麻烦不可避免 01
西暦2XXX年。
人類による環境破壊は、ついに地球という惑星の復元リソースを食い尽くした。
化石燃料を始めとする資源は枯渇寸前。
水源と土壌の汚染は、汚れた雨となってあらゆる生物に平等に降り注いだ。
深刻な大気汚染と公害により、世界から青空が失われて久しい。
低地は光化学スモッグに覆われ、ごく一部の山脈か、航空機からでなければ、蒼天を臨むことはできない。
各国の中央機能は旧首都を捨て、高山地帯へと移転した。
低地の街には対公害用のエアドームが設置されたが、それでも高機能マスクを着けずに出歩けば、深刻な肺病を引き起こす程度には、生活に支障のある環境である。
市民が外出することはほとんどと言っていいほど制限され、政治、商業、学問、娯楽、あらゆる事柄のステージはオンラインへと移行。
人類は望まない第三次産業革命を余儀なくされた。
しかしそのような環境でも、人間が生きている限り減らぬ需要もある。
あるいは繋がり。
婚姻、恋愛、友情、娯楽。あらゆる分野での快適なマッチングは、今や世界の常識である。
あるいは風俗。
生物として備わった本能を満たすため、VRを活用したオンラインデジタルセックスを始めとする技術が大きな発展を遂げた。その副産物として様々なデジタルドラッグが発明されたが、これらすべてを裁く法整備は未だに為されていない。反面、生きた肉の繋がり求める者は、相応の対価を必要とする時代となった。
そして食。
生きている以上、食欲からは逃れられず、そして美食を求める業も消えることはない。
サプリメントで栄養面をカバーできるとしても、一次産業の存在なくして、資材を得ることはできない。
そのことに真っ先に目を付けたのは、各国に根付いた犯罪組織だった。
マフィア、やくざ、犯罪結社。呼び名も様々な彼らは、資産を擲って高山地帯や標高の高い土地、遠洋を買い占め、生産業社を高給で雇い入れた。大規模な設備投資を行い、それまでのような消費一辺倒の開発を止め、自然環境の保護に努めた。
結果、国連の対応が遅々として進まず、自然という資源が地球上から喪失していく中、ならず者が管理する土地だけがかつての環境を維持し続けるという皮肉な例が、世界各国で起こった。
ここ新北京も例外ではなく、いくつもの組織が食料生産業に乗り出し、熾烈な生産競争の末、今では大きく三つの組織が食鮮市場を取り仕切るようになっている。
大黄瓜会は、元は青幇の系列を発祥とする浜門の古参である。
燕山山脈の大部分を買い占め、生鮮野菜の生産、流通を担う、今となっては名実ともに中華を支える大組織にのし上がった。
しかし、そこは腐ってもやくざ者。
表では超高級食材となった野菜を売り捌きつつ、裏では自らが管理する山地で育てた、イリーガルな植物も取り扱っていた。官憲が捜査の手を入れようにも、現在では軍事施設並みの警戒態勢が敷かれた『農場』に踏み入ることなどできるはずもなく、半ば公儀公認の一大犯罪組織となっている。
その大黄瓜の大龍頭が、傲羅漢。
自ら字を瓜大人と名乗る、中華政財界の間違いなくトップの一人だ。
その羅漢のオフィスに呼び出された李太白は、億劫な気持ちをなんとか宥め、足取りも重く大黄瓜の本社である超高層ビルに姿を見せた。
階にして30F、地上凡そ100メートルに張り巡らされた歩道橋を渡り、エントランスへ続く自動ドアを潜る。と同時に八方からのエアーが、歓迎の抱擁にしては手荒い圧で出迎えてくれる。長髪と、黒い長袍の裾がはためいた。
こうして体に付着したスモッグや塵を落とし、ようやく防塵マスクを脱ぐことができる。黒いメッシュのマスクの下から現れたのは、皺の刻まれた老人の顔だ。
エントランスは大理石で品よくデザインされ、嫌味のない程度に資金力を誇示している。柱を彩る金の装飾は、胡瓜の蔓と花をあしらったデザインだ。
大黄瓜発足時に主力商品として大きな資産を齎した野菜であり、今でも縁起物として扱われている。社章バッジは黄色い花のデザインだし、熱心な幹部の中には胡瓜をモチーフとした刺青を入れている者さえいる。
マホガニー製(これも現代では大変貴重なアンティークだ)のカウンターには完璧な笑顔を浮かべた受付嬢が待機しているが、太白がそこに向かう前に、エントランスに立つ数人のスーツの男が足早に近づいてきた。
「李先生、お待ちしておりました」
皆、畏まった様子で揃って拱手する。
上等な背広を着た屈強な男たちが、時代錯誤な長袍姿の老人に礼を払う光景は、傍から見れば滑稽だろうなと、太白は苦笑う。
「おう、ご苦労さん。大将は上かい?」
鷹揚に手を上げ、応える。大将とは、もちろん傲羅漢のことだ。
「はい。最上階で大龍頭と蘇香主がお待ちです」
途端に太白の顔は引き攣り、刻まれた深い皺が更に深くなった。
ここで踵を返してしまいたいが、そうもいくまい。
呼び出しを無視する代償は、信頼の失墜か物理的な損害である。
太白の葛藤を察してか、男衆のひとりが、
「大龍頭が、本日はいい古酒をお出しすると言っておられましたから」
と、困ったように宥めてくる。
こんな孫のような年齢の若造に気遣われるのも、情けない話だ。
それに、羅漢が出す酒が当たりでなかったことなど、一度もない。
「すまねぇな。案内頼む」
言われた男たちは気持ちよく微笑み、奥のエレベーターへと誘導してくれる。
地上600メートルの最上階直通の高速エレベーターは、どれほど軽減しても微妙な加重を感じる。肩こりが悪化する気配を感じながら、一分も待たずに目的の階層へ到着した。
「いってらっしゃいませ、先生」
「ご武運を」
案内役の男たちがにこやかに送り出してくれる。
「おい、ご武運をってなんだ?」
軽口を叩いて手を振り、閉じる扉を見送る。
ここから先は、許可を得た幹部か、太白のような大龍頭直属の立場の人間でなければ、床を踏むことが許されない。
壁には金粉が糊塗され、その上から雲龍と胡瓜の蔓が描かれた豪奢な通路を、慣れた足取りで歩く。天井は格子造りで、ひとつひとつの窓には苗から実を結ぶまでの胡瓜の絵が、美しい筆遣いで描かれている。
一人では開けないのではないかと思うような重厚な扉(ここにも巨大な龍と胡瓜の蔦が彫り込まれている)の前に立つと、センサーが来客を感知し、扉はひとりでに開いた。
まず目に入るのは、巨大な一枚ガラスの向こうに広がるパノラマの風景だ。
広大な山々に抱かれた新北京の街が、薄雲の下に垣間見える。
天蓋と呼ばれるエアドームに覆われてはいるが、細かな塵で生まれたスモッグを完璧に防ぐことはできない。
毒霧は下層の街に滞留し、そこから竹のように生えた高層ビルの群れは、一握りの特権階級だけが住む別天地だ。
その最上に位置するこの場所が、大龍頭・傲羅漢のオフィス兼居住区だった。
「来たか、先生」
そして、この見える景色を掌握するように、新北京を背に出迎えた男こそ、傲羅漢、
傑物であり、怪物と呼べる男である。
「まだ定期健診にゃ早いぜ? 腹でも悪くしたか?」
「ははは! アンタの処方する漢方とうちの野菜を食ってれば、病気になどなるものか!」
豪快に笑う姿は、確かに病とは縁遠い印象だ。
190センチメートルはあろうという長身と、はち切れんばかりの胸板。わずかに出た腹は年齢からくるものだが、まだまだ健康を損なうレベルではない。
むしろ、ギラギラとした双眸と強い意志を感じさせる太い眉、真っ黒な髪と髭は、羅漢を実年齢の五十路以上に若く見せている。
対し、170あるかなしかの中肉中背の体躯と、年相応の肌具合、黒髪と白髪がくっきりと分かれた頭髪の太白は、還暦もとうに過ぎた、年齢どおりの外見と言えよう。
羅漢に勧められるままに、応接用のソファに腰掛ける。ソファにかけられた毛皮は模様から察するにアムール虎なのだが、どうにも手触りがフェイクではない。まだ生き残っている個体がいたのかと、太白は感心し、そして虎の末路を少しだけ哀れんだ。
腰を下ろしてからわずかのラグもなく、給仕の女性が点心と飲み物を運んでくる。
さっき案内役が約束してくれたように、太白の前に置かれたのは古びた甕と酒杯だった。
酒杯はどうやら手捻りの焼き物らしく、漆黒の器に宇宙の星々ような瑠璃色のきらめきが散っている。
「さすが、気になったか。日本から取り寄せた物で、有田焼というらしい。なかなか美しいだろう。そっちは古上海の遠洋で見つかった献上品だ。海溝に落ちていたから、水質汚染の影響を受けていない。アンタも多分気に入る」
既に太白は甕の封を開け、器に中身を注いでいる。年季を経てトロリとした酒は、意外にも無色透明だった。
天目の揺らめきを眺め、軽く口を付け香りを楽しんだ後、一気に呷る。
すっかり角が取れたまろやかさが舌を滑り、口腔内の熱を加えたことで花開いた芳香が一気に鼻に抜け、霧散する。
「……こいつは上等だ」
「だろう?」
太白の肝を抜けたことが嬉しいのか、子どものように歯を見せて笑う。
大幇の長とは思えぬ気安さだが、それも道理。
自らの体を許す相手の前で、何を気負いすることがあるというのか。
太白は羅漢の主治医だった。
出会いは三年前に遡る。
当時、既に盤石の地位を築いていた大黄瓜だが、羅漢は先代から大龍頭を引き継いで以降、体調を崩しては持ち直すことを繰り返していた。
原因は毒だろう。
そう目星を付けたが、だとすれば自分に近い者ほど信用できない。
羅漢の食事に毒を仕込める者など、限られているからだ。
であれば、かかりつけの医者に診せるのは危険だ。
事実、体調不良の原因を「心労」と言い張っている。
もし羅漢が毒に気付いた素振りを見せれば、もっと直接的に命を奪う算段が始まる可能性があった。
最新医療を備えた病院にかかることも憚られた。
外部から更なる刺客を呼びかねない。
悩んだ末に自ら市井を巡って噂を集め、たどり着いた医者が太白だった。
曰く、『かつて医仙と称された東洋医術の達人で、今では町医者をしている老人がいる』と。
眉唾物の情報だが、当時の羅漢は都市伝説にも縋りたい状況だったのだ。
目撃情報を手繰り、旧北京市街の古びた診療所の扉を叩いた時、太白は中で飲んだくれていた。
扉を開けた羅漢を一目見るなり「中毒だな」とつぶやき、有無を言わさず病床に放り込んだ。
自宅で治療できないかと尋ねたが、
「毒飲まされながら解毒なんざ出来ねぇよ。しばらくは俺が出すもん以外口にすんな」
と、頑として聞かず、羅漢はこのガラの悪い老医者の下で長期休暇を取る羽目になった。
結果として、羅漢の体調はあからさまに好転した。
毒の蓄積がなくなったことはもちろん、太白の解毒治療が的確を通り越し、最上の処置であったためだ。
「ついでに腎虚と内蔵脂肪も治しとこうぜ。アンタ長生きしなきゃならねぇんだろ?」
そう言われた瞬間、羅漢は太白を組織に誘った。最上級の幹部として迎えると口説いた。
しかしこの老人は、
「この診療所を閉めると、近所の爺さん婆さんが軒並み死んじまう」
と笑って取り合わない。
ならば、毒を盛った犯人を捕らえるまでの間でいい。賓客として待遇させてほしい。
と食い下がり、であればと、太白は大黄瓜の敷居を跨いだ。
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