第10話 【雨宿り】

生涯忘れられないほど強烈な体験となったニューヨークから東京に戻った私は、再び日常を取り戻していた。


梅雨入りを間近にひかえたその日、昼前から降り始めた雨は、午後の授業が終わる頃には本降りになっていた。


『雨が降り出すのは夜からのはずだったのに・・・』


私は校舎の出口で少しだけ恨めしそうに空を見上げる。


天気予報は外れたが、幸いにも傘は持っていた。


私がさっきまで授業を受けていた7号館と、隣の8号館は20メートル程しか離れていない。


2つの校舎は雨に濡れずに移動が出来るように、屋根付きの渡り廊下で結ばれていた。


空を見上げていた私が視線を落とした時・・・


『え!・・・嘘!』


渡り廊下の先にある8号館の出口に立っている人を、私が見間違えるはずがなかった。


『何で?どういう事!?』


私は最初、彼女が麗央れいおうのキャンパスにいるという事態が良くみ込めなかった。


『まさか!麗央れいおう生なの!?』


彼女の落ち着いた雰囲気は自分より年上を感じさせるものの、講師には見えない。

麗央れいおう大学関係者か来客の可能性もあったが、7号館と8号館は授業のための教室があるだけなので、やはり麗央れいおうの学生と考えるのが自然だ。


彼女は出口に立ったまま動こうとしない。

どうやら雨宿りをしているようだ。


これは絶好のチャンスである。


幸いまわりに人はいない。


こんなチャンスはもう二度と無いかもしれなかった。


そう思った私は、ありったけの勇気を振り絞り、彼女に近付くと声をかける。


「雨、みませんね。」


「!」


「私、麗央れいおう大学英文科一年の大汐おおしおです。突然声をかけてごめんなさい。実は先日、ニューヨーク映画祭であなたの事をお見掛けしていまして、あなたがトロフィーを手渡した女性は私の叔母なんです・・・」


私は緊張のあまり早口になりながら、自分が決して怪しい者ではない事を一生懸命に説明する。


その間、彼女は全く表情を変えずに、黙って私の話を聞いていた。


「それで、あの・・・私傘を持っているんです。お困りのようなので良かったら使ってください!」


私は自分の折りたたみ傘を両手にささげるようにして、彼女の目の前に差し出す。


それでも彼女は沈黙したままだ。


『怒ってる?それとも馴れ馴れしいって思われたかな?』


しかし彼女からそんな様子は感じられない。


それどころか彼女は真っ直ぐに私の目を見つめており、私もまた彼女から視線をらす事が出来ない。


『どうしよう・・・何か言わなくちゃ』


先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。


「この傘を渡した後、あなたはどうするの?」


「それはその・・・傘が無くても大丈夫なんです!私、雨に強いんで。」


『な、なに言ってるんだ、私ぃぃ!』


傘は後で友達に借りるとか、もっと気の利いた事を何故なぜ私は言えないのだろうか?


私は、自分のアドリブ力の無さを痛感する。


そんな私のポンコツな回答を聞いた彼女の表情がゆるみ、わずかに笑ったように見えた。


『あ、笑った。』


私は極限の緊張にありながら、彼女の笑顔に魅了みりょうされる。


そして彼女は穏やかな口調で指摘する。


「普通、その状況を大丈夫とは言わないわ。」


「ごもっともです。」


私は恥ずかしさに顔が赤くなり、泣きそうな表情になってしまう。


「それではこうしない?あなたの傘を使って私を北棟に連れて行ってもらえるかしら?北棟の生協なら傘が売っているでしょう。」


「・・・それってもしかして一緒に、二人で?」


「ええ」


願ってもない展開に、私は驚きと興奮を隠しきれない。


「よ、よろしくお願いします!」


感激した私がいそいそと自分の傘を開こうとしたその時だった。


真夕まゆお嬢様。」


私と彼女が声のした方を振り向くと、雨の中に一人の老紳士がたたずんでいる。


彼が身に着けているのは、普通のスーツではない。


まず首元は銀色の蝶ネクタイであり、足元の黒いドレスシューズはピカピカに磨かれている。


『この人が着てるのは、確か燕尾服えんびふくって言うんだっけ・・・一体何者?』


余程着慣れているのだろう、老紳士はクラシックなテールコートを一分のすき無く見事に着こなしていた。


だが本当に残念な事に、彼の完璧な着こなしも、大学のキャンパスというロケーションでは、およそ場違いな服装にしか映らない。


「遅くなりました。」


そう言葉を発した老紳士の右手には女性用の長傘が握られていた。


それを見た彼女は申し訳なさそうな口調で私に話しかける。


「ごめんなさい、迎えが来てしまったわ。」


「そんな・・・こちらこそごめんなさい。迎えを待っていたなんて思わなくて・・・」


老紳士から傘を受け取った彼女は別れの言葉を告げる。


「また会いましょう。」


老紳士は私に軽く会釈えしゃくをすると、彼女をエスコートする様に歩き始める。


傘を差し、雨の中を去っていく彼女の後姿を見ながら、私は一人感慨にひたっていた。


「まゆ・・・そうか、まゆっていう名前なんだ。」

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