很可怜的东西 01

男が目を開くと、そこはかつて自身が事務所を構えていた建物だった。

夜逃げ同然で引き揚げた為、机や椅子などのオフィス用品が転々と残っている。


マスクは剥ぎ取られ、両手足はキャスター付きの椅子に縛られている。

肘置きに縛られた右手の先、人差し指が異常に痛い。

どうやら折れているようだ。

「折れてねぇよ。掴んで投げたから外れてるけどな」

声がしたほうに顔を向ける。反動で椅子のキャスターが動いた。

声の主は、先ほど後を追っていた標的の老人だ。

自分と同じく椅子に座り、目線を合わせてくる。

「なんでこんなことを……」

ひとまず、無関係を装う。老人は困ったなという顔で笑った。


「コイツ嘘吐きネ。拷問ヨ、拷問」

後ろから若い声が聞こえ、顔を掴まれる。

口に丸めた布を詰められ、さらにダクトテープで塞がれた。

糸のように細い目の若造が、ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくる。

「坊主、あんまり手間をかけないのが賢い人生だぞ」

「チャンスを逃すのはバカのすることヨ。ジイサンが言ったネ」

言いながら、脇のデスクにボディバッグから取り出した小瓶を並べていく。

老人はマスクを付け直し、両手にビニールの手袋を装着する。


「まぁ最初は無関係のフリするわな。だが、俺たちがあの店から出てくるのを待って後を追けてきたアンタのポケットから、この事務所の鍵が出てきた時点で、そりゃ無理な相談だ」

言いながら、こちらの顔に触ってくる。何をしているのかと思えば、

「鼻炎なし。眼病もねぇな。鼻が詰まって息が出来なくなったり、素直に話す気になったら手を握ったり開いたりしろ」

指が外れた人間に、無茶を言ってくる。

おそらくあの小瓶を使うのだろう。赤い色からして香辛料にも見受けられる。

自白剤ではなさそうだが。


内心の不安を悟られないよう、様子をうかがう。

老人は小瓶のひとつを開け、男の鼻の下に宛がった。

瞬間、強烈な痛みが鼻の粘膜を貫いた。

叫びたくても口は塞がれている。声にならない声が上がり、口腔内には唾液があふれ、大量の涙と洟水があふれだした。


「この坊主特製の唐辛子だ。アンタ、スコヴィルって知ってるか?」

あまりのショックに、素直に首を振る。

これが唐辛子だとは、到底信じられなかった。

「スコヴィルってのは、辛さを測る数値だ。一般的な唐辛子で五万。よく激辛料理なんかで話題になるキャロライナ・フィフが200万スコヴィルだ。で、こっちの『激震』が……」

説明しながら、小瓶を示していく。

どうやら各小瓶で異なる唐辛子が入っているらしい。

今鼻先に突き付けられた瓶のラベルには、汚い字で『キャロライナ5』と書いてあった。

続いて、老人が手に取った瓶『激震』。

「500万スコヴィル。こいつが作った、世界最辛の物体だよ」


顎で指された糸目の男は、何が嬉しいのか照れ照れとはにかんでいる。

瓶の蓋を開けた途端、部屋中の空気が刺激物になった気すらする。

老人がマスクをつけ直したのは、これに対抗するためか。

すると、顎と髪を掴まれ、首から上を後ろへ引き倒された。

若い男が(なぜかこいつはマスクをしていない)ビニール手袋をした手で、瞼を広げてくる。

「まさか!!」

思わず声を上げたが、くぐもった音にしかならない。

「失明するかもしれんが、早めに洗い流せば多分助かる。判断は迅速にな」

まるで点眼薬を差すような慣れた手つきで、激震の粉末が男の眼球に落とされる。


その瞬間、男は目玉が爆発したのかと錯覚した。

それほどの衝撃と痛み。視界が一瞬で赤く染まり、痛いのか熱いのかすら判断できない。

体中の穴という穴から液体が溢れ、意思に関係なく手足が跳ねる。

意識を手放そうとした瞬間、追加の粉末が落とされた。

倍増する痛み。喉が裂けんばかりに叫び、ズボンには失禁による染みが広がった。

椅子から立ち上がってのたうち回りたいが、糸目の男が両手で頭を掴んだままのため、最低限の動きしか許されない。


「どうだ? しゃべる気になったか?」

老人の呑気な声が聞こえたが、返答する余裕などない。と、顔に液体をぶちまけられた。

思わず目を瞑ろうとするが、やはり瞼は開かれたままだ。

「こいつはごま油だ。カプサイシンの緩和には油が最適なんでな。まぁ小休止だと思えよ」

顔中がベトベトになってはいるが、痛みは確かに和らいでいく。


大きく乱れながらも、ようやく呼吸ができる程度には落ち着いた頃合いで、老人と糸目は次の動きに移った。

男のベルトを緩め、ズボンに手をかける。

「うえ。コイツ小便漏らしてるヨ。エンガチョ」

「とか言いながら、お前さんそこまで嫌がってねぇな」

「手袋してなきゃお断りヨ! ズボン下ろされるのはいじめられっ子だけネ」

手際よく前を開くと、すっかり委縮した一物を引っ張り出す。

次の拷問を予想し、男の全身に大量の脂汗が噴き出た。


さっきは眼球だった。まだ右目は激痛が走り、瞼が腫れ始めたのか大きく開けない。

今度は陰茎にアレを食らわせるのだろう。

その苦痛は、果たして眼球の何倍か……。

「そうだ。先に言っとくが」

老人が再び『激震』の瓶を手に取る。

地獄の蓋が、じわじわと開かれていく。

「さっきごま油使い切っちまったから、次はもっと長いぞ?」


その一言で、男の心はへし折れた。

失明どころではない。死んでしまう。


必死に手を握って開くを繰り返した。右手の人差し指がひどく痛んだが、死ぬよりマシだ。

「お、気が変わったか。人間素直がいちばんだ」

晴れやかに笑い、老人が男の右手に触れる。軟骨を割くような音と激痛が体に響き、次の瞬間には指が元通りの位置に戻っていた。

ズキズキとした痛みはあるが、その程度だ。

呆気に取られている間に、口のテープを乱暴に剥がされた。

涎でぐっしょり濡れた布を口から引き抜かれ、ようやく大きく息を吐けた。

こんな下層の汚れた空気を、美味いと思う日が来るとは。

自分が生きていることがなんだかおかしくて、男は声を小さく上げて笑った。

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