第38話「なあ、セラ」

「んー……」


 明くる日の午後、昼食の片づけを終えた俺は、ひとり厨房の椅子に腰かけていた。

 作業台にもたれかかるようにしながら、だらだらしていた。


「んー……」


 そろそろ夕食の準備にとりかからねばという頃合いになっても、なかなかやる気のスイッチが入らず、立ち上がれないでいた。


 ──セラのためを思うならばこそ、男女として節度のある関係を保ちなさい。

 ──そうしないことに合理的な理由があるならば、その根拠を示しなさい。


 ザント修道院30名のシスターを束ねるカーラさんの、もっともなお言葉。

 そいつが脳にこびりついて離れずにいた。


「合理的な理由、ときたかああー……」


 人と人が一緒にいることに理由が必要だなんて、考えたこともなかった。

 だけど言われてみれば、たしかにその通りだと思う。

  

 給仕が食堂で働くように。

 生徒が学校で学ぶように。

 職業あるいは身分によって、人は居場所を定める。


 家族が共に暮らすように。 

 恋人が交際を重ねるように。

 血縁あるいはパートナー関係によって、人は居場所を定める。


 俺とセラの間に血縁関係は無い。

 料理番と助手の間にはなんらの拘束力も無い。

 セラお得意の例の寝言はともかくとして、俺とセラが一緒にいなければならない理由は存在しない。


 あいつの将来を思うならば、ここで突き放すのが大人としてのあるべき姿だ。 

 その理屈はわかる。

 大いにわかるのだが……。


「なんだかモヤモヤするというか……納得いかねえなあー……」


 グダグダしているところへ、午後の勉強を終えたセラがやって来た。

 ベルトで縛った教科書を作業台の上に放り出すと、「わおーん、終わったぞー!」と鳴き声を上げながら俺に飛びついて来た。


「あっれー? どーしたのー? ジロー、お仕事してないねえー?」


 俺の気持ちなど知りもせず、セラは無邪気な様子で問いかけてくる。

 

「あ、それとも今日はお休みの日ー? セラとどっか遊びに行くー?」

「行かねえよ。っつうか俺しか料理人がいねえのに休みなんてとれるか」

「それもそうかーっ。あっはははーっ」


 何が楽しいのか、ころころと笑うセラ。

 

「あのね? あのね? 今日授業でね? 一番わかんない算数の授業でね?」

「おう、どうした」

「最後まで寝なかったんだよっ? フレデリカなんてこっくりこっくりしてたのに、セラは起きてたのっ。すごいっ? ねえねえすごいっ?」

「おー、よくやったな。すごいぞ、偉いぞおおー」

「そうなんだよっ、セラはすごいし、偉いんだよーっ」


 イエーイと躍り上がって喜ぶセラを、俺はじっと見つめた。


 今のセラには世の中のすべてが面白おかしく映っているのだろう。

 何もかもが光輝いていて、将来への不安も無いのだろう。

 あの夜の──空腹と寂しさで泣いていた女の子と同一人物とは思えない。

 

「……どーしたの? ジロー」


 ふと気が付くと、セラが俺の顔を覗き込むようにしていた。


「元気ないね? お腹でも痛い?」


 腕を後ろに組んで、セラは心配そうに俺を見ている。


「……別に、なんでもねえよ」


 心の底まで見透かしてきそうな純粋な瞳に動揺した俺は、ぷいとそっぽを向いた。


「ちょっと呆けてただけだ。快眠快食で、健康もバッチリ。問題ねえよ」

「ふうーん……? ふうーん……?」


 納得いかなげに口元をもにゃもにゃさせるセラ。


「さ、いつまでもさぼってないで仕事を始めるぞ」

「ええーっ? セラはさぼってないよーっ? さぼってたのはジローだもんっ」


 立ち上がって夕食の準備にとりかかるよう促すと、セラはぴょんぴょん跳ねて抗議してきた。


「ほら、いいから手ぇ洗って準備しな」

「もおーっ、もおーっ、もおーっ」


 セラは牛みたいにもーもー唸りながらも手を洗い、素早くエプロンを身に着けると、作業台に向かう俺の隣に立った。


「そんでっ? 今日は何すればいいのっ?」


 頬を膨らませながらも仕事はきちんとする。

 すっかり助手らしくなってきたセラを眺めながら──俺はふと、思いついた言葉を口にした。

 

「………………なあ、セラ」

「うん? なあに? ジロー」

「俺たちいっそ、駆け落ちでもしちまうか?」

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