陰キャ少女は影に溺れる

 静謐な空間。古ぼけた図書館の一角、二階へと上がる階段の下に大きな本棚で隠れた埃っぽい秘密基地。薄暗い橙色の明かりが降り注ぎ、誰の手にも取られない装飾的な本棚を抜けて、隠された秘密の園をそっと照らしている。秘密の園には司書の知らぬ古ぼけた本が煩雑に積み上げられた、皺の深く入ったソファーが置いてある。

 そのソファーに無理やり作ったかのような一人分の特等席に座り、赤の表紙にくすんだ金色の背表紙には『明日について』と書かれたヘンテコな本を読み耽る一人の少女がいた。

 濡れ羽色の髪の毛はソファーについて流れ落ちる程長く、顔を少し下に向けて、髪の毛を避けるようにして本を読む姿は、ある種神聖ささえ感じる。時折、前髪を耳にかける仕草をすると、半開きの目の生気のない瞳が一心不乱に文字を追っているのが見える。

 群青色の古めかしい赤いリボンのついた海兵隊制服に身を包むが、サイズが合ってなく、本をめくる手は指先以外隠れ、スカートの裾もソファーに座っていてなお脛あたりまである。悪くいえば芋っぽい。良くいえば清楚だろうか。

 そんな喪服少女が誰にも邪魔されないであろう秘密の園で静かにひとり、読書をしていた。

 彼女の一日は単調で単純で分かりやすい。

 朝、母に起こされる。彼女の部屋は二階で自分で降りるのも億劫な朝は、母におんぶしてもらって食堂まで降りていく。食堂につくと、温かい食事が用意されており、微睡の中で必死に箸を持ち、白米を口に運んだりしているとすぐに時間が経つ。そうこうしているうちに、洗面台に立ち、顔を軽く洗って髪を梳かす。それから真っ黒の学校指定の靴下を履いて、パジャマを脱いでスカートを装備する。鏡など一瞥もせずにセーラー服を着て、セカンドバックを持って玄関に行く。すると母が出てきて、私を引っ張って化粧台に座らせ、何やら粉なり液なり濡れと指示してくるので、せっせと塗る。ようやく解放されると、学校へとよたよたと向かっていく。

 学校では、これといって何もなく、「無」の一日を過ごす。人とのふれ合いもそれなりにして、体育もそれなりにして、弁当は文学部の部室で一人で食べる。午後の授業も淡々と過ごし、友達っぽい人たちと軽く話したりしながら、帰路につく。

 そして、帰り道にある古ぼけた図書館へと足を運ぶのが日常だった。

 


 

 広い駐車場を備えた古びたレンガ造りの市民図書館。二階は郷土資料館となっているが活用している人間はおらず、職員一人がぽつんと暇そうにしている。

 一階が図書館となっており、利用者は二階よりはまま多い。とはいえ、学生の姿などほとんどなく、せいぜいが小学生が一人二人いる程度で利用者は少ない。

 木目調のタイルが張られた床は所々かみ合わせが悪く浮いていたり、砕けていたりと時代を感じさせる。照明は白熱電球で館内全体が橙色の温もりのある明かりで満たされ、書架に収められた本は新旧様々で話題の新刊などは入口に特設コーナーを作って並べてあったりと、図書館としての機能は十二分に果たしていた。

 私は人のいない、この静かな図書館が好きだった。市内には駅前にもう一つ新しく綺麗な図書館があったが、そちらは近代建築らしく清潔感のある白を基調とし、照明も白色のLED電球で目が悪くならないように配慮されている。何より、駅前の商業施設の一角に作られた、キッズスペースや学生のための勉強スペースなど多様なニーズに応えられるように設計された図書館であり、そのためか、学生はもちろん、買い物前の主婦や、子連れの親など利用者は多岐にわたり、数も多い。市政としては大正解なのだが、私にとっては最悪の図書館と言っても差し支えなかった。

 だから、日陰が好きな私の聖域は、古ぼけた図書館の―――さらに暗闇―――二階へ上がる階段のその下にできた小さなスペース。そして誰が置いたか、小学生ぐらいの子供が利用することを想定されていたであろう小さめのソファーが置かれ、分類分けされていない本が数冊入った背の引くい書架が一個、壁際に置かれたここが、大好きだった。

 小さいころからこの場所が好きで、見つけた時からずぅっとここに引きこもって自分の好きな本を読み耽っている。その様子は昔からいる司書も知っているので特段注意されることもなかったし、そもそも私以外に使う人間はいないので他人に譲るなんてことを考慮する必要もない。

 日がな一日好きな本を持ち込み、積み上げ、まるで魔法使いの隠し部屋のように仕立て上げ、悦に浸っていた。他人から見ればキモイかもしれないが、誰にも見られていないからへっちゃらだった。

 そんなこんなで、今日もいつものようにセカンドバックを床に置き、私一人分のスペースが空いたソファーにぶっすりと座って、積み上げていた本の一番上を手に取って開いた。

「んぁ」

 吐息が漏れるような声。反射的に開こうとしていた本を閉じ、一つしかない小さな出入口に向かって飛びのき、積みあがった本と階段の陰になって真っ暗な空間をじぃっと見つめる。

 誰かいる。誰かいるのだろうけれど、見えない。

 本を読むのに便利だろうと、無駄に分厚い黒縁の眼鏡をはずして目をこする。そして、深呼吸を一、二度して眼鏡を、かける。

「だっ、誰?」

 張り付いた喉が声をうまく出せない。けれども、吐き出すようにして音を出して、暗闇に向かって問いかける。

 暗闇は私の安寧と安定の一助を担っているだろうけれど、時として冷たく恐怖を煽り、牙を向けてくる。全てを隠す漆黒は、決して私の隣人ではない。

「………ぁ」

 ずららと積み上げていた本が崩れ落ち、暗闇から手が伸びてくる。

 足がすくんでいるわけでもないのに、私はこの場を離れることができなかった。厳密には、離れる気がなかった。

 私の手が恐怖を超えて伸びていく。目をつむるような鮮烈で悲惨な物語を綴った本を読むときのように、好奇心が止まらない。続きを知るためには手を伸ばさないとダメなのだ。あの暗闇に潜む何かに。

 暗闇に手が吸い込まれていく。そして、何か生温かく柔らかい何かに、触れた。

「んぁ!」

 しっとりとした生温い肉感のある何か。生物らしい音が聞こえるから、皮膚と皮下脂肪の組み合わせであろうとは思うが、恐怖で指が離せなかった。

「んーんーんー!」

 静謐な図書館に声が響き、こだまする。

 私はびっくりして、もう片方の手を伸ばして、おそらく人間らしいそれをつかんで引っ張り出し、ぎゅうと抱きしめた。

 とりあえず、大声を出されるのをやめさせたかった。大人が来るかもしれないし、誰かに注意されるかもしれない。この場所のことは別に隠してはいないけれど、多くの人に知られるのは嫌だった。自分の大切な場所を守るために体が勝手に動いたのだ。

「んー、んーんーんー、んんー」

 私の胸の谷間でもごもごともがくそれを、私はじぃっと頭を下げて見つめた。

 すこし”こしょばゆく”、人肌の人間。血の通わない化け物ではなさそうだった。

「はーなーしーてー」

 もごもごとしながらも、必死に私の腕の中でそういうので、私は「静かにして」と言いながらそっと腕を解いた。すると、しゅるしゅると小学生ぐらいのサイズだった”それ”は、突如、真っ黒な球体に変化した。

 声でも上げればいいんだろうが、本の中でしか出会えない想像上の生物………ではないけれど、本の中でしか語れないような空想上の生物ではあるそれを目の当たりにして、異形のものと拒絶する人間と我が身の好奇心を満たすために手を伸ばしてしまう人間といるならば、私はきっと後者なんだろう。

 もはや人間の形ですらない”それ”に再び手を伸ばし、そっと頭であろうてっぺん部分を撫でてみるのだった。

「ンァー」

 決して可愛げがある鳴き声? ではないけれど、逆にそれが私の背筋をゾクゾクとさせる。

 変な冷や汗と、変な笑みが漏れ出てしまう。手から伝わる人肌のぬくもりがかえって気持ち悪く、一層私をゾクゾクさせた。

 奇妙なことに真っ黒な球体の頭をなでりなでりとすると、一個しかない瞳が気持ちよさそうにゆっくりと瞼が落ちていく。手を緩めると目力の強い瞳をギャンとかっぴらき、私の手を上目遣いで凝視するのだ。まるで犬か猫のようで、少なくとも私のことを圧倒的暴力を持って害する存在ではなさそうだなと漠然と感じた。

 ”それ”は無理やり品目で分けるのならば頭足類といった具合で、真っ黒な球体から”指先のない”―――オブラートに包めば、さながら国民的ピンク色の悪魔のような――手と足が生え、目は一つ、口は一つの地球上の生物とは考えられないフォルムではあるけれど、不思議と忌避するというよりは愛らしい外見だと私は思う。

 こうして、頭っぽいところをなでると、

「ンァーナ」

 奇天烈な声を上げる。ちょっと可愛いではないか。

 とはいえ、どうするべきか。猫がいるとかいう問題ではない。バケモンがいるんだ。

「どうしよ………」

 思わず声が漏れる。

 答えは降って出てこない。司書に聞くわけにもいくまい。親に相談するわけにもいくまい。友人に相談するわけにはいくまい。警察に相談するわけには、保健所に相談するわけには、いくまいまい………。

 そんな私の心配を感じ取ってか、真っ黒な球体はむくむくと姿を変え、ものの数秒で先ほど暗闇から引っ張り出した時と同じ形―――人型に変化していた。

 床につくほどの長い黒髪に、小さな顔と体。常に腰を曲げないといられない私と違って、すっくと両足でたって丁度の身長。服はどういうわけか真っ黒のワンピースを一枚着ているけれど、それ以外は何も身に着けていない。試しにと思ってぺらとワンピースの裾を捲ってみると、ぱ―――ンツの一枚も履いていないのでそっと裾を戻した。

「えっち」

 性別はこの際問題ではないので、心の中にそっとしまうことにしたが、そんなことよりも、”私にそっくりな”異形が私の性癖を壊すようなセリフを吐くのである。由々しき事態であると、私の自制心がアラートを出している。

 ―――と、いうより、やはり人型をとっているときは喋るらしい。それに、立ち振る舞いも外見よりもずいぶんと大人びているというか、知恵があるというか、ちゃんと人間である。

 なら、名前でも聞いてみるかとぼーっと私を死んだ魚の目のような双眸で見つめる、少女型の化け物に声をかける。

「お、ご」

 頭で考えても、口にでない。

「ごー………尊名、は?」

 外見は年端も如何ぬ少女だが、異種族異形怪異魑魅魍魎相手にへりくだって損することはないだろうと、ヘンテコな聞き方になってしまった。

 眼前の少女型化け物は小首を傾げて、はて? といった感じだ。

 しかし、少し迷った後にゆぅっくりと口を開いてくれた。

「てこたん」

「は?」

 意味不明すぎて、咄嗟に聞き返してしまった。

 すると、不満そうに少女型化け物がもう一度言う。

「てー、こー、たーーーん」

「は?」

 やっぱり意味不明だった。

「てこたん? な、名前?」

「てこたん、そう」

 覇気もなく、深く頷く。そして、満足そうに少しだけ微笑んだ。

「ちなみに、てこたんはてこたん」

「は?」

 なんだこいつは。言葉が通じるようで通じない、サイコパスと会話をしている気分になる。

 ただ、世の中の子供たちは社会通念的感覚の欠如からえてしてサイコパス的発言を往々にしてするものだろうなぁと思えば、今だって別に背丈から判断すれば、かわいらしい子供補正でなんてことないのだ。

 見てみなさい、私と目線を合わさまいと視線を交互にずらし、お尻をふりふりと頭をふりふりと振りながら、ぼぅーとその場に立ちんぼしているその姿は、なんとも愛くるしい? ものじゃないか。

 と、思うことにして目の前の”私にそっくりな”少女が化け物だということを払拭しようと試みる。

 そう、”私にそっくり”………

「私にそっくり、だ………」

 唖然とする。見た瞬間に感じた一番の違和感はきっとこれだ。初めて見たみてくれなのに見覚えがあり、どことなく嫌悪感を感じるけれど嫌いになれないそんな顔。きっとすぐ隣に鏡があればすぐにハッと気づいたのかもしれないが、鈍感な私はようやっとこの原因について突き止められた。

 ”私にそっくり”―――厳密には今よりずっと愚かで自由だった頃の死んだ目をした私。黒い服を好んで着て、母に怒られたりしたけれど、下着はうざったくて着ていなかった。外よりも家の中が大好きで、日がな一日本を読んだりぼぉっとしたり、寝転んだり、お庭を見ていたり。別に世の中に絶望しているでもなく、安穏と過ごしていた、私。

 ―――死んだ目をしているのは、生まれたときに銀のスプーンを咥えてこなかったというわけでもなく、単純にそういう顔つきなので仕様がない。これはこれで愛嬌だろうと自分では案外気に入っているからして………存外、死んだ目だなと言われるのは内心フフと思っている。

 この、てこたんと申す女児もこれがまた、私そっくりの死んだ目をして、親近感こそ沸けど嫌な気はせず可愛らしささえ感じる。

「てこたん、ほんよむ」

 感傷に浸っていると、てこたんはてこてこと本を一冊拾ってソファーにぽすっと埋まった。

 大きい本で頑張って膝の上で広げると、すぐに頭を捻って数秒固まった。そして、すぐに私の方を死んだ目で見てくる。

 こい、ということだろうか。

「きて」

 そうらしい。

 私はてこたんを一度、どっこいしょとよけてからソファーに座り、てこたんと本を膝の上に持ってきてのせた。

 小さい子に本を読んだことなどないが、小さい頃の私だったらこうしてほしかったなと思ったのか、こうしたほうが喜ぶだろうと思ったのか、自然と体がそう動いていた。

 膝の上にほどよい重さを感じる。まさか、彼氏よりも先に子供を膝にのせてお母さんなりお姉さんなりの真似事をこんな所ですることになるとは思わなかった。しかし、存外―――悪くはない。

「よんで」

「あっ、ハイ」

 顔色は興味があるようには見えず、なんなら眠そうにさえ見える。しかし、彼女? の内心は物語への好奇心が抑えきれていないのだろうか、死んだ瞳の奥には仄かに燃える探求心が宿っている。

 小さい頃の私にほんとそっくり、そう思ってしまう。

「よーんーで」

 膝の上に乗った彼女は足をぶんぶん、お尻をふりふりと膝の上で動かし私を急かしてくるので、私は慌てて彼女のもつ本を開き、小さな声で読み始めた。



 

 夕方に図書館に入り、てこたんと自己申告する、私そっくりの化け物と出会ってから一、二時間。膝にのせて本を読んであげた時間はその内の一時間にも及んだ。外の様子は何も見えないが、きっともう真っ暗になっているだろう。

 ふと気づけば、私以外の利用者はおそらく殆ど帰ったのだろうか。館内はいつも以上に静謐に包まれ、時折聞こえる司書の動作音を除けば、私の読み聞かせをする小さな声のみが仄かに反響するだけだった。

 私はもうそろそろ家に帰らないとダメかなと思い始める頃合い。しかし、てこたんは興奮冷めやらぬといった風体で、私の声を聴きながら、一心に本の文字を吸うように見続けていた。私が終わる雰囲気を見せると、無言で私の顔を振り返って見つめてくる。もうおわるんですか? という心の声がひしひしと伝わってくるが、私はもう帰りたいのだ。

「………―――それしかないね、馬鹿げていることはわかっているけど。ぁ」

「ん」

 区切りのいい一節を読み終えると、丁度館内に別れのワルツが深々と鳴り響く。

 私にとっては聞きなれた閉館の音楽ではあるが、てこたんにとってはどうだろうかと本を今だ凝視する彼女の顔を見ようと覗き込む。すると私の読む声が止まってどうしたのかと、てこたんもこちらを見ようと振り返った。

「どしたの?」

 キョトンとした表情で私と鼻と鼻が当たるくらいの距離で見つめてくる―――私と似た顔。太陽光にあまり当たっていない不健康そうな真っ白な肌。一番初めに触ったときの柔らかいもちもちとした感覚が甦る。

「よまないの?」

 小さな頭を傾げて、てこたんは私に聞いてくる。

 小さい子はこんな無自覚に、愛想を振りまき庇護欲を掻き立て、弱者である自身を守らせよう守らせようと行動を制限するような立ち振る舞いができるのだと感心する。

 父親が昔、私のことを”食べちゃいたい”と形容していたらしい。

 今まさに、私は私自身を食べちゃいたいくらいに愛でている。他ならぬ自分そっくりな外見で、自分とそっくりな行動で、自分とそっくりな嗜好で行動するこの異形の生物を、だ。

「どうし?」

 呂律が回らないのがあざとらしくも愛らしく、まだまだ瑞々しい唇は仄かに桃色にてらてらとしていた。髪の隙間で時折光を反射する波のない瞳はつぶらで宝石のようだった。まるでまだ世界を知らないから知りたいという単純明快な行動原理で毎日を過ごしていたころの私は、こんなにも愛らしく憎らしい存在だったのかと我ながら罪深く思う。

 私の手が自然とてこたんに伸びていく。砂漠の砂のように指先から逃れていく黒髪を手でかき分けて、こちらを向く彼女の頬に触れる。指先が触れ、私よりもぬくい体温を感じる。それから鼻頭が触れ合うぐらいに顔を近づけてから、そっと彼女の額にキスをする。額は思ったよりもひんやりとしていて、指先から伝わるぬくもりと唇から伝わる冷たさで心が満たされていく。

 唇を離して、てこたんの顔を見ると、不思議そうな顔できょとんとしていた。

 その表情を見て私は微笑んだ。

「なんでもないよ」

「? こそばい」

 小首を傾げてから、本から手を離して額をぺたぺたと触わってなんだなんだという風に動くてこたんを見ていると、私に似ているだけなのだろうと思う。

 けれど、小さい私は案外こんな風にふるまっていたのかもしれない。記憶にはないけれど。

 ひとしきり、ぺたぺたと額を触り終えると、てこたんはまた両手で本をしっかりと持ち、私が読み始めるのを待ち始めた。私としては時間的にも今終わるのがいいだろうということで、本をつかむ手の上から手を重ね、ぱたんと本を閉じさせた。

 すると、不満そうに「んー」と小さく唸りながら、てこたんは私の膝の上から飛び降りていく。そして、読んでいた本を大事そうに持ち、丁寧に背の低い書架の何も入っていなかった場所に入れると、至極残念そうにこちらに振り返った。駄々をこねてやるぞ、という雰囲気ではなく、「おわりなんだな」という理解をして「我慢」をしています。という風で、利発な子だなと感心してしまう。

 と、いうか。こうもあっさりとされると私としては逆にもっともっと―――それこそ”隠れて泊まってでも”付き合ってあげたいと思ってしまう。

 ―――というか、というか。てこたん………この謎の生き物をどうする?

 とりあえず、手を伸ばし、てこたんの小さな手を取って引き寄せる。それからぐっと持ち上げて、私が抱きしめる形でソファーに座らせた。

「えー、っと。てこたん? てこたんは今日どうするの?」

 無表情で足をぷらんぷらんとさせていたてこたんは、顔色すら変えなかった。

「かえる」

 小さな声でつぶやいたのは、たったそれだけ。どこに帰るのか。

「どこにかえるの?」

 耳元でつぶやく。てこたんはむずがゆそうに体をふるると震わせた。

「かえる」

 また、それだけ言う。

 私は困ってしまって、どうするか少しだけ考えた後、また耳元で「どこに帰るか教えて?」と聞こうと思った。

 抱きしめるのに使っていた腕をなくなく片方はずし、艶めく黒髪をかき分けて、仄かにピンクの耳を探す。髪をかき分ける指先にてこたんの耳が触れ、彼女が小さく肩を竦める。私は彼女の耳をちぎらないようにやさしく、丁寧に指先で撫で、そっと口を近づける。

 あともう数センチ、近づいてしまえば私の唇とてこたんの耳が触れ合ってしまうという距離を、私はぐっと―――堪えきれなかった。

 私の小さな口が開き、てこたんの耳をやさしく喰らう。彼女がびっくりして私から逃げようと手足をバタバタさせるのでぐっと”大人”の力で抑えつけて、甘噛みを続ける。耳輪に嚙みついた私は、葡萄を歯先で遊ばす時のようにやさしく、ぐにぐにと弄び、舌先で耳輪の内側を這うようになめていく。それから、三角窩を掘るように対輪へと進み、耳たぶへと到達する。初めこそむず痒そうに身を捩っていたが、舐り進めていくうちに徐々に大人しくなり、私にされるがままになっていたてこたんが愛らしく、耳たぶを噛む力が強くなる。

「いたい」

 叫ぶでもなく、やめてと拒否感を示すでもなく、純粋に触覚の報告をするてこたん。私は耳たぶから口を離し、大きく深呼吸しながら、涎にまみれ輝く部分と乾いて私の涎の醜悪な香りを立てる耳とぐちゃぐちゃになって耳にくっついている涎まみれの髪の毛を眺めながら甘美な背徳感に打ちひしがれていた。

 私が純真無垢な―――であろう―――てこたんという未熟な果実を、恥じ秘めるべき汚らわしい情欲の捌け口として食い散らし穢したんだ。

「………て、てこたん?」

 私の膝の上で、少し呼吸を乱している以外は静かに座っているてこたんをもう一度両腕で抱きしめる。ふわっと懐かしい香りする。

「あの、えと」

 どういう表情をすればいいのか、どう声をかければいいのか、初めてえっちをしたらこんな雰囲気になるんだろうか。相手が年端もいかない子供の外見というのが余計にアンニュイな雰囲気になって気まずくてたまらない。

「か、かー………帰るところ、ある?」

 舐めた耳側は私の匂いがして臭いので、反対側に顔を寄せて、てこたんに尋ねる。

 てこたんは、身じろぎせずに首をただ静かに横に振った。

「ない」

 その言葉を聞いて、私はことさら強くてこたんを抱きしめた。



 

 てこたんが楽しそうに公園で知らない子たちと遊んでいる。

 私はてこたんが見えるベンチに腰を据え、夕日を照明にいつものように本を読んでいた。

 ここ最近は、てこたんを社会に紛れ込ませてみようと画策してこういった公共の場にちょくちょく連れてきている。彼女自身も案外嫌そうではない。一方で恥ずかしいのかもじもじとはしているものの、社交性の高い子供や大人にほだされるとすぐに打ち解けて一緒に遊んだり、話したりしているようだった。あれがどうして今の、陰キャ街道まっしぐらの私みたいな存在に育ってしまうのか不思議だが、とどのつまり、人間の性格を形成するのは先天性のものを多少はあれどほとんどは環境性であり、結局のところ性格は他人に定義されるのだなとありありと感じてしまう。

「てこたーん、帰るよー」

 呼ぶと、てこたんは友達になった同い年くらいの子たちと遊ぶ手を止め、私のほうに振り返る。この仕草を見る度に私の小さな胸はきゅっと彼女につかまれてしまう。この気持ちが、愛玩動物に対する愛憐のような気持なのか、親が子にいだく無条件の愛情なのか私にはわからない。てこたんが危険な時に身を挺して守れるかと言われるとウンとは言えないし、イヤとも言えない。どちらかと言えば、自分を好いてくれるてこたんという存在に私が甘えているのかもしれない。

 てこたんと遊んでいた子たちは、不思議そうに私の方とてこたんを交互にみて、てこたんに何かを喋っていたようだが、てこたんは友達に「ばいばい」と言って、一目散に私の方に走り寄ってくる。服は泥だらけで、顔や手ももちろん汚れていた。私は両手を広げててこたんを待ち構え、てこたんを迎え入れる。うれしそうに私の腕の中に飛び込んできたてこたんの顔についた汚れをふき取って、ぎゅうと抱きしめる。抱きしめたときに湧き出る私の未熟な心に生まれた感情がなんにせよ、てこたんを大切にしたい、守りたいという気持ちは確かだろうと思って、殊更強く抱きしめる。

 この私のボディランゲージに恐れをなしているのか、子供たちは私とてこたんを見て、まるでお化けや幽霊でも見たかのように青ざめて、走り去っていってしまった。失礼だろうと思うが、子供には刺激が強かっただろう。暖かい心で許してやることにした。

「じゃ、かえろっか」

「うん」

「帰ったら、何する?」

「図書館よって、ご本よむ」

「そっか、そうだね。よもっかー」

「うん」

 相変わらず、感情の起伏が薄く顔色が窺いにくいが、私にはうれしそうに見える。

 てこたんを離し、立ち上がって手を繋ぐ。公園から家まではすぐそこだが、私が繋ぎたいから手を繋いで帰ることにした。

「氷巳ちゃんはあったかいねー」

 てこたんは私の手を握りしめながら、嬉しそうに歩く。彼女の一歩は小さく、私の一歩に二歩でついてくる。まじまじと見ているとほんと子供は大変だ。小さな体で大きな体の生物についていくのだ。自分の足で、自分の体で。私も昔はこんな風に大人の後ろをついて歩いて、頑張っていたのだろうか。

 一段一段の大きい階段を下りる。私でも少し大変な階段をてこたんは両手両足を使って一生懸命に降りている。そして、降り終わると私の手を求めて、私のスカートの裾をつかむ。それを合図に私はてこたんの手を取り、また歩き出す。ここ数週間で幾度となく繰り返してきたからこそ、流れるような一連の動作になる。

「暗くなったねぇ」

 帰り始めたときが暗くなり初めだったが、今はすでに大分暗い。

「ンナァー」

 突然、ぐっと私の肩にかかる重さが増える。

 スマホを取り出し、時間を確認する。 

 午後6時12分。てこたんのシンデレラタイム。

「ナァ、ナァーン」

 てこたんは、私にふにふにの真っ黒な手を握りしめられて、ぷらぷらと私の腕にぶら下がる。

 そのさまは私が夜の公園で怪異を引き連れて、公園からの帰り道にある墓のロケーションも相まって、最悪の状況になるのではと勘違いされる状況であるが、この真っ黒な球体に一つの瞳と一つの口、指のない手足を付けた真っ黒なプリティな球体の化け物で、言葉は喋れず、老齢のしゃがれ声を出す野良猫のような声を上げながら、私の手にぶら下がっているだけなので、問題はない。

「わたた、落ちちゃう落ちちゃう」

 私はてこたんをぐいっと持ち上げて、赤子を抱くように抱くと、頭を撫でてやる。すると、てこたんは気持ちよさそうに声を上げる。

 時間は6時12分すぎ。外は暗いが時間はもう少しある。

 私の足は家のすぐ隣、公園のすぐ近く。私の行動圏内にあるいつもの図書館へ向かった。

 図書館の中に入ると、おなじみの明るすぎない暖かな明かりが私と抱きしめているてこたんを歓迎する。

 司書の人に軽く会釈をして――――最近は無愛想で返しもくれないが――――慣れ親しんだ書架の間を通り過ぎていく。相も変わらず誰ともすれ違うことはない寂れた場所で安心する。

 二階へと昇る階段を通り過ぎ、その裏。私の秘密の花園にてこたんと二人で入っていく。

 そして、へこたれたソファーに座り、てこたんを膝上にのせ、近くにあった本を開いた。

 私が瞬きをすると、膝の上にずっしりとした重さを感じる。手に持って開いていた本は私の手を離れ、細く白い指が生えた小さな手に持たれていた。視界には見覚えのある艶やかな濡れ羽色の髪の毛が、そして仄かに桃色に染まる耳が少しだけ出ているのが見えた。

 桃色の果実を見せられて、思わず噛みたいという悪戯な誘惑に駆られるが、まだ早いとぐっとこらえて、人型になったてこたんを両腕て抱きかかえるだけにした。

「んー、読みにくい」

 てこたんは私のことをうざったそうに身を少しだけ捩るが、目の前で開く本を読むほうが大事なようで、それきり私の相手をする気は無いようだった。

 ―――どうしてしまおうか。

 あまつさえ、私のことを無にし、自分のしたいことだけをするなんてこと許されない。けれど、本を読む知識取り込み状態のてこたんは結構な頑固者で私の話も聞いてくれないし、私が本を読みたいと思っても、膝の上からさえ退いてくれない。お腹が鳴っても動かず、尿意を覚えても動かず、眠くなることもなく、ひたすらに本を読み終えるまで頁をめくる手が止まらない。文字を追う視線が止まらない。

 ただ一つ、そんなてこたんを惑わす方法は一つだけある。

「てこたーん、どいてー」

 私はてこたんの後ろ頭に言う。もちろん、彼女は一ミリも聞く耳は持っていない。

 内心でほくそ笑みながら、私はもう一度言う。

「てこたん、」

 桃色にほんのり染まる耳が少し出ているところを掘るように髪を除ける。てこたんの耳に私の指先が触れた瞬間、少し彼女の体がびくっと震えた。

 その反応に私の心が騒ぎ立つ感じがした。

 静かに、やさしく、本を読むてこたんの邪魔をしないように、耳にかかる髪の毛を除けていくと相変わらず可愛らしい、私の嚙みなれた耳が現れる。てこたんの耳元に口を近づけ、もう一度「てこたん」と名前を読んであげると、彼女の耳が桃色よりも朱に染まっていき、抱きしめていた体は少し強張っているようだった。ちらと本を見てみると、頁をめくる手が遅くなっていた。

「あーむ」

 てこたんの耳に暖かい吐息をかけながら、果実にかぶりつく。

 歯先でやさしく耳輪の縁を噛みながら、唇で耳全体を包むように咥えたり、舌先で穴の周りを撫でるように這わせたりさせる。時折わざとらしく音を立てながら耳全体を愛撫していく。気づけば、本をつかんでいたてこたんの手の片方が、てこたんを抱きしめている私の腕を鷲掴みにして震えていた。その震えに合わせて私の背筋にゾクゾクとした快感が流れていく。掴まれている手を振り払い、てこたんの頭の中に私の舌と涎が動く音だけを聞かせるために、空いている方の耳を音を塞ぐように包む。

 すると、先ほどよりもさらにてこたんの体が緊張し、振り払われた手をもう一度私の腕にかけ、引っ張り下ろそうとする。しかし、私も大人の女性。びくともせずに、ひたすらにてこたんの耳を陵辱していく。

 小さな吐息や悲鳴が零れ落ち、そのたびに私は噛み千切らないように気を付け、より丁寧に舌先に涎を交え、てこたんの快感のトリガーを引こうと工夫する。

 数分たっただろうか。疲れてしまった私は口をてこたんの耳から離し、大きな音を立てて唾を飲み込んだ。

 てこたんはずっと目をつむり、前を向いたままのようで、私のほうを向く気は無いようだった。顔を見られたくないのか、私の顔を見たくないのかどちらかはわからないが、照れているのだとしたら、愛らしく、私はそっとてこたんを抱きしめた。

 少しだけ抱きしめると、離れ、てこたんの膝の上に載っている本を取り上げ、ソファーに置く。それから、てこたんの着ているワンピース状の服の上から体中を撫でていく。臀部や腰部を手が進み、小さな双丘の上を仄かに滑りながら、そっとワンピースの細いひもを除けて、てこたんの素肌に触れる。

 外で遊んだせいか、少しほてりを残した体は汗ばんで、じっとりとしている。吸い付くような肌感に、私の指先は嬉しそうに跳ねて進んでしまう。すぐに双丘へと至るのではなく、筋肉で割れていない腹部の薄いカーブを撫でながら、へその穴を探す。へその穴に、指をちょんと触れさせ、へその穴を中心にぐるぐると手のひらでお腹を撫でる。くすぐったいのか彼女の横顔は少し微笑んで、けれどすぐに何もないというように真顔に戻してしまう。私がそれでもと執拗に腹部を撫で、時折、もう少し下へと手を伸ばし指先で真っな下着についた薄い桃色のリボンに触れてみせると、またてこたんは身を強張らせ、口元がきゅっと力む。

 その様子が可愛くて、頭を撫でながら、私の手は腹部から這うようにして横腹へ進み、反対側の脇の下へと手を入れる。腹部や胸部よりもずっと湿度が高く、温度も高い。子供の体温というのはこんなにもあったかいのかと感心するほどだった。脇の下の汗を手に染み込ませ、引き抜くように手を横にずらす。手の付け根、掌底に双丘の薄っすらとした膨らみ始めが当たる。てこたんの目がぎゅっと瞑られ、口からは小さな吐息が漏れる。手をずらし続け、掌底が丘の上をすべるように上り、そして、降りていく。二つ目の丘に掌底が当たるころ、私の指先が丘の頂点に触れた。小指の先よりも少し柔らかく、きっと私のよりも穢れを知らないそれにやさしく触れる。押してみると薄い胸が少し沈み、てこたんが小さな声を上げる。人差し指と中指で挟むと、ちょっと硬さを増し、私は虐めるようにさらに指先で転がす。てこたんの吐息が小さく漏れ出るたび、私の心は沸き立って、この感情を言葉にするすべを持たない稚拙な私は口にてこたんの耳を含んで、唇でやさしくしゃぶり、高ぶりを発散する。

 指先でちょっとの間弄んだあと、休憩というように手を首へとかけ、首をやさしく締めたりしながら鎖骨を這い、双丘を這い、丘の頂点を弄んだ。そのたびに、私の小さい頃にそっくりな少女が甘い吐息を漏らし、体を硬直させ、身を捩る。

「てこたん、かわいい」

 私は耳を食みながら、やさしく言う。

 てこたんは何も返さない。

「しゃべれない子には悪戯しちゃう」

 上半身をまさぐっていた手を一度引き抜き、ワンピースの裾をたくし上げ、下側から手を入れる。そして、腹部に一度触れ、すぐに鼠径部へと指を這わし、股関節へと手を伸ばす。そして、そっと足と足の間にある園へと指を伸ばし、触れた。

 ―――ほんのりと湿り気を感じ、私は歓喜していた。

「かわいい」

 舐めていた耳から口を離し、耳元でささやく。

 そして、湿った下着の上からやさしく指で撫でる。

 指先にてこたんの水分が付き、どんどんと指と下着が濡れていく。

 てこたんの吐息が声とともに漏れ、その艶っぽい声にどんどん気分の高揚する私がいる。

 直接的に撫でるのではなく、秘部を直接的に撫で上げるのではなく、時にはそのちょっと上を押すように触る。てこたんが声を抑えようとするが、抑えきれずに「ぁ」と小さな悲鳴のような喘ぎのような不思議な声を出しながら、それでもまだ堪えようと口を紡いでいるのが健気で、さらに虐めようと私の嗜虐心が擽られてしまう。

 ―――もう、私が抑えられない。

 私の指先が少し強めにてこたんの秘部を押しこんだ、時―――だった。

 私の耳に聞きなれた曲が届く。別れのワルツ、だ。

「かえる、じ、ぁ、かん」

 てこたんが途切れ途切れに口にする。

 私はびっくりしたように手をとめ、引き抜いた。

「そ、うだね、帰ろう。帰ろうね」

 てこたんが膝の上から飛び降りて、服の乱れを直し、むき出しになった耳を髪の中に隠しなおし、一人でに秘密の園から出ていく。私も彼女の後を追って秘密の園から抜け出ると、古びた木目のタイルの上に真っ黒のモンスターちょこんと立って、下から私を見つめていた。

「ンナァー」

 鳴く、真っ黒なてこたんを抱き上げて、私は書架の間を足早に通り過ぎ、司書に軽く会釈をして、図書館を後にした。

 図書館を出て、家への帰り道。

 私は秘密の園でのことを思い出しながら、腕の中で眠るてこたんを撫でていた。

 そして、おもむろにてこたんで濡れた指先を口に含み―――

 丁寧に、入念に、舐めた――――――

 それは―――――私の、味が

 ―――――――した。




 あれから―――数か月たった。

 気づけばてこたんはずいぶんと知識を付け―――外見もぐんぐんと成長して―――相応に喋れるようになってきた。

 公園で子供たちと遊ぶこともなく、私が学校に行っている間は、一人で自由に過ごしていることも増えてきた。

私と言えば、何も………変化はない。

 日がな一日代り映えのしない日常を過ごし、終えている。

 もちろん、学校生活を送る上での勉強や行事という面での進歩や変化はあれど、私の漠然とした停滞感というか、人生の倦怠感というか。そういう何か悪いものがずぅっと付きまとって、私の一日は灰色に見えていた。

 唯一、色彩がついて見えたのはたった一つ。

 てこたんと言う、人外の異形で私そっくりの化け物。

 甘く―――可愛く―――愛おしい。

「あと、数分」

 ぽつりと口にする。

 もう数分すれば、終鐘が鳴り、私のてこたんが待っている。そう思えるだけで、私のちょっと先の生きる意味になっている。

 ――――鐘が鳴る。

 机の上においていたセカンドバックを肩にかけ、友達―――知り合い? に軽くさよならの挨拶をして、返答も待たぬまま、階段を駆け下り玄関へ向かう。靴箱から靴底の減ったローファーを取り出して、スリッパと入れ替える。ローファーにつま先を入れ、踵がカツンと入る。玄関口にはまだ誰も歩いていない。私が一番だった。

 外は快晴で、少し肌寒い冬に入りかけといった感じの気温だった。けれど、すぐに私は熱くなるだろうと上着も着ずにセーラー服のまま、てこたんのもとへと急いだ。

 校庭に沿って続くレンガ造りの遊歩道を駆けて、古びた踏切の前で地団太を踏んで、緩い坂道を下って、古びた図書館の無駄に大きいガラス扉をゆっくりと押し開く。

 息を整えながら書架の間を進み―――途中にお化けが出そうなほど昼間だというのに真っ暗でレトロなホラーを感じさせる桃色タイルに和式便所のトイレに立ち寄って―――私とてこたんの秘密の園へそっと顔をのぞかせた。

「…………」

 ほんのりと差し込む室内灯の明かりの元で怪しく艶めく濡羽色の髪。左右の本の積まれた狭苦しいソファーに座り、本を読むその姿は優麗で触れたら壊してしまいそうな芸術然としていた。古美術を扱う商店の寂れた一角にある古本に囲まれた中に置かれている西洋人形とでも言えばいいのか、手を伸ばしたくなるけれど、手を伸ばしてはいけない魅力を感じる。そして、その魅力的な存在が私の”てこたん”であるという事実が私を陶酔させてくるのが”いぢくらしい”。

 手を伸ばして、抱きしめて、口にして。私のてこたんを全身で味わいたいという気持ちと、ガラス越しの愛玩動物を永遠に眺めていたいという気持ちの両方がせめぎ合うがものの数秒で私の手はてこたんに伸びていた。

「てこたん、おはよ」

「おはよ」

 私の伸びる手に嫌な表情もせずに、眉一つ動かさず、文字を見つめ続け、コンスタントに頁を捲り続けるてこたんを膝の上にのせるために、セカバンを投げ捨て、てこたんをちょっと立たせて、空いた隙間に座る。そして、立ってもなお本を読み続けるてこたんの腰を掴んで、そっと私の膝のあいだに座らせる。

 大きくなってからは、膝の上にのせると私の膝が死ぬため、泣く泣くこうするほかなかった。

 てこたんが読む本を、私の応用にしててこたんの後ろから読む。

 時にてこたんの香しい髪の毛に鼻を埋めて、時にてこたんの耳を食み、時にてこたんの仄かな双丘に触れ、時にてこたんの園へ手を伸ばし、てこたんをまさぐりながら甘く幸せな時間を過ごしていく。髪は赤紫色の紫陽花の香りがし、耳は思わず噛み千切りたくなるような柔らかさ、しっとりと汗ばんだ豊かな双丘は柔らかい部分と固い部分のハーモニーが素晴らしく、秘密の園は背徳感の甘美な蜜で指先を濡らしていた。全身を私という無数の触手にまさぐられながらもてこたんの反応はほんのりと紅潮する頬と時折漏れる声に留めるのみで、ひたすらに本を読み耽っていた。

 数十分が経ち、私の欲望が大分落ち着いたころ、てこたんは最後の頁を捲り終え、大きく一息をついてゆっくりと本を閉じた。そして、閉じた本で、てこたんの耳を食む私の頭を軽く小突く。

「もう、そんなのばっかり」

 呆れた風にてこたんが言う。ようやく相手をしてくれたのが嬉しくて、私はてこたんをしっかりと抱きしめる。

「てこたんが、そんなえちー恰好でいるからだよ」

 耳を食んだまま、囁くように言う。てこたんの体が少し強張るのが伝わってくる。

 小さい頃のてこたんは真っ白のワンピースに下着はパンツのみといった昭和の時代も真っ青な健康優良児恰好で、私としては外を歩かせるときにさっさと黒玉にもどってくれという気持ちと、私のてこたんを見せびらかして悦に浸りたいという二つの気持ちが相反して気が気でなかった。だというのに、どんどんと大きくなっていく過程でてこたんは、私と同じような格好をするようになってきた。それに関しては嬉しいような悲しいようなといった感じだったが、見た目は私そのものであり、恰好まで似てくるとなるといよいよ私の生き写しのように思えてきたのだ。私と同じ背丈で、私と同じ格好。喋り方、イントネーション、息をする間隔、歩く時の揺れ具合。ほとんどが私と同じだった。

 今なんて、私と同じ学校の同じサイズのセーラー服を素肌に直接着ている。相も変わらず下着はどうやらパンツのみが正装らしく、ついぞほかの下着を着用するようには嬉しくもならなかった。ゆえに、こうして私にたくさん悪戯されるのだ。否、悪戯されるためにこんな格好をしているに違いあるまい。

「だからって、そんなずっと触って楽しいの?  っん」

 本をおいて、また別の本を手に取って開こうとするてこたんの双丘のてっぺんを指先で刺激する。思わず声が漏れるのが可愛らしい。

「ばか。読ませて」

「えー、遊んでよー」

 いまじゃぁすっかりてこたんと私の立場がひっくり返ってしまった。

 どうやら私は、色恋に溺れやすい性質なのだろう。

 てこたんは、私の猛攻に気にせず、小さな声で「痛くするのはだめだから」とだけ言うと、本を開き、読み始めた。

 触り続ける私はちょっとムッとしたが、それでもこんな私を嫌わずに許してくれるてこたんに身を寄せ、目をつむった。

 目をつむると、てこたんがよりよく伝わってくる。

 汗ばんだお腹やふくらみから伝わるぬくもりと、心音。じんわりと濡れているパンツのサテン生地の滑らかさに心を躍らせ、うなじから薫る甘く脳が痺れるフェロモンに酔い、自然と口にしていた耳の愛らしい肉感がたった一つの感覚を封じただけで、残る感覚を通じてより鮮明に味わったことのない体験として私を喜ばせてくるのだ。

「てこたんはどうして」

 ふと、口を突いて出てくる。

「てこたんは、どうして―――私を甘やかしてくれるの?」

 私がてこたんに顔を擦りつけながら、猫なで声で尋ねる。

 てこたんの頁をめくる手が止まる。

「何? ――――――どうしたの?」

 ゆっくりと振り向くてこたんの動きに合わせて髪の毛がきめ細かい砂が流れるように崩れ動いていく様が美しかった。

「最近、よくそれ聞くよね」

「………だって」

 だって、不安なのだ。小さいころは私が守ってあげなきゃと奮闘し、てこたん自体も私にされるがままで、遊びに行くのも私が付いていかないとだめだった。けれど、けれど最近はそうではない。一人で遊び? にも行けるし、買い物も一人で行ける。図書館だって私に連れられるまでもなく来れるし、この前なんか司書さんと仲良さそうに喋っていた。私なんて司書さんに最近は相手にもされないのに、てこたんはずいぶんと社交的で、私に似た顔なのに笑顔も可愛らしく美しいからだろうか。

 私と同じ外見の彼女が私のように振舞わずに、私がこうであったらいいなという理想のように振舞っていることに私は寂しいような悲しいような―――悔しいような―――ままならない気持ちを抱いてしまう。

 そして、その発散に私はてこたんに意地悪をしてしまう、浅ましい奴なのだとありありと分からさせられる。

「――――――………私は、てこたんしかいないから………」

 てこたんは本を置いて、私の方に立って振り向く。服の下を弄っていた私の手が引き抜かれ、外気に触れる手が冷たかった。

 そして、てこたんを座らせるために大きく開いた私の足の間に片膝をついて、てこたんがてこたんに似た顔に手を伸ばす。

「そんなこといわないの」

 頬にてこたんの冷たい手が触れる。引き寄せられるように額と額を合わせ、てこたんは私にそっとキスをしてくる。

「てこたんはあなたなんだから。自分に優しくすることの何が悪いの」

「そう、だけど………」

 私は口ごもる。

「だけど?」

 てこたんは悪戯に私の唇を食んでくる。私はそれを振り払って、言う。

 散った涎が私の制服の上に落ちて、濃い群青色を広げていった。

「そもそも、てこたんって何なの」

 聞いてしまった。

 今まで長い間、疑問に思わないでいようとしていたことを、何の記念日でもない大した予定もない、なんならこの後の未来もない今日このタイミングで? どういうわけか、口をついて出てきてしまった。

 私は咄嗟にごまかす様にてこたんを抱きしめる。抱きしめられたてこたんが姿勢を崩して私の方にもたれかかるように倒れ、ソファーの上に積んであった本の山に突っ込む形で私も押し倒される。

「何何? 急に」

 てこたんの髪の毛がカーテンとなり私とてこたんの二人だけの視線が交差する空間が生まれる。薄暗いなかでてこたんの冷たい目が私を見つめていた。

「私が何かって、そんなのわかってるでしょ」

 てこたんが私の手を拾って、自身の制服の中に差し入れさせ、胸の上に合わせた。

 温い服の中で私の手のひらにてこたんが生きているという心音が届いてくる。

「どう? この心音は誰と同じ?」

 私はゆっくりともう片方の手を制服の下に入れ、下着の上に手を置いた。

 てこたんの心音が伝わる感覚と私の心音が伝わる感覚―――きれいに一つにまとまって私の脳を震わせる。

「私………」

 てこたんは私の手を両方抜いて、体をすべて私の上に重ねる。

「でしょう? ほら、一緒に動いている」

 ドクン、ドクンと私とてこたんの身体中を心音が振動が巡っていく。

 このままずぅっと重なっていると、まるで私がどちらか分からなくなる気さえした。

「じゃぁ、私は一体何なの」

 私は気づいたら涙を流していた。

「私は! ……………私は一体誰になればいいの………?」

 涙が止まらない。悲しいのか悔しいのかなんといっていいのか、ただただ感情が溢れてくる。それに名前が付けられない。

「てこたんは、どんどん私の理想の私になって、私の夢見る私になって、私に優しくて。それに甘える私は何にも成長してなくて、何にもなれてなくて、周りばっかり先に進んで………!」

「………」

「てこたんが私になればなるほどに、私が惨めになってくるの! あなたが、私の手を離れて一人で世界に飛び立つ姿が眩しくてたまらないの! そして、それがうらやましくて穢そうと齷齪惨めに這いまわってるの! ―――――なのに、なのに、なのになのに! あなたはそんな私を優しく包み込んでしまう!」

「………けれど、私は化け物、でしょ?」

 てこたんが表情を変えずに自嘲気味に笑う―――ああ、そんな顔しないで、と思ってしまう。悪いのは私なのに、あなたを傷つけるしかできない愚かな私が。

「違う!」

「違わないでしょ、私」

 てこたんは私の耳を軽く食む。仄かな痛みが甘美な刺激として脊髄を走り、思わず体がびくっと反応してしまう。

「ゃっめぇ、て」

「何? うまく聞こえない」

 反対の耳をてこたんが抑え、私の脳内にてこたんの涎がぴちゃぴちゃと耳で弾ける音だけが響く。体中に電気が走るようにぞわぞわとして、やめてほしいのにやめてほしくないという相反した気持ちが交差する。腕や足が私の意志に反して勝手に動くが、てこたんが体中でそれを抑えて、私の耳を嬲り蹂躙する。

「ゃ、ぁ」

 力なく吐息のような声で私は反抗しようとするが、てこたんの舌は止まらなかった。それどころか、私の制服の下から手が入り、丁寧にホックが外され下着が役割を失った。しなやかな指先で私の双丘に触れ、優しくも時に意地悪に痛くされ、抗うこともできず甘い声を上げてしまう。気をよくしたのかてこたんは、耳元で私の名前を囁き、「安心して」と脳がとろけるような声色で言ってくる。

「んっ、ぁ」

「逃げない、逃げない」

 首を捩って逃げようとするが、耳に噛みつかれ動きを止めてしまう。そしてまた、耳を嬲られながら、私がてこたんにしていたように私の体中を弄っていく。

 首筋から胸、腹、腰、臀部と手が弄っていき、一息私が付いたところで鼠径部にてこたんの指先が触れた。私は反射的に今はダメと思って、てこたんをぐっと押すが全く力が入らずに、てこたんの指先が私の秘密の園へと触れた時だった。

 身体中の筋肉が意識を持ったように勝手に動き、びくびくと痙攣するように快楽を放出し始める。私の脳は突然の衝撃に理解できずにただただ茫然と快楽を受け入れ、唯一残った最後の理性で大声を出さないように「ん、ん、ん」と口を噤むことしかできなかった。

「まだ、終わらないからね、頑張って」

 私の耳元でてこたんが囁いて、私はてこたんには向かうことをやめ、てこたんの耳を優しく食んで答えた。

 


 

 図書館が閉館する時間になって、私はようやく気持ちが落ち着いて、ゆっくりと起き上がり身だしなみを整え始めた。

 てこたんはソファーの上で何喰わない顔で本の頁を捲っていた。

 思い返してみると、はぐらされたみたいでなんだか腑に落ちないが、私の心は安定しているようだった。

 ぽけーっと頁を捲るてこたんを眺めていると、秘密の園の入り口から人の顔が覗いてくる。

「あらー、まだいたの。あなたが最後よー」

 図書館司書の女の人。私はあられもない姿を見られ、焦ったように服を直す。

 そんな私を気にも留めずに、彼女は「もう、閉めるから帰ってー」と言って、立ち去ってしまった。

 てこたんは本を閉じ、鞄を持って私のそばに寄ると、膝をついて私の身だしなみを一緒に直してくる。

 折れ曲がったスカートのプリーツがピシっと伸び、外れたホックがしっかりと私の体を巻くように下着を止め、崩れたスカーフを結びなおし、髪の毛を梳く。最後に私のセカンドバックを渡して、てこたんは家で読む気なのか、一冊の本を手に持って先に園から出ていった。

 私も追いかけるように園から出て、てこたんと一緒に書架の間を通り過ぎ、図書館の外へと出る。

 あたりはほんのりと暗くなってきていて、一人で帰るのが肌寒い人恋しい景色になっていた。

 てこたんは時間が時間なので、先にさっさと家に帰ろうと歩いていくので私は追いかけるように後へ付いていく。

 少し私よりも歩幅の広いてこたんはちょっとづつ私から離れていく。それにつれて私は先ほどの気持ちを思い出していく。

 ―――私は何なのか―――

 この頃よく感じる、世界に置いて行かれている感覚。自分の未来がイメージできなくて、何にも身が入らない。無気力症候群だとか、鬱だとか病名はいろいろあるだろうけれど、そんなことどうでもよくて、ただただ自分の生きる意味を、人生の意味をはたと考えてぐちゃぐちゃになる。部活動に頑張る人、今から大学に向けて勉強を頑張る人、恋愛に遊びに頑張る人、MMORPGにのめり込んでいる人、突然ギターを買いだす人、なんでもいいけれど、何かをしようと何かをしたいと思える人。そして私のような―――全てが空虚に思える人。

 唯一の実態のある私がてこたんだった。

 初めこそ小さい頃の私―――だったが、今となっては私そのものだった。人と軽く触れ合うことも特段忌避しているわけではないものの深入りはせず、粛々と日常を謳歌して、秘密の園で本を読む。それだけで満足とはいかないが、不満もなく、自分だけの場所で好きな本を読むということに酔えていた頃の私。将来は本を読み続けられる仕事について、実際に本を書いてみてもいいかなと思っていた頃の私。日常茶飯でありつつも、無味乾燥ではない、いい塩梅の日々だった頃の、てこたん。

 ますます私の存在するばしょはないような気がする。

 てこたんが私として生きているほうが、世の中のためになるんではないかとさえ思う。

 私の前を歩くてこたんの姿が――――――うらやましい。

「坂、くるよ」

 先を歩くてこたんがこちらを振り向いて、下を向いて歩いていた私に教えてくれる。

「うん、ありが」

 私は前を向きなおして、てこたんとの空いていた距離を詰めるように地面を蹴って駆け寄った。

「ぁ」

 すると、足がもつれて倒れこむようにてこたんの方へ身体が進んでいく。そして、後ろを向いて私に手を伸ばしていたてこたんにぶつかった。

 景色が―――――スローに見えた。

 私に押されて倒れていくてこたんを私の虚ろな眼が鮮明にとらえていた。

 急坂の下まで倒れ落ちようとしたとき、視界不良の道路から飛び出す様に小型トラックの先端が見えていた。

 このままでは引かれてしまうと私が思うより先に、鈍い音と鋭いブレーキ音が私の耳に届く。

「てこ、たん」

 姿勢を持ち直した私は、眼前の状態に思考が追い付かなかった。

 目の前に首が変な向きに曲がって倒れているのは、果たして私なのだろうか。それとも違う人間なのだろうか。

 姿形は私。轢かれる際の絞るような悲鳴も私。こちらに向いた顔も―――――私。

「いや、いや、ぃやあああああああ、あ―――――――あ?」

 脳に流れ込んでくる。

 てこたんのように外で遊ぶ私。てこたんのように誰かに本を読んでもらう私、てこたんのように親と会話する私、てこたんのように――――。 

 そして、眼前のてこたんの歪んだ視界が脳内に映る。

 痛い、痛い、痛い、何、何、何、何、何、何が起こった、何がぶつかった、誰にぶつかった、私は、今どうなって、いる、の、か。

 呼吸が、できない。喉がへんだ、ぐりぐりする。体が重たくて、動か、ない。へんだ、な。運動不足かな、痛い、痛い、痛い、痛い。

 あ――――まだ、死にたく―――――ない。

 この十七年間まだ何も……………していない。

 まだ、お母さんに甘えていたいし、お父さんをぽこぽこ殴っていたい。勉強はしたくないけれど、大学には行きたい。大学に行って、私と同じような友達を作って、いったことのない場所に行って、やったことのないコトをやって、やってはいけないことをやって、行ってはダメな所にいって。本の世界によくあるような、物語になるような、運命的で奇跡の出会いで最愛の人を見つけて。その人とまたいろんなところに行って、いろんなことをして、卒業して、やる気はないけれど働いて、その内、本でも書いて不労所得で生きていけるようにして、日がな一日を大好きな本を読んで、読んで、書いて、書いて、読んで、好きな人と溶け合って。子供を育てて、子供に育てられて、私が両親にしてもらったことをしてあげて、子の成長に一喜一憂しながら―――――死んで、生きたかった。

 けど、だめだ、死んでしまう。

 嫌だ、死にたくない――――誰か、――――――助けて、――――――――――変わって………。

 助けを求めるように伸ばした手が何かに触れた。

 その薄っすらとした感覚を最後に、私は意識を失った。




 ――――私は小さく悲鳴を上げた。

「ひゃ………」

 かわいそう。真っ先に思ったのはそういった感情だった。

 真っ黒の毛玉のような猫が軽トラックに突撃されて飛んでいく姿を見てしまった。

 飛んで落ちた黒猫は、首がこちらにひしゃげ、体はあっちを向いているのに私のように生気のない顔がこっちを向いていた。

 私は目を覆うでもなく、視線を逸らすでもなく、ただその黒猫の顔をじぃっと見つめた。

 その時だった。

 死んでいるはずの黒猫の瞳がくるっと私を見つめて、小さく鳴いた、気がした。

「……………てこたん」

 口から知らない名前が出る。いや、これは――――――黒猫の、名前、だ。

「何、何、どうして、何、これ………涙が、どうして」

 流れ落ちる涙を拭いながら坂を下りて、吹き飛んだ黒猫のもとへ駆け寄る。

 轢いた軽トラックの運転席のドアが開き、初老の変哲のない男性が降りてくる。

「なんだ、猫か。よかったよかった」

 それだけ言うと、男性はまた軽トラックに乗り込み、どこかへ去って行ってしまった。

 田舎町で猫の一匹や二匹轢かれていても不思議なことはない。タヌキやキツネだって轢かれてよく死んでいる。私だって、普段であれば別段「ああかわいそう」で済んだであろうが、今回はそういう気分ではなかった。

 黒猫の息絶える瞬間を見て、自分の胸が悲しみで張り裂けそうだった。

 なぜかはわからないけれど、この黒猫は私にとってとても大切な何かで、失いたくないもの―――――そんな気がした。

「ごめんね」

 拭っても拭っても止まらない涙を零しながら、私は黒猫を両手ですくい、制服が汚れるのも厭わずに抱くようにして持った。

 そのぬくもりはどこか懐かしい感じがした。

 私はそっと、黒猫にキスをして、黒猫を抱いたまま歩き出したのだった。

 

 

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