み干してきた。

 僕らはお互い犯し合ってきた。

 だから。

 ……だから、そう言うことだ。

 僕はいつの日か――――勿論、Yはひどく面倒くさがりかつ、激情を制する堅牢な精神を併せ持つが故にその可能性は著しく低いと量っているが――――彼がいつの日か殺人を、語ってくれた手法で犯すとしたら、僕は公平でルールを重んじる彼が粛々と法に己を差し出す背中を見守るだろう。

 彼はそれをきっと僕に望むし、僕もそれがふさわしいと思うからだ。

 例えYが己の犯した罪にまったく後悔などないとしても。

 世間がYに心からの反省を求め、彼が実直にそんなのもはないと答えるか、あるいは世間の心情をその優しさゆえに汲み取って完璧な反省の姿勢を演じつつ、頑なに処罰に関しては裁きが全うされることを望むとしても。

 僕は彼をずっと見ている。

 彼をただ見つめている。

 それが僕の彼への愛だからだ。

 友愛というものを示す手段だからだ。

 

 さぁ、本当に最後だ。

 ここまで長い語らいに付き合ってくれてありがとう。

 この話の締めくくりに、僕はもう一つだけあなたに話してみたいことがある。

 僕は実は、Yという魅力的な男に明確な嫉妬だって抱いた仲だが、それを告白した僕に、彼は言ったのだ。

 君という非凡な人を眩しく見るとこともあると述懐した僕に彼は、こう言った。



『僕が非凡だというのなら。

 この非凡な僕の語るものを、時に理解が及ばないと言いつつも、その実君は形ない感覚で僕をきっと捉えている。

 でなければ、及ばない理解を穴埋めする身勝手な解釈で僕を恐れた今までの人々のように、君は僕を恐れたはずだ。

 けれど君は僕を恐れない。

 僕を形なく捉えているから。

 そんなことができる君という人も、実は非凡という見方はできないだろうか?

 そしてまだ僕は、君が最終的にどうやって殺人を犯すをかを辿っている最中だよ、生涯をかけてね』

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