第27話:墓碑

 地上に存在したすべての生命は、竜によって喰われ、屠られ、住処を奪われて、既に絶滅している。


 古代、高空への離脱の際、わずかに残った動物や植物を保存する目的で同伴させたものが、細々と種を繋いでいるが、それを引き続き慰撫するために運営される浮島がある。


 この都市で、同じような役割を持つ慰霊広場を除けば唯一といってもいい、鳥のさえずりが溢れるその場所に、カタリーナの墓碑が建てられている。


 亡くなった魔法使いは、慰霊碑近くにある共同墓地に祀られるのが通例ではあるが、生前の要望により、ここに墓碑が築かれることとなった。


 墓参りは、実に三年ぶりだ。

 失った手足を補い、獅子守小隊に正式所属となる際、挨拶に訪れたのが最後だった。


 トリーシャの足音を聞き、墓前で木の実を食んでいた栗鼠りすが、茂みへと逃げこむ。微かに見えた大きな尻尾を目線で追ううちに、過去の情景が脳裏をかすめる。


 姉はよくここで、物思いに耽っていた。

 森は素晴らしい、命の連環がある。生物の織り成す多彩な情景がある。私はそれを取り戻したいんだ、地表一杯にこれが広がったとしたら、相当に素晴らしいことだぞ──幾度も語ってくれた、あの人の夢。


 果たされることのなかったそれを、慰めるように思い起こしながら、トリーシャはボロボロのウィザードハットから花束を取り出し、墓前に供える。

 自然の状態に近い森の中にあるというのに、土埃や落ち葉の類は、墓碑の近くに認められない。また、墓碑の正面にいくつも植えられている花々のうちに、立ち枯れしているものはひとつもない。


 絶えず誰かの手が入っていることがうかがえる。死してなお、忘れ去られていない証拠だった。


 「姉様……私たち、〈眠り竜〉を倒したんだよ。凄いでしょ」

 墓碑の横に腰を落とし、肩を寄せながら、トリーシャは独白する。


 「すっごく大変だったんだから。大隊の副長なんて任されて……アンナ先生なんて禁呪まで使っちゃうし、父様は変な機械まで持ち出すし、もう、大混乱」


 言葉を連ねるものの、返答などありはしない。ましてやこの墓碑の下に埋められた棺には、何も収められていないのだから。

 姉を思うとき、トリーシャの耳に届くのは、いつも過去からの残響だった。

 カタリーナは、年の離れた、母代わりの姉だった。幼い頃は、姉の向かう先には必ず付いて行った。


 魔導学院への入学も、そこで戦うすべを学んだのも、すべては姉を追ってのことだった。

 そして出来るなら、戦場へも付いて行きたかったが、それだけはカタリーナが許さなかった。


 いつかあの人を唸らせるほど、強くなる。その言葉を抱きしめ、トリーシャは学院で魔導技術の研究に打ち込み、また、姉に隠れて戦術の修行も積んでいた。いつの日か、肩を並べて戦える日を夢見て。

 その夢もまた、満たされぬまま潰えてしまったが。


 トリーシャは唇を噛む。

 どうして貴女が、死ななければならなかったのか──もはや数えきれないほど発した、誰に対してでもない問いかけ。


 何の答えもないことに、慣れたつもりでいたのだが、この場所ではそれが、殊更に寂しく思えた。

 もう、受け入れられたと思ったのに。昔のことだからと、受け流せると思ったのに。


 いざ、その思い出の根源を目の前にしてしまうと、強がりも誤魔化しも一切が吹き飛ばされ、喪失に傷ついたままの弱いトリーシャがすぐに顔を覗かせてしまうのだ。


 泣きたくない。無駄なんだから──そう思っても、込み上げてくるそれを抑えこむ手段を、トリーシャは持っていなかった。

 墓碑に縋りつくことはしなかったが、背を丸め、無言で肩を震わせる自分の姿を、素直に情けないと思った。


 ……いつまで。いつまで自分は、同じところで足踏みをしているつもりなんだろう。


 自分と同じか、それ以上の悲憤に心を灼かれたはずのカールハルトでさえ、カタリーナの死を乗り越え、ひとつの結果を形にした。

 彼のみならず、係累の誰もが、その大きな悲しみを乗り越え、ある種の糧や訓として受け止めて先に進んでいるというのに。


 トリーシャはどうしても、置き去りには出来なかった。どうやっても動かせない事実の前で、止まったままだ。父に会うことや、ここを訪れることで、何よりトリーシャを悲嘆に暮れさせるのは、その思いであった。


 重苦しい感情が充満した頭に、ふと、小さな足音が響いた。

 やや遠くから、意図してやや大きめに響かせたそれは、涙を拭う時間を与えるための配慮だと分かった。トリーシャは急いで目をこすると、なおも徐々に近づいてくる足音に向け立ち上がり、腰下に着いた土をはたきながら向き直る。


 ぼやけていた視界が、やがて明瞭にとらえたたのは、よく知った顔だった。

 「やっぱり、ここにいたね」

 茂みの向こうから、手をあげながら現れたのは、リーセロッテだった。予想外の来訪に、トリーシャは息を呑む。


 「……師匠」

 「まだ、そう呼んでくれるんだ」

 トリーシャの眼前で足を止めて、リーセロッテは軽くマフラーを引いてみせる。トリーシャも背筋を伸ばしてそれに倣った。


 「その節は……どうも」

 「らしくないことを言うようになったのね」

 多くの魔法使いが修める魔導戦術の開祖にして継承家系であるハイドヘルド家をして、稀代の使い手と称されるリーセロッテは、多くの師弟を持っている。かつてはトリーシャも、そのうちの一人だった。


 姉様と一緒に戦いたい──一点の曇りもない眼と言葉で師事を申し出た、幼き日のトリーシャの真剣な顔は、今でもリーセロッテの脳裏にある。


 「あなたの噂は色々と聞こえてきたけど、直接会うのは、随分久しぶりね」

 「そう、ですね」


 なんとか黙り込まずに返答はするものの、どうしてもトリーシャの顔が強ばってしまうのは、二人の間に今も薄い壁を残すに至った、過去の出来事があるためだ。それも、彼女が完全に正体を失っていた、カタリーナの死の直後から数年の間に起こった出来事である。


 竜への憎しみが募るあまり、それを完全に無視していた時期があったこともまた、事実である。その後ろめたさから、トリーシャは彼女の眼を正視できずにいた。


 「──はい、縮こまらない」

 いつの間にか、背後。首筋を人差し指で軽く小突かれ、トリーシャは間の抜けた声を出してしまう。


 「呼吸が乱れてる。分子観測が平滑に出来ていないから、一瞬の乱れを見逃し、簡単に後ろを取られるのよ」

 「……精進します」


 「いい? あなたを越える生徒は、少なくとも私のところからは、未だに出ていないわ。栄えある先達として、恥ずかしくない振る舞いを心がけるように。──今からでもね?」

 「ご指導、ありがとうございます」


 数秒間、目尻を釣り上げた厳しい師の表情を作ってから、一度目を閉じたリーセロッテは、小さく鼻歌を奏でながら歩み出し、カタリーナの墓前に膝を付く。そして、賢者ローブの袖口をまくり上げると、墓碑の周囲にある花々に手を伸ばした。


 「ここの世話ね、カールハルト様と私と、交代でやっているの。他にもたくさん、手伝いの申し出はあるんだけど、何となく……ね」


 言葉の通り、花の背の高さは整然と揃えられており、雑草の類もその合間に見つけることはできない。それでもリーセロッテは、黙々と手を入れ続ける。さきほどトリーシャが見かけた際には気付かなかった、風に吹かれたか小動物に踏まれたためにわずかに折れ曲がった花茎や、咲き終わって色あせ始めた花弁などをつまみ、取り払っていく。


 「カタリーナのことだから、細かいところまできちんとやらなくちゃ、化けて出そうだから。『君の掃除には愛情もセンスもない!』……なんて言いながらね」


 そもそも良家の出であり、なおかつ管理収録者委員長補佐にして上級賢者の地位にあるリーセロッテの有する地位や権限を鑑みれば、土仕事ほど縁遠い作業はないだろう。

 それでも彼女は、本来汚す必要のないその手を止めようとはしない。何か、手伝うことは──半歩踏み出したトリーシャだったが、


 「あなたは駄目よ」

 向き直ることなく発せられたリーセロッテの言葉に、足が止まった。


 「私は、死者を弔うためにここに来て、世話をしているの。でも、あなたは違う……まだ、受け入れていない」

 視線も仕草もなく、ただ背中のみで語った一言は、辛辣なほど克明にトリーシャの本心を看破していた。


 「……返す言葉も、ありません」

 リーセロッテの口調や声音は、談笑のように明るい。だが、トリーシャの縮こまる様は、厳しい叱責を浴びせられた時のそれと相違ない。


 眼前の賢者からは、戦術指南だけでなく、人として、戦士としていかにあるべきかという心得の数々も伝授されていた。その経緯から、リーセロッテはこの都市でも極めて希少な、トリーシャがいつものあけすけな抗弁を弄せない相手のひとりとなっている。


 「なんだか、拍子抜けしちゃうね。もっとこう、激しいリアクションを期待してたのに……拳で語らうのも想定内だったのよ」

 「勝てる戦いしか、挑まない主義なので」

 「あれだけ無茶をしておいて、よくもまぁ……」


 二人の脳裏にあるのは、過去。トリーシャと名乗る以前の、デアトリーティアという魔法使いである。

 戦いのさなか、督戦隊の宿舎にも、私邸にも寄り付かず、戦闘終了の鐘が響いた後、おぼつかない足取りで戻ってくるのが、この場所──カタリーナの墓前だった。


 疲れ切った身体を地面に投げ出し、姉の名が刻まれた墓碑に肩を寄せ、眼を閉じる。そうして、木々のざわめきと鳥のさえずりに包まれながら、次なる襲撃を報せる鐘が鳴るのを待っていた。


 デアトリーティアという人物に付いて回る突飛な噂の類は、そのほとんどが、この時期に発生したものである。


 小隊や、その担当区域などという概念を排し、目に付く竜全てに襲いかかる狂戦士は、厄介者とも救世主とも言われ、悪口雑言や褒めそやしの類は容赦なく浴びせられた。そのいずれも、トリーシャの憎しみをいささかも翳らせるものではなかったが。


 そんな放浪生活を続ける間、最高賢者という責任の集中する地位にある父へ、自分の行いによる累が及ぶなどと懸念したことは、一度もなかった。

 後になって人づてに聞いた話によれば、決して少なくない憂慮や苦情の声が、直接、カールハルトのもとへ寄せられていたという。


 それでも、父本人からの強引な差し止めは一度もなかった。何を思いトリーシャの暴走を黙認したのか、他の誰も、当人のトリーシャでさえも古今において訊ねていない。ただ、カールハルトの胸中は、娘二人のかかる事態を受け、穏やかであったはずもないが、トリーシャはそれにさえ気づけなかった。


 最高賢者の娘でも、消えた英雄の妹でも、誰でもない──ただ一介の魔法使いが、死ぬまで晴れない憎しみにもがき、苦しむだけ。


 倒しても倒しても、また竜は沸く。守っても守っても、人はいつか死ぬ。


 この上ない皮肉──壮大なほどに無為な円環運動の渦中にある世界に、私は生きている。


 自ら築き上げた壁に閉じこもって、孤独な闘争に没頭していたデアトリーティア・フォン・イフリテスは、結局、暴れるままに数千もの竜を撃墜し、戦史に血文字で自名を綴った。


 あれから、三年。捨て去ったものと、捨て切れなかったものが、記憶や事実としてトリーシャに残されている。

 リーセロッテは、そのうちの後者としてここに現れたのだろう。それは、以前と変わらない柔和な笑みが語ってくれる。


 「獅子守小隊って、きっと、いいところなのね」

 かつての師が漏らした思いもよらぬ言葉に、トリーシャは得心いかず首を傾げる。


 「そうでしょうか」

 「それはもう。あなたを変えてくれたというだけで、私にとっては素晴らしい小隊よ」


 「……私、そんなに変わりましたか」

 「ええ、もう。話が通じるって時点で、別人みたい。誰も説得し得なかったあなたを、ここまで飼い慣らすなんて──緋堂さん、さすがね」


 「ご存知なんですか、あの子のこと」

 「ええ。あなたの横に、いつも居てくれているもの。獅子守町の戦いぶりは、すべて確認してるから。彼女の動きは、実に洗練されてるわ。いったい、どこの出なのかしら」


 「学院には近寄ったこともない、という程度の経歴らしいですが」

 「それであの動きが出来るとしたら、素晴らしいわ。ぜひ一度、会って話してみたいものね」

 「不快な思いをされるだけだと思いますが……」


 「随分な言い方だけど、嫌いなの? 彼女のこと……ああ、むしろ逆かな。だから気安く言えるのね」

 「……ノーコメントでお願いします」


 何とも言えない表情で顔を背けるトリーシャを見て。リーセロッテは小さく肩を震わせて笑む。


 「──ねえ、彼女の視線を追ったことがある? 戦闘の最中、どこを見て、何をしているか。きっと気づいてないだろうけど、獅子守小隊の布陣は疑いようもないほど、あなたのために整えられてるのよ。今より一人でも過不足があったら、きっと邪魔だとか──物足りないとか、そう思うでしょう?」


 歯に衣着せぬ物言いは相変わらずだが、言い寄るその内容は心当たりのあるものだった。疎ましいほど的確な鼎の指示や指摘は、いつもトリーシャの傍らから発せられていた。


 「あなたが止めても聞かないのは、分かりきっている。ならば、その行く手を最大限効率的に支援する……そんな思想が、よく見えるわ。だから、今の環境に、深く感謝なさい。背中を守ってもらえることのありがたさを思えば、決して無茶な独断専行なんて出来ないはずだから。あなたも、誰かにとって、決して失いたくない存在だってこと──それを忘れないで。トリーシャ」


 理路整然とした、追求とも説得とも取れるリーセロッテの宣告に、トリーシャは眉根を下げ、うつむくことしか出来なかった。


 リーセロッテにも、そして鼎にも、後ろ足で砂をかけるような真似を繰り返してきた。その過去や経緯を思えば、諫言や配慮ではなく、むしろ罵倒をぶつけられても文句は言えなかった。


 それを押さえ、優しく諭す彼女らの姿勢には、頭を垂れる以外に返礼の方法が思いつかなかった。

 竜への憎しみ、それは潰えたわけではない。だが、それ以外の何かが、トリーシャの心中に芽生えているのもまた、事実だった。


 「……はい、湿っぽいお説教はここまで」

 両手を打ち合わせた乾いた音で、リーセロッテはそれまで自身と場に漂っていた深刻な気配を打ち消した。


 「ごめんね。久しぶりだったから、何だか色々言い募ってしまって。大変な戦いの後だったのに」

 「いえ。自業自得ですから」


 「よく言えました。じゃあ、いい子のトリーシャにはご褒美をあげなきゃね」

 指に残った泥汚れを、手を打ち合わせて払いつつ、リーセロッテはトリーシャに歩み寄る。


 「その、緋堂さんだけど、先程、意識が戻ったそうよ」

 「……本当ですか?」

 「嘘は言わないわよ。ほら、会いに行ってあげたら?」 


 逡巡の後、トリーシャは一度鋭く頷いた。好機、逃すべからず──これもまた、リーセロッテがトリーシャに授けた心得のうちの一つだ。


 「……分かりました。師匠、また──ご挨拶にうかがいますから。それでは」

 トリーシャは律儀な動きで防護衣マフラーを引いて、静かに墓前を辞した。


 その後ろ姿が茂みの奥に消えていくまで見守った後、リーセロッテは、カタリーナの墓碑を指でかるく突付いた。


 「重たい役目ばっかり押し付けて、自分は黙って眠りこけて。申し訳ないと思わない?」


 ため息を投げつけても、墓碑はぴくりとも動かない。

 分かっているからこそ、リーセロッテは言葉を続ける。


 「やっぱり、辛いわね。あんなに思い合っているのに──あの子達を、引き離さなきゃいけないなんて」

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舞え、高天のウロボロス 葉隠ガンマ @Hagakure_Gamma

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