第3話 メイクの特権

「やる気になってくれてなによりだよ、紫音くん!」


「やる気にはなっていないです。投げやりになっているんです。


 弥生さんの指示に従い、デスクの椅子に座る。


 先程より手足と口が回る弥生さんは、辞書五冊分の大きさのメイクボックスをデスクの上に置いた。


「またまたぁ!」


 手をくねくねと曲げ、調子に乗る弥生さん。なんだか大阪のおばちゃん感が増した気がする。


「それより店を回さなくていいんですか? 人が足りなくて店が回らないから俺を呼んだんですよね?」


「いいの、いいの! ほら、何事もじらすことが大切って言うじゃない! 焦らしプレイってやつよ!」


「……俺今、セクハラで訴えたら勝てると思います」


「ええー……? 美人なおねぇさんからの下ネタ、嬉しくないの?」


 弥生さんを一瞥する。推定年齢二十代後半。すらりとしたスタイルに高校では決

して見ることのないデカさの胸部。大人の色気というものを全身から感じる彼女は、


 傍から見れば魅力的かもしれない。……出来ればエプロンではなく、黒スーツで出会いたかった。……うん、女教師モノに出ていそうだ。


「好きな子以外は興味ないんです、俺」


 今までの妄想に蓋をして虚実を吐く。確かこういった発言をする奴がモテるらしい。


「おおー! おっとこ前発言! 何で君モテないの? あ、チビだから?」


 顔をしかめる。この人はデリカシーのない大人の代表格。何でこんな人が店長なんだろう。モラルがなさすぎる。


 真澄のことがなければ、今すぐ逃げだしていた。


「無駄話はいいので早くして下さい。こうしている間も真澄は一人で頑張ってるんです」


 現在進行形で、真澄は今一人で店を回している。


「やる気十分?」


 首を曲げ、俺の顔を覗く弥生さんの表情は幼い少女のような無邪気さを彷彿させた。


「……どう受け取ってくれても構いませんから早くして。真澄が可哀想です」


 何故真澄はこんな人の下で働いているのだろう。


 そもそもなぜ男装喫茶? アイツそういうの苦手だろ。


「はいはい。んじゃ、弥生さん本気出しちゃうよー!」


 袖を巻くり、腕をぶんぶん回す弥生さん。その時間が無駄なのだとツッコみたかったが、折角やる気を出したのだ。無駄口を挟むのは得策ではない。


 そこからは本当に一瞬だった。


 メイクを施され、何の躊躇いもなく制服を脱がされ燕尾服を着させられる。


 真澄の家にある着せ替え人形にでもなった気分だ。


「どーよ! 私の実力はっ!」


「……えっ」


 弥生さんはドヤ顔で手鏡を突き出した。そこに映る自分自身に声が漏れる。


「俺……かっこよくないですか⁉」


「でしょでしょ⁉ これが私の実力だってんだいっ!」


 江戸っ子気質を見せる弥生さんから鏡を強奪し、自分自身の顔を見つめる。


 メイク経験は一度ある。けれどそれは可愛くなるための女装メイク。メイクというのは女子がより可愛くなるためにするもの――そういったイメージが覆された。


 ぼさぼさの眉毛は整えられ、まつげも増えた。目元は鋭くなり、肌も白い。髪もワックスで整えられている。


 健康的な文学少年が彷彿される。自分が自分じゃないみたいだ。


 俺はかなり、興奮していた。これならば身長が低くても、絶対にフラれない――気がする。


「し、知らなかった……メイクってカッコよくもなるんですね……」


「最近では男子もメイクする時代だからねぇ。いい? 今から設定を発表するわ!」


 鏡を取り返した弥生さんは気を落とす俺に人差し指を突き立てる。


 そうだった。今までのことは全て前哨戦。ここから始まるのだ。


「せ、設定?」


「言ったでしょう? うちはコンセプトカフェなの。コンセプトカフェの意味は分か

る?」


「詳しくはないです」


「コンセプトカフェっていうのは、内装、衣裳、メニューに接客。全ての要素に特定

のコンセプトを押し出すカフェ。メイドカフェもコンカフェの一種よ」


「へぇ……」


 それは俺にとって未知の世界だった。新しいゲームを起動するようなワクワクが迸る。……まずい。俺、この状況を楽しんでしまっている。


「ここは男装執事がお嬢様、ご主人様をお迎えするというコンセプトを元にしているわ。ほら、試しに見てみなさい」


 プレートのかかっていない戸が開く。


 大きな窓の木漏れ日。シンプルな木のテーブルに椅子。隠れ家のような上品さとお

しとやかさ。東京の一角とは思えない風景が広がっていた。


「ここは松本にある別荘。もしくは越後。要は避暑地ね? 都会の雑踏や人間関係に悩んだお嬢様やご主人様はここで優雅なひと時を過ごすの。君はこの別荘の管理人兼執事……そうだなぁ……名前はどうする?」


「紫音じゃダメなんですか?」


「駄目じゃないんだけど、責任はとれないよ? ほら、プライバシーとか個人情報とか」


「成程」


 そういえば数年前、ニュースで見たかも。メイドカフェの店員さんをストーカーした事件。犯人は客だった。


 そういう事件が起こってからでは遅い。弥生さんは意外とちゃんとした大人だった。


「じゃあ作りましょう」


「オッケー。どんな名前がいい? 即席で名札作るから!」


「……背が高そうな名前」


「君は本当にブレないね。ノッポ信夫でいい?」


「ふざけているんですか、店長。そんなんで僕がナンバーワンになれるとでも?」


「……う、うん。そこまで乗るとは思わなかったなぁ」


 メイクや衣装を経て、その気にさせたのは弥生さんなのに、彼女は少し引いたよ

うな素振りを見せた。


「とにかく、背の高そうな名前です!」


「はいはい……じゃあ『トール』ね。君の名前は、トール」


「安直ですね」


「じゃあ信夫。ノブ信夫」


「トールでお願いします」


「オッケー! じゃあ君はツンデレ執事トールくんね!」


「……はい?」


 黒のマジックペンで名札を書き終えた弥生さんは、俺の


 何だろう。ツンデレ、とかいう空耳が聞こえた。


 その反応を見たのか、弥生さんは深いため息をついて、俺に詰め寄った。


「あのねぇトールくん。ここはコンセプトカフェなの。演じないと。お嬢様が求め

る最高の執事を」


 胸元に名札をつけながら、弥生さんに注意を説かれる。どうやら俺はコンセプトカ

フェを舐めていたらしい。


 その時ハッとした。俺は何故こんなことをしているのだろうと。





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