霧京疫癘街 ~不老の果実~

瀧上義緒

序章

燃えるような夕陽がまぶしい時刻だった。

常にくすぶるような曇天の旧北京だが、この時は奇跡のように雲が晴れ、街は数か月ぶりに太陽から照射される赤外線を浴びていた。


格子窓から差し込む夕陽が、紅天鵞絨の廊下を更に朱く染めている。

美しい彩光であるはずのそれを妙に不吉に感じてしまうのは、決して自分が肝の小さい人物だからではなく、廊下を先導して歩く男のせいだ。

と、翠浜会傘下翔義安の紅棍、宇晋は己に言い聞かせた。


黒と名乗る、気味の悪い男である。

外見はどこにでもいる、痩身の中年男性だ。長く整えた髪は首筋でひとつに縛られ、きっちり着込んだ白いシャツは清潔な印象を抱かせる。

が、その顔には終始貼りついたような笑みが浮かび、しかもその表情はピクリともしない。

今この時も、眉ひとつ、皺ひとつ動かさずに歩む様は、異様な存在感を放っていた。

本音を言えば、決して二人きりで会いたい人物ではない。


宇晋は翔義安ではそこそこの年長者であり、手勢も幾人か抱えている。単身で対応するなど舎弟達にも示しがつかない。

何より、これまでそれなりの場数を踏んできた己の勘が、目の前の男に対し「関わるべからず」と告げていた。


しかしこの男――、黒という名も本名か定かではないコイツは、一対一でなければ取引には応じないと条件を付けてきたのだ。

常ならば、その時点で相手は門前払いか、運が悪ければ海河の波に浮かぶことになるだろう。

こうして宇晋が単身乗り込むことになったのは、取引の対象が多少の危険など度外視できるほどの品だからに他ならない。

早々に取引を成立させ、元帥に連なる連絡員に引き継ぎたい。その足で慣れ親しんだ女の家に赴き、この下腹を這い上がるじっとりとした感覚を振り払ってしまいたい。

そう考える気持ちから、宇晋の呼吸は乱れ、目はせわしなく廊下を巡り、振り返り、そして黒の後頭部へ戻ることを繰り返していた。


もう随分と歩いた気がする。

壁と言い、天井と言い、揃いの意匠が連続する朱の廊下は、距離と時間の感覚を鈍らせる。

加えて館中に焚かれている催淫香と、前を通り過ぎる扉の隙間から聞こえてくる嬌声が、脳裏に桃色の風景を想起させ、歩行に支障が出始めている。

その苦労を知ってか知らずか、黒は振り返りもせず、しかし随分柔らかな声で宇晋を労う。

「ご足労をおかけします。もうしばらくですから。商品をお渡ししましたら、夕餉の席にいたしましょう」

冗談ではない。お前といっしょに食う飯など、喉を通るものか。

舌の上まで出かかった悪態を飲み込む。

ここまで耐えた苦労が水泡に帰しては、それこそ骨折り損だ。

そこから目的の部屋までは、本当にわずかだった。


立ち止まったのは、滑るように光を反射する黒檀の扉の前。

引き戸である点といい、見た目以上の重量感を感じさせるスライド音といい、おそらく鉄板に黒檀を貼ったものだろう。

館の最奥と思しき場所も考慮すれば、襲撃された際、主人が立てこもるシェルターなのかもしれない。


あるいは、襲撃者を閉じ込めるための座敷牢か。


しかし、開かれた扉の先は、これまで以上に朱く、豪奢な細工に彩られた部屋となっていた。

中には数人の女が待機しており、皆裸体に薄衣を羽織っただけのいでたちだ。

そのような手段で、客を歓待する部屋なのだろうか。

わずかに灯された赤色の灯りと相まって、ひどく扇情的で退廃的な雰囲気が漂っていた。


「さぁ、こちらへ」

男が宇晋を導いたのは、女たちのひとり。

あどけなさを残した、肉付きのいい乙女だった。

天鵞絨のソファで水煙草を吸っていた彼女は、黒に促されると仰向けに横たわり、つい、と両足を上げた。

なめらかな臀部と秘所があらわになり、その中心からは金の鎖が伸びている。

「引いてごらんなさい」

指示されるまま、金の鎖を指に絡め、引いた。

わずかな抵抗の後、ゆっくりと鎖が引き抜かれていく。宇晋は鎖の先を見つめた。

やがて、秘裂の向こうに卵大の容器が覗いた。

生理的な反射か。女の小さな声と共に生み出された生温い卵を手に、中身を検める。

収められていたのは、透明なパッケージに入った小さな黒い粒がいくつか。

この世界から失われて久しい、植物の種子であった。

今となっては、同質量の純金や宝石以上の価値をもつ、絶滅種の最後の系譜。

その希少性は一介のならず者に推し量れるものではない。


「いかがですか?」

いつの間に移動したのか。背後から手元を覗き込む黒が問いかける。

しかし、宇晋の視線は希少な種よりも、たった今それをひり出した赤い花弁にくぎ付けだった。

道中たっぷり吸い込んだ催淫香と、この部屋に満たされた女人の媚臭。

既に宇晋の股間は限界だった。

「ああ、お気に召されましたか。晩餐まで時間はありますから、どうぞご存分に」

口調こそ丁寧だが、まるで犬に許しを出すような黒の声を合図に、宇晋が女に飛び掛かる。

白くたおやかな肢体がたるんだ肉の下に埋もれるのを、男はつまらなそうに眺めていた。

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