第39話「初雪」

「俺たちいっそ、駆け落ちでもしちまうか?」


 それは反射的に出た言葉だった。

 セラに対して特別そういった感情があるわけではないのだが、もしそうなったらすべてが解決するなというただそれだけの気持ちで口にした軽い冗談。 


 ──だが、次の瞬間のセラの反応は劇的だった。


 足元から始まりささやかな胸を経て、銀髪の毛先までを波のようにぶるぶる震わせたかと思うと、頬を桃色に染めた。 

 空色の瞳に星を瞬かせ、胸の前で拳を握りながら口を開いた。


「うん、するっ。今すぐするっ」

「おい即答やめろ。さすがに冗談だから……」

「ちょっと待っててねっ? 色々取って来るものあるからねっ? えっとえっと、この間ジローが買ってくれた服とっ、おかーさんが縫ってくれた袋とっ、食べかけのお菓子とっ、この包丁とエプロンもますとでっ。あとはフレデリカにもらったお手紙セットとぉー……あとあとあと、他にも色々持ってくものあるからねっ? うああああああっ、いっぱいあって大変だあーっ、どうしようーっ?」


 錯乱状態に陥ったセラは、頬に手を当てムンクの叫びみたいな顔をした。

 

「や、だから冗談……」

「行くのって今すぐじゃないよねっ? やっぱり夜っ? 暗い中でふたりで手を取り合ってっ? ランプで足元を照らしてっ? 夜馬車に飛び乗ってっ? ふおおおおーっ! だったら行き先は南がいいなっ! あのねっ? セラはねっ? 一度でいいから海が見てみたいのっ! 大きな大きな水溜りなんだよねっ? 舐めるとしょっぱくて、おさかないっぱい泳いでて食べ放題なんだよねっ? やったあああー!」

「待てっ、待てセラっ」

「じゃあねじゃあねじゃあねっ、セラは夜までにお手紙書くからっ。フレデリカとマリオンとルイーズとレイさんとマリーさんとベラの姉御とカーラさんと……修道院ちょーには別にいいや」


 おうハインケス、おまえには手紙くれないらしいぞ。

 ざまあああー、ってそうじゃない。

 こいつをこのまま突っ走らせると大変なことになってしまう。


「落ち着けセラ!」


 セラの両肩をガシッと掴むと、俺は至近距離から言葉を投げかけた。


「今のは冗談、ただの冗談だからっ! 駆け落ちなんてしないからっ! 全部このままだからっ! 準備も無し! 手紙も当然書かなくていい! わかったか!? OK!?」

「………………うん?」

「おまえを笑かそうと思って言った、ただの冗談なんだよっ、真に受けんなって!」

「……………………うーーーーーん?」 


 腕組みをし、唸りに唸って約10秒。


「う……う……ウソついたっ? ウソついたのっ? ジローはセラをだましたのっ?」


 セラの瞳にようやく灯った理解の光は、しかし瞬時に怒りのそれへと変わった。


「ジローはっ、ジローはセラをっ」

「や、その、ウソというか冗談というか……いやまあ、どっちも変わらんだろと言われたらそれまでだけど……」

「〆◇£¢§☆◎○!?」

「うわわわわわわ! どうしたどうした!」


 顔を真っ赤にし、わけのわからない言葉を発しながら、セラは俺を叩きまくった。


「悪かった、悪かったってっ。だからそんなに怒るなよ」

「@▽%&¥¢〆≧!?」 


 なだめてもすかしても効果なし。

 とにかく全力で両腕をぶん回してくる。


「痛いって! さすがの俺でも痛いから! なあ、頼むよっ、お願いだからもう許してくれよ!」

「§★~◇&£¢≦!?」


 これは取り押さえないとどうしようもない。

 俺はセラを強引に抱きしめると、背中をさすってなだめ続けた。


「ごめん、悪かった。俺がバカだった。なあ、ごめんってば……っ」

「ふぐー! ふぐー! ふぐー!」


 その甲斐あってか、セラはようやく暴れるのをやめてくれた。


「よーし落ち着け、よーしよしよし」

「ふぐー! ふぐー! ふぐー!」


 ぎゅっと口を閉じ、拳を硬く握り、未だ怒りを抑え込んでいる様子だが……とにかく当面の脅威は去ったと見ていいだろう。

  

 ほっと胸を撫で下ろしていると、背後でガタンと音がした。


「ん? なんの音……」


 振り返ると、カーラさんが真っ青な顔で立ち尽くしていた。


「げえ、シスター長っ?」


 いつかの夜を思い出すようなまずい構図に俺が呻いていると……。


「カーラさん! カーラさん!」


 セラがはいはいと大きな声を上げた。


「今セラは、ジローにもてあそばれました!」

「おいやめろ! 誤解を生むような発言をするな!」

「おとめのじゅんじょーを、ふみにじられました!」

「マジでやめろ! ホントにやめろって!」

「だっておかーさん言ってたもん! 『女をバカにするような男は許しちゃダメだよ。てってー的に戦うんだよ』って!」

「別にバカにしたわけじゃねえよおおぉーっ!」


 よりにもよって、カーラさんの前でのこの失態。

 これはいかん、これは終わった。

 俺が真っ青になっていると……。


「……ジロー、お願いがあります」


 真剣みを帯びた口調で、カーラさんが話しかけてきた。


「今すぐ、食料の備蓄を計算してください」

「え? 備蓄? 計算? えっと……お説教とかじゃなく?」


 思ってもみなかった展開に戸惑っている俺に、カーラさんは震え声で続けた。


「今さっき、初雪が降りました。例年よりもひと月早いペースです。過去の記録を紐解くと、同じ時期に雪が降ったのは計三度。三度ともに未曽有みぞうの豪雪を伴っています。物流が滞り、雪の重みで建物の一部が倒壊し、燃料の不足による凍死者、食料の不足による餓死者を出しています」

「……っ」


 息を呑んで驚く俺に、カーラさんは重ねてお願いして来た。


「当院はこれより、厳寒期の緊急体制に入ります。院の総力を結集し、生き残りに努めます。あなたには食料の備蓄の計算をお願いしたいのです。現状でどれだけあるのか、どれだけ不足しているのか、そのためにどうすればいいのか……。頼みます、ジロー」


 そう言うと、たぶん俺なんかには死んでも下げたくないだろう頭を下げた。

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