第36話 【In a secret room Ⅲ】

「バーキンが誕生したのは1984年の事です。それ以来、一度もデザインは変更されておりません。ただしデザインこそ同じですが、素材とサイズ、さらに色の違いにより実際には多種多様なバリエーションがございます。大汐様が今ご覧になっているおしなは、バーキン30という定番のサイズになります。」


「サイズが30cmという意味でしょうか?」


左様さようでございます。こちらのように横幅が30cmのおしながバーキン30と呼ばれております。日本人女性に一番人気があるのがバーキン30でございます。それ以外ですとワンサイズ上のバーキン35か、ワンサイズ下で最も小型のバーキン25を選ばれる方が多いですね。もちろんサイズが大きい方が実用性は高くなります。また素材につきまして先程は単純に『カーフ』と申し上げましたが、一口にカーフと申しましても複数のタイプがございます。こちらは『トゴ』という素材で作られております。」


「『トゴ』はカーフの一種なんですよね。」


「はい。仔牛こうしの革を使っておりますので、これはカーフです。『トゴ』はおす仔牛の革を使っており、皮目かわめに特徴がございます。」


皮目かわめって何ですか?」


「皮の表面にある凹凸の事です。同じカーフでもタイプによって皮目かわめは全く異なります。そして違いは皮目かわめだけではございません。素材そのものの硬さも大きく異なります。例えば『トリヨンクレマンス』であれば、非常に柔らかい素材である事が特徴になります。」


私はまるで大学の教室で授業を受けているかのように、斉藤さんの話に耳を傾けている。


「そもそもバーキンの原型となったのは『オータクロア』というモデルです。そのためバーキンとオータクロアのデザインは似ていますが、正面から見ると違いは明らかです。」


「どのように違うんですか?」


「形状です。オータクロアは正方形、バーキンは横長の長方形ですので、見慣れた人であれば一目で区別がつきますよ。」


「そうなんですね。」


「もう一つの違いは大きさです。一般的にオータクロアの方が大きくて重い個体が多いのです。これはオータクロアの成り立ちに関係しています。」


「?」


「オータクロアは自動車が普及する前から存在する歴史のあるモデルですが、元々は馬のくらを収納するための巨大なバックでした。その系譜けいふを受け継いでおりますので、オータクロアが大きくて重いのは、ある意味当然の事ではあります。馬車の時代が終わると、オータクロアは旅行バッグとして使われるようになりました。旅行バッグは何より収納力があって丈夫である事が求められますので、大きくて重いオータクロアでも不都合は無いのですが、普段持ち歩くハンドバッグとして使うには不向きです。そこでオータクロアを日常的に持ち歩ける様に小型軽量化したのが、バーキンというモデルになります。もっとも今では小型のオータクロアや大型のバーキンも数多くございますので、デザイン以外に明確な違いは無くなりつつありますね。」


「わざわざオータクロアを小型軽量化しなくても、ケリーバッグでは駄目なんですか?」


「そうですね、確かにケリーバッグ、当時はサック・ア・クロアですが、既にございました。第一次世界大戦までのヨーロッパでは、オータクロアを購入するような階級クラスの人々が荷物を自分で持つという習慣がありませんでした。何故なら彼らは例外なく使用人をやとっており、荷物を持つのは使用人の役目ですから。だから主人が持つハンドバッグは小物しか入らないサック・ア・クロアで十分でした。ところが第二次世界大戦後になると、オータクロアを購入出来るような収入がありながら、荷物を自分で持つという新しい階級クラスが出現したのです。彼らが潜在的に求めていた『荷物を収納出来る高級ハンドバッグ』という新しいニーズに対応したのがバーキンと言えるでしょう。」


豊富な知識に裏打ちされた斉藤さんの話は私の知らない事ばかりで、聞き飽きる事が無かった。

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