麻烦不可避免 02
その後紆余曲折あり、すっかり馴染んでしまったのが現状だ。
ちなみに、毒を飲ませた首謀者は突き止めたが、まだ捕らえられてはいない。捕まったのは実行犯だった当時の主治医だけだ。
そのことを思い出してか、太白は羅漢の持つ酒杯(太白のものと異なるが、青白磁の美しい碗)を指さし、指摘する。
「銀杯使って欲しいんだがな。ちゃんと飯の前に試薬も使ってるか?」
古典的な手段だが、毒素と反応しやすい銀食器は防毒の基本だ。
「使っている。アンタといる時くらい、好きにしてもいいだろう?」
羅漢は叱られた子供のようにそっぽを向く。
「あれは金臭くて苦手なんだ」
美食家でもある羅漢にとって、食物の風味を損なう行為は極力したくない。
だが、命がかかっているとなれば話は別だ。
毎日の酒杯を銀に代え、銀の箸に試薬を垂らし、食物に触れている。
「大層なものだ。まるで時の皇帝のようじゃないか」
「まるで、ではなく、間違いなく現代の皇帝でしてよ?」
そう笑う羅漢に、応える女人の声があった。
その声を聴いた羅漢の表情は輝き、太白の口角は五度下がった。
「妾(ワタクシ)を呼ばずに始めてしまわれるなんて、閣下も李先生も意地悪ですこと」
美しい女だった。
造り物のように均整の取れた肢体に、ピッタリとした旗袍を纏い。
艶やかな黒髪は複雑に結い上げられ、弧を描く唇はくっきりと紅く。
中世であれば傾国の美女と呼ばれたであろう美貌に、嫣然と笑みを浮かべている。
針のように細いピンヒールで音もなく歩み寄ると、猫のようにしなやかな動作で、するりと羅漢の隣に座った。その際、己の腿を羅漢の膝に触れさせる技も見事である。
名は蘇月嫦。
大黄瓜の香主のひとりで、主な職務内容は羅漢の秘書だ。
周囲にはもはや露呈している、いわゆる『公然の秘密』であるが、早い話が羅漢の愛人である。
立場こそ『香主』に任じられているが、その権限は一般幹部を軽く上回る。
自身の利(主に美容関係)になる分野への事業費のつぎ込みも、羅漢が笑って許しているので不問とされているが、その額も並みの企業であれば破産レベルの大台と聞く。
羅漢曰く、
「金を使うにも才能がいる。その点、彼女の才能は疑いようがない」
と評価するので、周囲としては如何ともしがたい。
太白にしてみれば、彼女もまた〝お得意様〟なのだが、どうにも馬が合わない。
なぜなら、大黄瓜に於ける太白への厄介ごとは、そのほとんどが彼女に端を発するからだ。
「相変わらずの別嬪さんで。大姐、今年でおいくつになられた?」
「あら、先生。以前お答えしましてよ。25歳ですわ」
手ずから酒を注ごうとする月嫦を遮り、太白は彼女の持参したクリスタルのシャンパングラス(この古酒にその組み合わせはどうなのだろう?)に甕から柄杓で酒を注ぐ。
「女性に年齢を尋ねるなんて、らしくありませんこと」
「美人の前では、観察眼も鈍るんでな」
もちろん皮肉である。
ちなみに、出会った瞬間から月嫦の年齢は25歳だ。
完璧な美貌と、多大な費用をかけたアンチエイジングのおかげで、肉体年齢は25歳と称して遜色ない。が、太白は彼女に乞われ美容健康のための身体測定をしたことがある。
人間、骨と歯の年齢はごまかせないものだ。
そう告げた翌週に、すべての歯をセラミックにしてきたのにはたまげたが。
談笑し美酒を味わう月嫦の唇から覗く、真っ白で完璧な歯並びを見る度に、
「悪いことしたな」
と少しだけ反省する太白である。
さて、宴もたけなわ。
そろそろ用件を聞いておくべきだろう。
このまま何も聞かず帰ってしまうのが最上だが、後日人伝てに依頼されるほうが、情報はずっと少なくなってしまう。
呼び出しの用件を切り出すよう、話の水を向ける。すると、やはりそちらの案件なのだろう、月嫦が口を開いた。
「先生は、『人参果』という物をご存じでして?」
「人参果ぁ?」
中華に最も知られる四大奇書のひとつ『西遊記』。
唐代、玄奘三蔵法師が仏道の経典を得るための旅、そのインドまでの道のりを編纂した『大唐西域記』を基に描かれた一大怪奇小説である。後の明代に戯曲化され、仏道教に縁深い神話伝説をまとめた『四遊記』のひとつにも数えられる。この国に生きる者なら、子どもでも知っているおとぎ話だ。
人参果はその物語上に登場する、架空の植物の名称である。
見た目は人間の嬰児に瓜二つで、一口食せば不老長寿を得るとされている。
今では廃れてしまったが、一般に農業が営まれていた頃には、その伝承にあやかったお土産品の果物なども売られていた。
「大姐、そいつぁ万寿山は五荘観で、鎮元仙人が育ててるってアレかい?」
「古典に興味はありませんわ。ですが、先生がご存じの認識で間違いございません」
人参果のもうひとつの特徴は、匂いを嗅ぐだけで若返り、寿命が延びるほどの美味という点だ。
もし実在するのなら、月嫦が目を付けない道理はない。
「さすがに俺の山にも、人参果は生えてねぇな。そんなものがあっちゃ、俺たち医者は看板を下ろさにゃならん」
軽く笑って酒を呷る。しかし月嫦の表情は真剣だ。
「それがだ、先生。実在するらしい。その人参果が」
羅漢にまで言われては、一笑に伏すこともできない。
太白は詳しい話を聞こうと、わずかに姿勢を正した。
「李先生、この新北京の野菜市場は、大黄瓜のほかにどこが仕切っている?」
「青椒荘と西紅柿会だ。加工品なら青椒、缶詰系は西紅が強かったと記憶してるが」
「その西紅柿が、窮地に立たされている。原因は、件の人参果だ」
西紅柿会にしても大黄瓜にしても、食品事業一本で運営しているわけでは決してない。
むしろ、治外法権となった『農場』で、様々な麻薬原料を栽培、精製している。
もちろん、現代において生の麻薬の価格は高騰し、逆に一般的層には流通すらしない最高級品となっている。そして生産上で発生する、品質で劣る下級品は、主に組織傘下の娼館や阿片窟に持ち込まれ、そこから売り捌かれるのが常となっている。
人参果は、西紅柿会が縄張りとする麻薬の販売地域に、突如持ち込まれた。
表向きは伝承の通り、「不老長寿を齎す不思議な果物」という触れ込みで、実際非常に美味であるそうだ。そしてどういった薬効か、若返りとしか思えないほどの滋養強壮効果があるらしい。
娼館や阿片窟で接待用の果物として重用され、サプリメントやデジタルドラッグより健康的だと、多くの客が口にした。
しかしその薬効に、最近になって対価が発生することが判明した。
最初の摂取から一定の期間内に再度人参果を食べなかった場合、強烈な倦怠感と無力感、肉体の衰弱が起こる。
「そりゃ、単なる薬物摂取中毒だ。同じような効果をもった薬もある」
「たった一度、食べただけでもか?」
「……誰か、病例がいるのか?」
羅漢が苦い顔をする。隣に座る月嫦が、労し気に羅漢の肩に寄り添う。
「西紅柿会の大龍頭、朱奔仁だ」
羅漢が携帯端末を操作し、画像を呼び出す。虚空に映し出されたのは、衰弱し今にも事切れそうなほどにやつれた老境の男性だ。
西紅柿会の首領・朱奔仁は、羅漢がまだ下位の構成員だった頃、先代とともに何かと世話を焼いてくれた恩人と聞いている。
太白の記憶ではがっしりとした体格に固い肉付きをした人物だったはずだが、画像の奔仁は頬骨が見えるほどに痩せこけていた。
「ここまで強烈な副作用はなかなかねぇな。本当に一度しか食ってないのか?」
「ああ。仕入れる前に自ら試したらしい。そのたった一口で、これだ」
であれば、もし大量に摂取した人間の場合、さらに激しい衰弱が襲うだろう。最悪、命を落としかねないほどの。
そんな物が流通すれば、市場は大打撃だ。市民の大量死の可能性すらある。
「で、俺に朱奔仁を治療しろと? それとも人参果の解析か?」
そんな訳はないだろうと思いながら、それでも問うてみる。
羅漢は口の端を上げ、月嫦は「冗談でしょう、先生?」と否定した。
「人参果を手に入れろ。栽培方法と苗もだ。人参果の販路も含め、まるごと大黄瓜がいただく」
言いながら、太白と自分の酒杯に酒を注ぐ。
「うちに先生以上に薬学のある人間はいない。それに、月嫦の頼みでもある」
見れば、月嫦が満面の笑みを浮かべている。
その笑顔の意味するところを察し、太白は持病の肩こりが悪化したのを感じた。
受けないという選択肢は、用意されていない。
「嫦娥娘々の御意のままに」と承諾し飲み込んだ酒は、驚くほどに苦かった。
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