第2話 魔女の仕事
ミヒャエルは結局一歩も譲ることなく、アウロラへ求婚し続けたが、さすがに日が傾いてきていた。王子という人間は夕食の時間すらもきっちりと定められている人間だ。それを守らないと周りが困る。彼はようやく席を立った。
「なあ、アウロラ、まずは昔のようにミヒャエルと呼ぶところからやり直してみないか……?」
ミヒャエルの言葉にアウロラは頭を押さえた。
「ああ、そのような、昔は恋仲だっただろう? みたいな態度もお辞めくださいませ。私たちは一度たりとてそのような関係になったことはありません! そのように畏れ多くもお呼びしていたのは幼い頃、まだ目の前のお方が何者かも、自分が魔女の娘であることすらも無頓着であった幼い頃のことです。こうなった今、王太子殿下の高貴なるお名前など……とうていお呼びできません!」
「ミヒャエルと呼んでくれるまで俺は帰らぬ」
「お願いですから、帰ってください! 私は夕飯の準備をして、陛下への薬も届けねばならないのです!」
「ミヒャエルと! 呼んでくれ!」
「……帰ってください! ……ミヒャエル!」
「やったあ!」
ミヒャエルは跳ね飛ぶように、茅屋から出て行った。
「……つ、疲れた」
アウロラは床にしゃがみ込んだ。いつの間にか目を覚ましていた黒ネコのリーノが近寄ってきてその膝に乗る。アウロラはリーノを撫でてやる。しかしぼやぼやとしている暇はなかった。国王の薬の準備がまだであった。
「夕飯は簡単なもので済ませましょう……」
疲れ切った声でそう言うとアウロラは王子の飲んだカップを片付けるために持ち上げた。
野菜の葉クズを煮込んだだけのスープで硬いパンを口の中に押し込む。パンは朝に王宮で焼かれたもののあまりをもらってきたものだ。
葉クズをチェロの鳥籠に、ミルクの入った皿をリーノの前に置いてやる。
食事を終えると、アウロラはテキパキと動き出した。
薬瓶を薬箱に入れる。
そして黒衣に身を包む。広がったスカートに重たいマントと目深に被るフード、すべてが黒いが、胸元には赤い宝石が縫い付けられている。これが魔女の正装である。黒い服はこの国では葬式に着る服として普段使いには縁起が悪いとされる色だが、母から受け継いだこの着衣はアウロラの身分を証明してくれる。
銀の髪をフードにしまい込んで、アウロラは薬箱を持ち上げた。
「じゃあ、行ってくるから、良い子にしてるのよ?」
チェロとリーノにそう声をかけて、アウロラは茅屋を出た。
王宮の入り口、衛兵が守るそこを一瞥だけもらって通り過ぎる。
魔女に話しかける者はいない。魔女に関わりたがる者はいない。魔女の術を必要とする者とごく一部の人間以外は。思わずアウロラはミヒャエルの顔を思い浮かべていた。
今頃は夜の読書の時間だろう。彼は仮にも王子であり、勉強家でもある。
勉強の合間を縫って、アウロラの元を訪ねてきている。
「…………はあ」
何にせよ、王宮の中は相変わらず息が詰まる。
アウロラは王の私室の前までたどり着いた。さすがにそこの衛兵はアウロラの顔をしっかりと見た。
「陛下! 魔女の到着です」
「入れてくれ」
室内から返ってきたのは、王の声ではなかった。
アウロラは衛兵が開いてくれた重い扉の中に入る。
茅屋とは比べものにならない広い部屋。豪華な調度品が敷き詰められているのに下品ではない王の私室。そのソファにラディウス国王はもたれていた。ミヒャエルによく似た金の髪。あまり似ていない緑の瞳。年齢より少し老け込んだ印象を与える男。それがラディウス王国の国王であった。
王の具合はここ数年あまりよくない。アウロラが用意する薬の種類も次第に増えている。その王の前には白衣の男が立っていた。
「…………」
アウロラは礼儀に従い、王からの言葉を待つ。
「ああ、アウロラ、よくぞ参った。発言を許す」
王が苦しげに声を出す。アウロラは深々と礼をする。
「こんばんは、陛下、いつもの薬をお持ちしました」
「うん、リンデン、頼む」
「はい」
リンデン、そう呼ばれた白髪に白衣の男がアウロラの手から薬を受け取る。薬を試薬紙に垂らし、薬の安全を確かめてから、リンデンは王の口に薬を注ぎ込む。
リンデンは王宮付の医者である。アウロラ、魔女とは母の代からの付き合いだ。
「……陛下、恐れながら占いの結果をご報告したく思います」
「ああ」
「今年の夏は冷夏になります」
「冷夏か……宰相に伝えておこう」
宰相とアウロラはほとんど顔を合わせない。神への信仰篤い宰相は悪魔と契約しているという噂がある魔女を王宮に置くことに懐疑的だ。そしてアウロラのことを見るからに疎んでいる。それに宰相の娘はミヒャエルやアウロラと同じ年齢だ。宰相はミヒャエルに娘を嫁がせたがっているというのはもっぱらの噂であり、アウロラはそういう意味でも宰相の目の上のこぶであった。
アウロラは、気にしない。そのような扱いを受けることには慣れている。疎まれる理由がきちんとわかっているだけ、まだマシな方だ。
国王は走り書きを残すと、苦笑いで言葉を続けた。
「うむ……アウロラ、ミヒャエルの侍従から聞いた。今日もあれに求婚されたそうだな」
「へ、陛下……そのお話は……その……戯れだとお思いくださいませ」
アウロラは困ってしまった。
ミヒャエルは父親と刺し違えるなどと血迷いごとを口走っていたが、王はそこまで聞いてしまっているだろうか?
アウロラの懸念などどこ吹く風で、王は続けた。
「いつも息子が苦労をかけるな……ただでさえ、余のためにいつも新鮮な植物を摘み、薬を作ってくれているというのに……」
「どうか気にしないでくださいませ、陛下。これが魔女の仕事ですもの」
「うむ、だがミヒャエルがお前に求婚するのを受け流すのは別に魔女の仕事ではないだろう……」
「まあ、はい……」
「……なあ、アウロラ、結婚する気はないか」
「はい!?」
突然のことにアウロラの声は裏返った。
「……騎士のブルーノ隊長が二十五にもなるのに。嫁の当てがなくて困っていると聞く。あやつと結婚してしまわないか? そうすればミヒャエルもさすがに人妻に横恋慕などするまい……」
「わ、私が結婚しなきゃ回避できないくらい殿下は本気なのでしょうか……?」
「あれは本気だ。王妃が余と離婚すると言い出したときくらい本気だ」
「で、ですが王妃様とは結局離婚はされていないでしょう……?」
そもそも、王と王妃の間に離婚危機があったこと自体が初耳だったが、アウロラは恐る恐る訊ねた。
「うん……でも、あれは本当に危なかった……ミヒャエルはそういう辺りが王妃によく似ている……」
しみじみとそうつぶやく。どうやら王は本気らしい。
「で、ですが、私は魔女。異邦の女。卑しい女。このような女を娶ってくれるような方などこの国広しといえど……」
「しかし、そのブルーノ隊長、おぬしに一目惚れしたらしいのだ」
「ええ!?」
アウロラは思わず顔を赤らめ驚いた。その姿は年相応にかわいらしい、と王は密かに思った。これは息子が惚れ込むのも仕方ない、そう思いながら王は話を続ける。
「花園で薄緑の衣を纏った美しき少女に一目惚れしたと漏らしているらしい……王宮の者なら花園にいる美しい少女と来たらおぬしだと知っているのだが、ブルーノ隊長はどうもそこまで頭が回らん質のようでな……」
そんな頭の回らない男と結婚して幸せになれるのだろうか? そんな疑問がよぎったが、ミヒャエルに求婚され続けているこの状態がまずいのはアウロラも重々承知であった。王はアウロラを重用し、守ってくれているが、それもいつまで続くか分からない。
「……とりあえず、私はブルーノ隊長殿とお会いすれば良いのでしょうか?」
「うん、日取りはこちらが整える。よいか?」
「……それが陛下の意向であるのなら、王宮付魔女である私は従うまでです」
「そうか。では当日はとびきりオシャレをさせるようにと王妃に言っておく」
「ありがとうございます」
「……よし、リンデン、もう今日は横になる」
「はっ」
リンデン医師が王の体を支えてベッドに導く。
「アウロラ、下がって良い。明日も頼む」
「はい、失礼します」
アウロラはそう言って、王の私室を下がった。それにリンデンも続いた。
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