フラン=キスカ
フランキスカ。小ぶりの斧型投擲武器。
生まれた時、母の胎を破るときに使用したのが一番の始まりだった。
母は、身体が弱く、俺を産むよりも先に死んでしまった。
だから、俺の”師”が母の胎を木を切る小斧で切り裂いた。
「生きたくば、手に取れ、さもなければ喰ろうてしまう」
生後数秒の人間に何を言っているんだとこの話を聞いた俺は思っていたが、いまとなっては、そのおかげで―――
夜光に照らされる寝静まった森。前日に振った雨で落ち葉と土が混ざり合った栄養豊富な土壌からは懐かしさを覚える芳香が漂う。不思議なことに鬱蒼とした森の中だというのに、木々が生えていない、まさに今の状況におあつらえ向きといえる謎の空間だ。
きっと、彼女たちと優雅に森林浴よろしく、薪割にでも勤しんでいれば最高の気分だっただろうにと思うが、そうも言ってられない。
震える指先で地面に落ちたフラン=キスカを拾いあげる。
口の中に広がる土の味が鼻を抜け、最悪な気分になる。腕の筋肉が幾つかが断裂しているのがわかる。手を開いたり閉じたりする。まだ、開く、まだ動く。
「倒れているわけにいかないな」
足を地につけ、寝転がっていた姿勢から飛び起きると、化け物の鋭い爪が休む暇もなく振るわれる。
フランで受け止めるが、膂力の差で打ち負け、後方に吹き飛んでいく。握っていた左手が痺れるが、知恵のない大振りの一撃をいなしたそのすきに、右手のキスカを脇下から差し込むように振り上げる。
「固い、か」
比較的、毛皮が薄く、キスカが確かに肉を抉り食い込むがそれでも腕の一本も落とせない。振り上げという人体工学的に力の入りにくい方向だったというのもあれど、俺の師ならば一撃で飛ばしていただろうなと思うと、やるせない。
「さて、また振り出しにもどる、か」
後方に落ちたフランと、化け物の脇下からぶら下がり、いま抜け落ちたキスカ。唯一の俺の武器が地に落ちている。
正面に対峙する人型の化け物。全長はゆうに2メートルは超えている以外は特徴的な特徴はなく、固く黒い毛皮が全身を覆っている以外は、至極人間と似た構成をしている。手足は五本指であり、ほかに腕も生えておらず、頭の数は人間と変わらない。
ただ一点、違うのは、人を殺す―――その明確な殺意を生まれもってして持つこと。狼のような尖った鼻と鋭い牙の煌めきは、獲物を喰らうために作られ、十二分に発揮するための意識を刷り込まれた殺戮生物。
それゆえに俺たち人の敵であり続けた、生粋の敵性種族【ドグ】。別に恨みがあるわけではないが、相対してしまった以上は、殺す他ない。
俺に課せられた使命が、そうである以上は。
「―――だから、おとなしく死んでくれ」
四肢で駆る獣のように姿勢を低くするドグの下に落ちたキスカは後回しにし、後方に吹き飛んだフランを拾いに後方へとじりと下がる。
俺の行動に反応して、ドグが地面を掘るように蹴り、低く飛翔する。数メートルはある俺との距離を一瞬にして縮めてくる。
幸いにして魔法を使えない【ドグ】という種族は動きとしては人間の想像の範疇を超えない。人間の身体で考えられる動きを、人間の筋肉では考えられない速度で行ってくるだけなのだ。ただ、この”だけ”が十二分に脅威ではあるわけだが。
故に対策は非常に簡単で、今であれば直進してくる猪を避けるよりも簡単で、宙に浮いたということは、方向転換が行えない。であれば、俺は静かに膝を曲げ、姿勢を下げ、身体を右にずらした。
俺の左側を突風と共に抜け去り、地面に両手の爪を深くもぐりこませ停止したドグがこちらを振り向くよりも先に、ドグに近づき振り向きに合わせて通り過ぎる。虚を突かれたドグがもう半回転振り向く間に俺は最愛のフランのもとへたどり着く。
「ただいま」
フランを拾い上げ、泥を軽く払う。オイルステインが塗られた杉の木の柄は高級感があり木目が広がる水の波紋のように美しく表れている。絶世の美女よりも艶やかなその表面は、一度でも触れた人間を放さないと言わんばかりの吸いつきで手になじむ。伸びる刃は斧の中では小ぶりで、豊満な胸よりも良妻賢母たらん慎ましやかな胸こそ正義であることを世に知らしめるがごとく、緩やかな曲線美を隠すことなくその身に宿し、研がれた刃先が夜光を反射し、夜露の姫君たらん様相を月夜に咲く華よろしく十二分に発揮している。
喋れば、完璧なんだが、この子は如何せん淑女過ぎて人前で喋ることを良しとせず、今日もこうして無言のまま体についた土を払われていることに憤慨しているのだろう。
「ごめんよって」
土を払いながら、なでるようにフランを拭き上げていく。きっと遠くで転がっているキスカはさらにぷりぷりと怒っているに違いない。
フランを一通り拭き上げると、俺の意味不明な行動をまじまじと見つめていたドグが我に返ったように、咆哮した。
「唾がフランにかかるだろうが」
フランを投擲する。弧ではなく直線を描きながら、まっすぐにドグに飛んでいく。咆哮するドグの大口に飲み込まれるようにフランが突き刺さる。投擲と同時にフランを追いかけるように走り出していた俺は、手を伸ばし大口に刺さるフランを握り、引き裂くように手前に引き抜き、ドグを蹴り飛ばす。
「だまっとけ」
ドグといえども、内側は他の生物と以外はなく柔らかい。フランとの別れは名残惜しいものだったが、一緒に耳障りな咆哮も止めれて一石二鳥だった。
ドグは俺のことを憎悪の瞳で見つめてくる。幾度経験しても、背筋に怖気が走る。
【ドグ】という生物が成立してから、人を喰らい続け、神と崇められる時さえあった。それゆえか、ある種、神秘的な側面があり、単純な死を伴う怖気というよりも、人間とは違う、超自然的な存在ともいえる【ドグ】に対する畏敬の念からくる内なる恐怖や不安なのだろうか。
ただ、こんなことを思っていてはいつまでたっても”師”に馬鹿にされてしまう。
ドグが夥しく流れる真っ赤な血を振り払うように、感傷に浸っていた俺に迫りくる。
フランを下段に構え、ドグの振り下ろしてくる巨大な爪が付いた手を受け流すように切り払った―――が、途中で手を引き、俺と距離を取るドグ。ドグの膂力で振り下ろされる強靭な爪を跳ねのけるために全力で切り上げたが、見事にフランが空を斬り、俺の体も大きく姿勢を崩した。嫌な眼光。牙の隙間から血を流しながら、闇夜に光る鋭い眼光が俺を嫌らしく見つめる。
俺が姿勢を戻すよりも先に、ドグが両腕を大きく開き、姿勢を崩した俺をその屈強な肉体と雨中に艶めく毛皮で抱きしめるために飛び込んでくる。俺にできる精一杯は力の入らない姿勢からの振り下ろし。刃すら翻すこともできず、フランの背中で殴り下ろすように振るう。空を斬ることはなかったが、すでに距離を詰められていた俺の腕は空しくドグの肩口に当たり、威力を殺され、次の瞬間には母のぬくもりあふれる腕に包まれる感覚とは似ても似つかない、熱烈な抱擁が俺を襲う。
もがいても微動だにしない、強靭で逞しい腕は俄かに安心感さえあったがすぐにそれは錯覚だと気づく。呼吸ができなくなるほどの圧迫感と骨の軋む痛みと聞いたことのない音。嬉しそうなドグが笑うために口を大きく開くと、生々しく舌先が痺れるような匂いが漂ってくる。肉を喰らい血を啜る生活をする彼らの口臭は通常人の想像する香りではなく、人の感情を畏怖で塗り固めてしまうような悍ましい臭いだった。
激痛と激臭とのなかで締め付けられ、呼吸さえも満足にできず、身動きもできない。これは―――死ぬ。
目の前が赤く染まり、すぐに暗転しようとする。しかし、悪戯に一定間隔で腕を締め付けるドグの粋な計らいで激痛で意識を取り戻すこの最悪のループを繰り返させられる。
―――なんて最悪な一日なんだ。
どうでもいいことばかりが脳をよぎる。
朝起きて、フランにキスをしたけれど、嫌じゃなかったかなとか。朝食を作るのにキスカを使ったけれど、嫌じゃなかったかなとか。日課の薪割をフラン十回め、キスカは十一回目で不平等だから、機嫌が悪くてよく俺の手から抜け落ちちゃうのかなとか。どうして、フランはいつも凛としていて立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とは言うが、持てば芍薬、振るえば牡丹、断ち切れ百合の花とはフランのことで、真っ白のベールに身を包み、常に最愛の俺の後ろを数歩遠慮して歩き、支える淑女たらん雰囲気を持っているのかなとか。キスカはキスカで、元気のよい褐色の艶やかでプリッとした張りのある肌を惜しげもなく露わにしているかのように魅力的な刃をして、オイルステインがさながらサンオイルのように振る舞って、乱雑な木目が美しく見間違えるほど綺麗に浮き出ているのは、その柄を握る俺を試しているのかとか。どうして神は俺にフランとキスカという二振りの絶世の美少女を与えたもうたのかとか。そして、俺は今どうして、そんな幸せを粛々と享受せずに絞殺されようとしているのだろうか。
否。死ぬわけにいかない。
俺の力なく垂れている腕の先にしっかりと握られたフランと、数メートル先の腐葉土の上に刺さり落ちているキスカが待っている………そう、俺の、この、何も持っていない、平々凡々な俺の手に握られることを!
「ぐぅぁ、あ!」
思いっきり力を振り絞って振り払おうともがくが、微動だにしない。逆に、反応があったことがうれしいのかドグはギャッギャッギャと気色の悪い笑い声をあげながら俺を一層締め上げた。
――――死ぬな、と思った。
そう思ったら、俺にできることは何かと考えた。
たった一つだけ、だった。
………フランを手放し、キスカと手を繋がせてやること―――それが、力が足りない男の俺が出来る、情けなくも最大の報い、だった。
幸いにして振り下ろしていたフランをもつ腕だけ、ドグの抱擁からは逃れていた。持っていなかった左腕は完全に血が止まり、骨が複雑に折れているのか感覚もなければ痛みもなかった。唯一、少しだけ動くのがこのフランをもつ右腕だけだった。
右腕を大きく振り上げ、もはや鞭のように力なく動く腕を振るい、最高速になったときに手を離した。
フランの声が聞こえる………。
『お慕い、申しておりました』
涙で揺れる弱々しい声。最後に声が聞けて良かった。
フランは手から離れ、キスカの元へ飛んでいく。赤く染まった眼球ではもはやその行方は見届けることができないが、きっと二人は手を繋げただろうと、信じたい。
背骨が折れる音がする。折れた骨が肺や消化器官を貫いていく。口から血が漏れ、ドグが笑いながら締め付ける度に壊れかけの蛇口のように血を吐き出す。ああ、死ぬのだなと思うまえに、
きっと、主は死んだのだろう。
思い返してみると、先代よりも力も弱ければ頭も弱かった。けれど、顔だけはよかった。それだけだった。情が移るほどではなかったし、キスカも私もどうでもよかった。ただ、大事にされていたことだけはわかった。それだけだった。
きっと、あいつは死んだのね。
思い返してみると、前のマスターよりも雑魚雑魚の雑魚で、頭もミジンコより小さく生きる価値は到底なかった。けれど、顔だけはよかった。それだけね。情なんて移るわけもなく、フランもキスカもどうでもよかったけどね。ただ、やさしさだけは伝わってきたわ。それだけだけど。
『だから、申し訳ないけれど、ただ寝ているだけではだめね、キスカ』
『はぁー、めんどくさー………ただ、ま。そうだね、フラン』
人型の二人の少女が手を繋いでいる。
少女たちの眼前では、毛皮に身を包む屈強な巨人が人間を抱きしめ、嬉しそうに抱きしめた人間の背骨をへし折って笑っている。
その光景に、眉一つ動かさずに、少女たちはゆっくりと歩きだす。
一人は肌は真珠のように白く、純白のワンピース着て、空いている右手には巻き付くような造形の歪な大褐斧を軽々と持っていた。
一人は肌は斧石のように
ふわりと、二人でぬれた土の上を踏んで浮かぶと、笑う獣の後ろに静かに降り立ち、そっと二人は両手を振るった。
『―――さて、主様、安らかにお眠りください』
『はいはいはい、湿っぽいのはいいから、静かに寝かせてあげよ』
ドグの拘束が外れ、崩れ落ちる人間を二人の少女がそっと手で受け止める。
膝を折り、ゆっくりと地面に寝かせ、二人の膝の上に人間の頭をのせて、絶命の時に大きく見開いた瞳を隠すように瞼を閉じてやる。
『かっこよくあられました、主様』
『まー、がんばったよ、あんたは』
そして、頭を持ち上げると、そっと土のうえに寝かせ、少女たちは立ち上がる。
繋いだ手はそのままに、斧を両手に下げ、毛皮や爪が入り混じった挽肉の山と人間の死体を背に、歩き出す。
暗い森の中を、静謐なる夜の中を、裸足で、静かに。
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