八岐大蛇
紅柚子葉
第1話
気がつくと、彼は暗闇の中にいた。感じるのは冷たい地面と周期的に聞こえる水滴の音だけだった。
自分が何者なのかも、どうしてここにいるのかも分からない。時が流れていることさえ分からなくなるような、そんな時間を過ごしていた。
ただ、この状況がどこか懐かしく感じていた。
次に彼が感じたのは、かすかな風だった。普通なら気づきもしない、鼻息程度の風だったが、今の彼にとっては強大な感触だった。
風が吹いた方向に足を向け、彼は歩き出した。一歩、また一歩と進むにつれ、風を感じる回数も増えて行った。
しばらく歩くと、感じたのはかすかな光だった。彼にとって、初めて何かが見えた瞬間だった。
光に向かって、彼は全力で走った。途中、何か固い物を踏んだが、その痛みなど今はどうでもよかった。走って、走って、走り続けた。
進むにつれ、光はどんどん大きくなった。そして、一瞬彼の全身を光が覆った。あまりの眩しさに驚いたが、次第に光は沢山の色に変わり、そして風景になった。
ただ全力で走ったその先には、たくさんの木々や小鳥の囀りが響く森があった。
どうやら自分はとても深い洞窟にいたらしい。それにしても、初めて見る世界に彼の心はどうしようもなく踊っていた。
とりあえず歩き回ってみよう。彼はまた歩き出した。
「キャーーーーーーーッ!」
突然鼓膜を震わせた高い音に驚き、彼は音の発生源の方を向いた。
そこには、二本の棒で立っている物があった。どうやら”それ”も動けるらしい。
「あなた、何で服を着ていないの⁈」
”それ”が発している音の意味が、なぜか彼には少し理解できた。そこで彼は初めて自分の姿を確認した。
自分も二本の棒で立っていることに驚き、そして、”それ”は何故か布のようなものを巻きつけていて、自分は巻きつけていないことに気がついた。
そうか、服っていうのか、あの布は。新たに覚えた知識に彼は喜んだ。
「ねぇ? 話聞いてる?」
”それ”がまた音を発して来た。どうやらその音は自分の考えなどを伝えることができるらしい。
自分もやってみようとするが、まずどうやって音を発するのか分からない。
そこで、”それ”を近くで観察することにした。
「キャーッ! 何でこっち来るのよ!」
また音を発して来た。どうやら音はまぁまぁ高めに位置するあの開いたり閉じたりする穴から出ているらしい。自分にもその穴があることを確認して、再度、音を発する挑戦を始めた。
「あ……あ……あう……あぁ!」
出せた。音出せた。でも、これだけだと自分の考えが相手に伝わらないことは感覚的に理解していた。
「もしかして、言葉を話せないの?」
そう、そうなんだよ。相手の音は理解できるのに、自分ではその音を出せない。そのことを伝えようと、彼は今出せるだけの音を連続で出し続けた。
「多分そうなのね。分かった。私が教えてあげる! とりあえず家から服を取ってくるから、ここで待ってて!」
そう発すると、”それ”は何処かへ走って行った。
そのあと、服を持って来た”それ”から、色んなことを教えてもらった。思いを伝えられるあの音は”声”、声を発することは”話す”、発する穴は”口”、二本の棒は”足”など、たくさんのことを教えてもらった。
それから”彼女”は毎日洞窟の前に来るようになった。言葉の意味を教えるだけでなく、身の回りのことを話すために。それが彼女の日課になっていた。彼女と出会って数週間が経つと、彼は人並みに会話することができるようになった。自分のことを話せるようになったことは、彼にとってとても嬉しことだった。
「結局、君って何者なんだろうね」
いつも通り話していると、彼女が突然そんな疑問を口にした。
「それは、僕にも分からないよ。気がついたらこの洞窟の中にいたんだから」
「君は人間?」
「多分ね。体の造りは君とほとんど同じみたいだし。あっ、でも、一つだけ違うことがあるんだ」
「何?」
すると彼は立ち上がって、スルッと袴を脱いだ。
「キャッ! いきなり何してるの?!」
「ほら、足と足の間にもう一個棒があるんだ。足にしては短いし、柔らかい。しかも、君の体にはこれがなかった。何に使うんだろう? これ」
「いいから早く袴を履いて! ていうか、何で私には無いこと知ってるの⁈」
「この前、あそこの草原で昼寝しただろう? その時に触ってみたんだ」
「なっっっっ……何してんのよ、このバカーーーーッ!」
袴を履き終えた彼の顔に彼女の見事なまでの平手打ちが決まり、森の中に叩いた音が響いた。
「そういえば君って、名前無いよね?」
「名前って、何?」
数分前に叩かれた頬をさすりながら彼は聞いた。
「前にも言ったでしょ? 私たち以外にも人間はいるの。人間はそれぞれを区別するために、一人一人に名前を付けているのよ。例えば、私の名前は
「なるほど。たしかに僕には”名前”は無いね」
「だったら付けてもらおうよ! 私の村に行ってさ」
「前も言ったけど、僕は君……クシナダ以外の人間と交流するつもりはないよ」
「大丈夫、良い人達だから。それに、君のことはもう村長に言っちゃったからね、逃げられないよ?」
クシナダの策略に彼はドッとため息をついた。本当に逃げることはできないだろうから。
「分かったよ、明日行こう。もう日が暮れるから」
「本当だ。じゃあ、また明日ね!!」
クシナダは笑顔で手を振りながら去っていった。その様子を見て、彼も手を振り返した。
(全く、彼女は面倒見がいいのか、お節介なのか……)
助けられたことは沢山あるが、それと同時に、彼女には振り回されてばかりいるのだ。
考えてもしょうがない、と、彼は洞窟に戻った。
翌朝、初めてこの森から外に出た。
そこには、木で出来た箱が沢山あった。あれが噂に聞く”家”なのだろう。
そして、家からは人間達が次々に出てくる。クシナダ以外の人間を見るのは、彼にとって初めてのことだった。
「それじゃあ、村長のところに行こ!」
今日のクシナダはテンションが高い。彼の手を握り、強引に引っ張っていく。
彼の体は彼女の思いのまま、一つの家の前まで運ばれた。
「ここが村長の家だよ。さっ、入ろ?」
「まぁ、ここまで来たら行くしかないよね。うん、行こう」
握ってくれていた彼女の手を握り返し、二人は一緒に家に入った。
「よぉ〜〜〜こそっ! 我らが村へ!」
入った途端、大きな声が家中に響き渡った。
「お主が例の男の子じゃな? 待っておったぞ。ほれ、座りなされ」
村長に誘導され、二人は地面に座った。
「相変わらず元気だね、村長」
「まぁの、若者には負けてられんわい。……して、この子の名前を考えればいいんじゃな?」
「そうなの、何か思いついた?」
「そうじゃな……」
村長は自慢の髭を触りながら沈黙した。謎の緊張感に包まれた空間。二人も喋ってはいけないのかな? という空気に負け、声を出さずに村長を見つめた。
「実際に見て決めようと思ってたんじゃが……それがの……」
「それが……?」
「ごっめん! 何も思いつかない!」
「「……は?」」
想像外の発言に二人の声が重なった。
「え、思いつかないって、考えてないってこと⁈」
「そ、そんなに怒ることないじゃろ。ほれ、お茶でも飲んで落ち着きなさい」
クシナダが怒ることを分かっていたかのように、村長は自分の背後からあらかじめ用意していたお茶をクシナダの前に出した。
「いやだって、村長が『バッチシの名前考えておくわい!』って言ってたじゃん!」
「それがの、色々と事情があるんじゃよ」
「クシナダ、一回落ち着こう。話聞いてみないと分からないよ」
彼に宥められ、クシナダは一気にお茶を飲み干した。
「……落ち着いたかの?」
「……うん。ごめんね、村長。怒っちゃったりして」
「まぁ、怒るじゃろうなと思っておったからの。さて、話の続きをしようか」
「とある事情、って話ですか?」
「うむ。クシナダは知っておるかもしれんが、儂は村人の名前を決める時、その人間の人格や未来を占い、その結果をもとに考えるのじゃが……」
「うん、知ってる」
「じゃがの、その子のことを何度占っても、何も分からないんじゃよ」
「何も、分からない?」
「お主にも自覚あるんじゃろ?」
村長の問いに彼は数秒考えた後、頷いた。
「僕は、僕が何者なのか分からない。どこで生まれて、何故あの洞窟にいたのかも」
「ふむ、あの洞窟は“黄泉洞”と呼ばれておっての。黄泉の中心に繋がる道である、という伝説がある。もしかしたら、そなたはその黄泉から来たのかもしれんの」
「黄泉って、つまりあの世でしょ? じゃあ彼が死んでるとか、幽霊だっていうの?」
クシナダの訴えに村長は首を横に振った。
「確かに黄泉とはあの世のことじゃ。だからこそ分からんのじゃよ。彼は実際に生きておる。それは、クシナダが一番わかっておるじゃろ?」
クシナダは頷いた。確かに彼は生きている。寝て、食べて、笑って。彼の今までの姿は死んでいる者とは思えなかった。
「そこで提案じゃ。お主自身が決めたらどうじゃ?」
「僕が、決める?」
「そうじゃ。お主は自分の力で道を切り開かねばならんようじゃからな。そのためにも、自分の名前は自分で決めてはどうかの?」
彼は俯き、必死に考え始めた。その様子を横で見ていたクシナダは、彼の邪魔にならないよう、小さな声で村長に話しかけた。
「……ねぇ、それって村長が考えるのを放棄した、ってわけじゃないよね?」
「もちろんじゃ、と言いたいところだかの。この子のことが分からん以上、儂には考えようがない」
二人がひそひそと話している横で、彼はまだ考えていた。
(あ……みな……)
深く、深く考えていたその時、彼の意識に聞き覚えのない声が聞こえた。いや、聞き覚えはないが、どこか懐かしい声だった。
(みな? どういうことだろう。……もしかして、僕の名前?)
断片しか聞こえなかったが、彼はそれを元に名前を決めることにした。というか、浮かんできたのだ。
「村長、決めました」
「おぉ、そうかそうか。ならば、聞かせてくれるかの? お主の名前を」
村長の頼みに彼の口は開いた。その表情はとても清々しく、自身に満ち溢れていた。
「僕の名前は、
「ミナト! すまないが、こっちを手伝ってくれないか?」
「ミナトくん! これ村長に届けてくれる?」
「はい! ちょっと待ってて下さい!」
多方から飛びかかる声に対応しながら、ミナトは忙しなく働いていた。
彼が初めてこの村に訪れてから約二ヶ月。人手不足、特に若者不足に悩んでいた村長に頼まれ、力仕事をメインに村のことを手伝っている。
「いつもありがとねぇ、ミナトくん」
「いえ、他にやること無いですし。皆さんの力になれるので。とりあえず、収穫した米はここに置いておきますね」
「ミナトー、手伝ってくれー!」
「はーい、今行きます!」
ミナトは抱えていた米俵を足元に置き、声の聞こえた方向へ走った。
「ほんとに、良い子だねぇ」
「大丈夫? ミナト。ここ最近ずっと働いてるでしょ」
「平気だよ。僕、結構体力あるみたいだ」
「それはそうだけど……」
毎日、昼の休憩時間にミナトはクシナダと森でおにぎりを食べるのが日課だ。この時だけは誰も彼に助けを求めない、クシナダとの休息の時間だ。
「ほんと大変だね、ミナト」
「クシナダだって、毎日キノコと山菜取りに行ってるでしょ?」
「それはまだ楽だよ。ミナトは農作業に狩りに、終いには建築もするでしょ? 大変だよ〜。私じゃ耐えられない」
「大丈夫、みんな優しいし、キツくなったら休憩もくれる。それに、こうして毎日クシナダと話せるだけで、不思議と体力が回復するんだ」
「えっ⁈ そ、そうかなー」
ミナトの無自覚な発言でクシナダの頬は緩んだ。
「そっ、そろそろ戻らない? 籠も山菜でいっぱいになったし」
「そうだね、僕も村長さんのところに行かなきゃ」
二人は休んでいた体をゆっくりと立ち上げ、大きく背を伸ばした──その時だった。
「ギィーーッ! ギィーーーーーッ!」
森の動物たちが一斉に叫び始め、木々がざわつき始めた。明らかに感じる不穏にミナトは足を止めた。
「どうしたの? ミナト」
「森が騒がしい。何かあったのかな」
「騒がしい……? いつも通りだと思うけど……」
そう言ってクシナダはあたりを見回した。どうやらこの異変を彼女は感じていないらしい。
「いや、何かがおかし──」
その時、西の方向から銅鐸の如き轟音が響いた。あまりの衝撃に二人は両耳を塞いだー
「えっ⁈ 何⁈」
「この方向……村がある方だ!」
ミナトは西へ足を向け、全力で駆け出した。それを見たクシナダも、彼についていこうと走り出した。
(不穏な予感は的中した……っ! 一体何が──)
森を抜け、村の柵が見え始めた時、ミナトは足を止めた。数分遅れてクシナダもそこに到着した。そして、その場で膝から崩れ落ちた。
「何……これ……」
普段なら、ここで村から優しい笑顔が見えてくる。しかし、二人が目にしたのは、そんな平和ではなかった。
燃える家、見たことのない大勢の人、そして、見覚えのある顔の遺体の山。今朝挨拶をしてくれた人、一緒に稲刈りをした人、楽しく笑い合った人。全員がそこにいた。
クシナダは泣き叫んだ。日常が、一瞬で崩れたのだ。そんな姿を見て、ミナトは思った。
(どうしてこうなった? 何でこんなこと……)
すると、クシナダの喚き声を聞いた見知らぬ人がこちらに気づいた。
「チッ、まだ生き残りがいやがった。おい! こっちにあと二人いるぞ!」
明らかにクシナダ達が話す言葉とは違ったが、ミナトには理解できた。できてしまった。
(あいつらが殺したのか……みんなを、あいつらがッ!)
人を殺すことを気にも留めずに近づいてくる奴らに、ミナトは初めての感情を感じた。怒りだ。自ら制御できない、しようとも思わない感情だった。
「……クシナダ、少しだけ目を閉じていて」
「……へ?」
「大丈夫、クシナダは僕が絶対に守る」
そうミナトは笑った。初めての作り笑いだ。クシナダは言われた通り、全力で目を瞑った。それを確認したミナトは村の方へ走った。
(何でだろう……自分のすべきこが、”力”が分かる。僕は、僕はッ)
暗黒しか見えていないクシナダに入ってくる音は、凄まじいものだった。この世の終わりのような、激しい音が何種類も轟いた。大地は揺れ、風は暴れた。
少しすると音は収まった。クシナダは目を開け、村を見た。するとそこには村の面影はなく、瓦礫と炎の大地が広がっていた。そして、その真ん中に彼がいた。
「ミナトっ!」
急いで彼の元に駆け寄った。すると彼はこちらを向いた、その瞳から大粒の涙を流して。
「クシナダ……僕……人間じゃなかったみたいだ。僕は……化け物だったんだ……」
ミナトは倒れ、天に向かって号哭した。それを嘲笑うかのように、村には雨が降り注いだ。クシナダは彼をそっと抱き寄せた。
「大丈夫、君は人間だよ。だって、だって、こんなに優しいんだもん。君は私を守ってくれたんでしょ?」
降り注ぐ雨の中、二人は共に泣き続けた。一人は五月蝿く、一人は静かに。
「何じゃこりゃ」
現地に着いた男は驚愕した。この島にはそれなりに大きな村があった。しかし、その姿は微塵も無い。
「おいおい、クェイエルの軍はどうした。報告では、かなりの数いたんじゃないの?」
男は側近の者の方を向くと、側近は大きく頷いた。
「んだよ、これじゃせっかく連れてきた軍が無駄じゃあないの。こりゃまた、奥さんに怒られるねぇ」
男は頭を掻きむしった。
「イザナギ様!」
溜息をつく男の元に一人の兵士が走ってきた。
「どうした? 生き残りでもいたか?」
「はい。二人だけ、村の中央付近の瓦礫に隠れるように寝ていました。しかし、それ以外には生き残りどころか、遺体すら──」
「まぁいい、その二人から色々聞けばいいさ。保護しろ」
男の命令を聞いた兵士は、また走っていった。男は改めて周囲を見回した。そして、近くの瓦礫に近づいた。
(折れた矢が刺さっている、焼き焦げてもいるな。ここが戦場になったのは間違いない。だが、この瓦礫ども、何でこんなにバラバラなんだ? まるで、竜巻にでも吹っ飛ばされたみたいだな)
次に彼は近くにあった倒木を見た。
(枝が折れてる。少し焦げているな、落雷か? そんな激しい雨は降ってないはずだが……)
そして彼は海の方を見た。上陸する際、海には大量の瓦礫が浮いていた。まるで、津波にでも襲われたように。
(竜巻に落雷、津波。一体何があった?)
男は再度頭を掻きむしった。すると奥の方から眠っている少女とそれを抱える少年が兵士と共に歩いてきた。男は少年の目を見つめた。真っ赤に腫れたその目には、光が灯っていなかった。
「……ま、要調査ってことで。帰ろうかね」
男は兵士たちに指示を飛ばし、船に乗り込んだ。
(西野芽島……地獄を見た、悲劇の島か)
遠のいていくその島を、彼はボーッと眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます