第一話 : 北風と太陽
酒場で開業の挨拶を終えたシラルルは、店主に祝いだと手渡されたぶどう酒を飲み干して屋外へ出た。下戸であるシラルルは既に顔が赤く染まり、少しばかりふらついている。
出入口の脇に積まれた木箱に腰かけて目を閉じると、夜風が髪をくしゃくしゃと撫でて去っていった。
「シラさん。これどうぞ」
振り返ると少年が水の入ったコップを差し出していた。近所に住むキドゥだ。
「あぁ、お気遣いありがとうございます」
受け取って一口
シラルルの様子を見たキドゥは嬉しそうな様子で隣に腰を下ろした。
「キドゥ君は気配り上手ですね。いつも周りの人たちのことをよく見ている」
「いやぁ、そんなことないですよ。見ているつもりで見落としてたり、全然望まれてないことしちゃったりの毎日です」
「そこに気付いていることがキドゥ君の凄いところなんですよ」
シラルルは残った水を一気に飲み干し、ぷはっ。と短く息を吐いた。
「お水をいただいたお礼に、本を一冊差し上げます。君がお客さん第一号です」
「え!? いや、そんな、本って高価なものなのに」
慌てるキドゥの姿にシラルルは小さく笑った。
「今まではそうでしたけど、僕は誰でも気軽に本を読めるようになってほしいんです。僕が作る本の価値を決めるのは僕ですから。キドゥ君からはそれに見合うだけの気持ちを受け取りました」
コップを顔の高さに掲げてみせると、キドゥは申し訳なさそうに眉を寄せて頷いた。
どんな話の本が欲しいかと問うと、キドゥはよく分からないと答えた。悩み事がある様子で、それに関する本がいいとのことだった。
キドゥを含めた青少年は、街の中央にある小屋で各分野の職人から技術を教わっている。
そこでは学友同士のいざこざも頻発するようで、キドゥは同年代の少年から受けた虐めのような仕打ちの数々を語った。
「なるほど。随分と辛い思いをされているのですね」
シラルルは遠くを見つめながら呟いた。
「どうしてこんな理不尽な仕打ちを受けなきゃならないんでしょうか?僕は彼に何もしてません」
「そうですね。本当に理不尽だと思います。キドゥ君はやり返したくなる時はありますか?」
「今まではずっと我慢してました。でももう限界です。次はやり返してやろうと思ってしまっています。僕は間違っているんでしょうか?」
キドゥが不安げにシラルルの顔を覗き込む。
「僕には正誤を判断することは出来ません。全ての人にそれぞれの正しさがありますから。キドゥ君は彼の言動にはどんな理由があると思いますか?」
「理由なんてないでしょう。きっとそういう性格なんです」
「そうでしょうか?僕は、今まで辛い経験をしたことがない人間が他者を意図的に傷付けるとは思えません。彼には彼なりの辛さがあって、どこへ向けていいのか分からないのかもしれない。それを性格だと断じてしまうのは酷なように感じます」
シラルルは両手を胸の前に掲げ、「キドゥ君にこの物語を贈りましょう」と言った。
北風と太陽。
イソップ寓話の一つである物語を紡ぐと、仄かな光と共に本が生まれた。
本を手渡されたキドゥは眉を寄せて俯き、何度か小さく頷いた。
「暴力に訴えてはいけない、ということですか?」
シラルルはゆっくりと
「いえ、そうではありません。場合によっては必要になるのかもしれない。ただ、僕はこの物語を通して北風と太陽には決定的な違いがあると感じています」
「というと?」
「北風は自分の目的のみに目を向けていたのに対して、太陽は旅人の姿をよく見ていたという点です。旅人は寒い道を歩くために家から外套を纏ってきたのでしょう。今までにも寒さを経験した事があって、これからも続くことを予測していたからこそ、耐える術としてわざわざ用意したんだと思います。太陽がどこまで汲んでいたのかは分かりませんが、少なくとも寒い日の中に一度の暖かさを与えたことで旅人は纏った外套を脱ぐ機会を得られました」
「身を守るために纏ったものを脱ぐ機会、ですか……」
「学友の彼には、外套を脱ぐ機会はあるのでしょうか?」
「どうでしょう……。僕が知る限りでは、理解してくれる人はいないように見えます。僕は彼が接してくる態度ばかり見ていて、彼の環境や経験について考えたことはありませんでした」
「では、キドゥ君は北風と太陽のどちらになりたいですか?」
「それは⋯⋯正直まだ分かりません。でも、判断するためにも、まずは相手を知ることから始めていきたいと思います」
雲の切れ間から顔を覗かせた月を見上げるキドゥに、シラルルは静かに微笑みかける。
「キドゥ君が自分で出した答えなのなら、きっとそれがキドゥ君にとっての正しさなのでしょう」
酒場から漏れる喧騒を背に、二人は欠けた月の中に何かを見ていた。
今日から本屋を始めます。 いちや @shino3124
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