第26話:輻輳

 〈英究機関〉本館の周辺に浮かぶ島々は、貴族の邸宅が集まる、いわば山の手街である。

 魔法使い社会における貴族とは、その家系全体において、古くから顕著な魔導技術の開発実績を有する知的名門を指す。


 彼らの威信を支えるのは、血脈や伝統といった有名無実の要素ではなく、あくまでその努力研鑽によって都市にもたらした成果、貢献という事実である。

 そのため、功績を評価されてある日を境に貴族として叙される者も居れば、反対に怠慢を咎められ、家屋財産の一切をそれまでの栄誉と共に失う者もいる。


 絶え間なく流転する栄枯盛衰の中にあって、イフリテス家という一門は、小揺るぎもせず、ひときわ眩い光輝を放つ名門中の名門であった。

 魔導の開祖──始祖賢者エヴァンス・フォン・イフリテスの直系である彼らは、漏れ無くその血に恥じぬ才覚を受け継いでいる。


 そのひとつの証左として、過去、魔法使い社会の最高意思決定機関である管理収録者委員会に、イフリテスの姓を持つ者が参画しなかった事例はない。


 それが単なる世襲であったなら、有り体な縁故呼ばわりで事実への評価を終えることもできたが、誰の異論も追随も許さぬほどに、賢者の連綿は高い水準で保たれ続けている。


 その継承者たる、魔法使い社会の最高権力者が住まう私邸ともなれば、トリーシャが普段過ごす獅子守町の邸宅など、掘っ立て小屋と断じても過言ではない差があった。


 水と緑を湛えた庭園に抱かれる、母屋と離れを含む広大な屋敷は、華美を誇って威圧するような〈英究機関〉本館とは似ていないが、それでも、保たれてきた実質的権威を静かに語るかのごとく瀟洒に、しかし堅牢に佇む。


 絶え間なく注ぐ日光をまばゆいまでに照り返す純白の壁面は、いかに風雨に晒されることがないとはいえ、建立以来百年を数えようかというこの屋敷の歴史を鑑みれば刮目すべき特徴と言えるだろう。


 当時の建築魔導の粋を凝らして生まれたこのイフリテス本邸は、いかに新しきものこそ優れたる魔法使い社会においても、古きを尋ねる価値を忘れさせない、遺産と称すべき建造物の一つといえた。


 その白亜の館に備えられた、たった一つの表玄関から、堂々と入場できる資格をトリーシャは備えていたが、あえてそこを辞し、裏手に回りこんでいく。

  トリーシャが目指すのは、表玄関とちょうど対角の位置にある、本邸の裏口だった。


 本邸と離れをつなぐ渡り廊下の側にあるそこは、表玄関の堅固な観音開きとは違い、単なる外開きの簡素なドアだ。


 装飾もなく、ともすれば庭園の緑に視覚上では埋もれてしまいそうなそれの前に音もなく降り立つと、トリーシャはその周囲をしばらくの間見渡していた。


 防衛戦を終えたカタリーナが帰ってくるのは、いつもこの扉からだった。戦いの余韻を引きずったままの戦闘服では、玄関を汚してしまうから──というのが言い訳の常であったが、実際は表玄関で待つ、父を始めとした周りの魔法使いたちの小言を回避しようとしていただけだったのを、トリーシャは見抜いていた。


 最高賢者の実子たる者が前線で戦闘など……とうに聞き飽きた諫言は、例外なくカタリーナにも浴びせられていたのだ。

 今回の裏口入場も、あの時の姉と同じような理由である。後ろめたさ、懐かしさが目の前に壁を作り、どうしても正面から参る気にはなれなかった。


 しばらく忘れていた思い出を撫でると、一呼吸置き、トリーシャは扉を開いた。その先、通用廊下の窓を雑巾で磨き上げている──カールハルトの存在など、予想さえせず。


 「……あ」

 親子の間の抜けた声は、ぴたりと一致して邸内に小さく響いた。


 硬直時間数秒の間、それぞれに次なる一言を探しあぐねて、合わさっていた目線も外される。トリーシャがそのまま邸内に立ち入り扉を閉めると、応じるようにカールハルトは作業の手を止め、向き直った。


 「来てくれないかと思ったが……足労をかけたな」

 「せっかくのお招き、だったから」

 短く一言ずつ交わすと、カールハルトはひとつ咳払いした。


 「先の戦闘では、多大な戦果を挙げたようだな。よくやった」

 「……どうも」


 獅子守の面々に掛ける言葉とは似ても似つかない、冷めた口調。

 血縁である実父に対する返答としては、あまりに平坦で、何も含まない声音だった。


 だが、それを受け取ったカールハルトも、不快な表情を見せはしない。ただひとつ頷いただけで、会話は終わってしまう。

 三年前のあの日、その親子の関係に生じた瓦解の兆候は、今でも解消されていない。


 「約束の時間より、だいぶ早いようだが」

 「別にいいでしょ、実家なんだし……。でも、何でこんなトコロの掃除、自分でやってるの」

 「使用人には皆、暇を出した。渡せるような触媒は全て、使ってしまったのでな」


 「……どういう事?」

 「言ったそのままだ。家財の類までは手を付けずに済んだが、触媒資産は余さず地上での戦費に投じた。それを築いた先祖や、受け継げるはずだったお前に申し訳ないという思いから、せめて掃除くらいは自分の手でと思ってな」


 言われてトリーシャの心中に流れたのは、懐かしくも苦い思いだった。そういえば──こういう父だったな、と。


 そうした仁義の切り方に関して、父が人後に落ちるというのは、トリーシャにとって考えづらい事態であったので、特に責める気持ちも沸かず、ただ苦笑を一つ捧げる。


 「志は立派だけど、誰も感謝なんてしてくれないよ」

 「望むところだ、受け取れる義理ではない。……とにかく、場所を移そう。話したいこともある」


 父からの呼びかけに、トリーシャは小さく頷く。それを受けて静かに歩み出すカールハルトと一定の距離を保ち、後に続いた。 

 広い邸内では、カールハルトの言葉通り、使用人に出会うことはなかった。沈黙を伴ったまま二人は歩み続け、やがて広いバルコニーに出る。


 普段あまり目にすることのない、〈英究機関〉本部の背面が見渡せるそこは、かつて、親子三人で過ごした思い出の場所でもあった。


 「ここで共に過ごすのは、久しぶりのことだな」

 「……そうだね」

 全く続かない会話は、久々の対面であったからという単純な理由では説明しきれない。


 竜との戦いに明け暮れ、ただ怒悲の激情を迸らせることしかできなかったトリーシャと、一人残された末娘と悲しみを分かち合う暇もなく、戦後の処理に忙殺されたカールハルトの間には、埋め難い溝が生じていた。


 互いのありように対して抱いていた不満は、罵声や怒号に変えて、とうに飽きるほど投げ渡し合った。その末には、抱く主張が決して相容れないという、諦念だけが残った。


 今となっては、完全に冷え固まった定型句だけが、かろうじて、ちぎれて消えそうな親子関係を繋ぎ止めていた。


 「覚えているか、トリーシャ。ここからお前が飛び出しそうになったのを」

 「記憶は明らかじゃないね」


 変わらぬ冷えた口調の裏で思うのは、父の持って回った口ぶりに対する疎ましさだ。

 こういう話し方をするとき、その後に続くのは決まって都合の悪い話だ。


 地上へ赴く前に〈英究機関〉で顔を合わせたときと同じ──あるいはずっとそれ以前から変わらないのかも知れない、不器用な父の、精一杯のタイミング調整だ。父の次手は何か、トリーシャは背筋を少し硬くして待った。


 「……地上戦の最後、獅子守小隊を危険に晒したのは、私のミスだ。すまなかった」


 第一声は、予想を大きく逸れていたため、一瞬、彼が何について言っているのか理解できなかった。

 最後の危機も何も、トリーシャにとっては地上戦そのものが危機のみで構成されたパニックムービーのようなもので、思い当たる節が多すぎたのだ。怪訝な表情のトリーシャに、カールハルトは説明を付け加える。


 「お前たちが、〈眠り竜〉との戦闘に入った際のことだ。〈やじり〉で竜を一掃する際、お前たちを、巻き込む形になった」


 固有名詞を出された時点で、初めてトリーシャの中で会話の線が繋がった。

 それと同時に、未だ記憶に新しい当時の情景が思い起こされて、トリーシャは自分の体温が一気に上昇するのを感じた。


 「……あの機械は、父様が作ったの」

 「私の指示によるものだ」

 頷く父の目を、トリーシャは尖った視線でまっすぐに射る。


 どうしてそんな、危険なものを作ったのか。鼎は、あの唐突な射撃によって、深く傷ついたかも知れないのだ。

 いつだって自分勝手。ひとりで決めて、まわりを巻き込んで。それが最高賢者という要職にある者のやることなのか──わめき散らしてやりたかったが、結局……昔と違い、声までは出せなかった。


 苛立つ心の裏側では、それこそ父がもっとも自覚し、自責しているところだと、分かっていたから。そして今度こそ、危険な手段であってもあえて用い──あの時の無念を、晴らそうとしているのだと、分かったから。


 言葉をぶち撒けることもできず、ただ噛み締めた歯を剥くトリーシャの様子を見て取り、カールハルトの表情は曇った。


 「聞き及ぶところ、いまだ目を覚まさないと言うが……予後はどうか」

 「今は、落ち着いているよ」

 「ならば……いや、よくはないな。窮状へ追い込んだことに変わりはない。重ねて陳謝する」


 言葉を切って、カールハルトは防護衣マフラーを引いた。そのあまりに流麗な動作に、トリーシャも思わず倣ってしまう。


 だが、彼女の引いたそれは、言うまでもなく獅子守小隊の刺繍が刻まれた防護衣マフラーである。

 そこへ注がれるカールハルトの目が、一瞬だけ細くひそめられたのを、トリーシャは見逃さなかった。


 「私の防護衣マフラーは、これだから。これしか、ないから」


 指摘を受ける前に、先手を打っておく。それはお前が身につけるべきものではないという、聞き飽きた勧告を封じ込めるためだ。


 対面の有無によらず、カールハルトとの会話が持たれる際、必ず俎上に上る話題というのが、小隊を抜けて実家に戻れというものだった。

 これこそは、この親子の関係をもつれさせてきた主たる要因のひとつと言っていい。


 あくまで在野にあり、前線での復讐戦を望むトリーシャと、その危険域から実娘を遠ざけたいカールハルトの思いが一致する余地など、これまでなかった。


 妥結点のない議論を、単なる口論という無為なそれに変容させたくはない、そう思っての言葉だったが、それを受けたカールハルトからの返答は、一言一句、トリーシャの予想をすべて裏切る言葉だった。


 「……もう、ここへ戻れとは言わん。これからは、お前の望むままにしていい」


 あまりに想定外で、唐突な許諾の言葉。とっさに返答が見つからず、視線を外して、その代わりにする。


 「喜んでくれると思ったのだが。もう、私の煩わしい干渉もなくなる」

 「望むまま……って言われても。なんで、いきなり」

 「他意はない。まったくもって字面通りだ。獅子守小隊に残るも、あるいは魔導学院へ戻るも、それらの場所でなにを為すかまでも、全てお前の意のままだ」


 「急転直下だね。不出来な娘は、ついに放逐……ですか」

 「お前の受け取り方次第だ。少なくとも、私にはそのような意志など無いが」


 もとよりその手の心理的陽動など、誰からであっても意に介さない父ではあるが、あてつけにも揺るがぬところを見ると、どうも本気らしい。

 その思わぬ宗旨替えに戸惑う気持ちを悟られたくないトリーシャの声音は、ますます硬くなっていく。


 「認めてくれるのは、いいけど、私は何も変えるつもりはない。これからも、前線に立って戦うから」

 「覚悟の程は見事。だが、それもじきに、必要なくなる」


 慎重さを是とする彼が、予断もなく言い切るのには、理由がある。

 それは、HUDネットワーク経由のニュース配信で、トリーシャも確認していた。戦闘の最中にも関わらず、眠気に耐えかねて倒れ──そのまま、消滅する竜の姿を。


 睡眠状態への移行によって、分体としての個別意識を保てなくなった竜は、打ち倒された時と同じく、粒子化状態に追い込まれるのだと推測されている。


 こうして、一度サイクルに乗ったが最後、再誕と消滅を延々と繰り返す、無常な連環が竜を待っている。また、たとえ意識を保っていても、〈さとり〉に捕捉されれば、結果は同じである。


 戦う必要がなくなる──カールハルトの言葉は、もはや過言ではないのだ。


 「……戦いはまだ、必要だと思う。悟り竜は消えてない。誰もそれを確認してない」


 だからといって素直に頷くトリーシャではない。父との言い争いには慣れている。

 とにかく言葉を継ぎ、反論を投げかけ続けなければならない。少しでも沈黙の間が空けば、そこへ怒涛のように正論を詰め込んでくるのだから。


 「奴とて竜だ。いや、奴こそが竜か……。しかし、いずれにせよ同じことだ」

 「悟り竜が再誕すれば、きっと竜は持ち直すよ。魔導の全てをられていること、忘れたの?」

 「あの魔導技術までは──〈さとり〉と〈やじり〉は、視ていない」


 一歩、強く踏み込んだ足音とともに吐き出された一言は、これまでの会話になかった熱を帯びている。それは、親子にとって共通のタブーである、への言及が避けられなくなったことの前触れでもあっただろう。


 「カタリーナが、奴の目を閉じてくれた。命と引換えにして──私に、時間をくれた。だからこそ私は、それに報いるための行動をとったまでだ。例えば今、悟り竜が再誕したならば、その時点で、真の意味において戦いは終わる。奴が視られるのは、自らに降り注ぐ光芒の色だけだ。私たちは──魔法使いは、勝ったんだ、トリーシャ。もうお前が、危険な戦場へ赴く必要はない。他すべての小隊の魔法使いも含めてだ」


 カールハルトの自信の根拠は、現時点までの成果を加味し、磐石とさえ言えるもので、その点に関してはもはや認めざるをえない。


 しかし、トリーシャにはどうしても納得できない部分があった。

 どうしてそうも簡単に、背を向けてしまえるのだ。事実からも、戦いからも。

 カタリーナが帰らなくなったのは、無論、父の責任のみに帰するところではない。トリーシャも、それは分かっている。


 だが、それを飲みこむことも、吐き出すことも出来ないまま、喉元に引っかかり続けている。

 その不快感、喪失感、あるいは自分と同じかそれ以上の悲嘆に暮れているはずの父に、今になっても慰めの言葉ひとつかけてやれない自分への苛立ちさえも、転じて父への冷めた態度に変わってしまう。


 不器用極まる己の無様さを認めたくなくて、トリーシャは父の顔を正視できなかった。ただひとつ、決まりきった答えだけを、表に出す。


 「……私は、前線から立ち退くつもりはありません。戦う必要がなくなったとしても、同じです」

 「──ああ、分かった」


 その決意に対する父からの返答は、意外なものだった。重いため息でも投げつけられるかと思っていたトリーシャは、ようやく正面から実父と目を合わせる。


 「揺るがぬ覚悟、見事だった。この先、何があろうとも、今のように堂々とあれ。お前が意のままに、健やかに過ごせるのなら、俺は──それでいい」


 穏やかに言い切ったカールハルトは、近年見たことのないほど、さっぱりとした表情をしていた。


 〈眠り竜〉を撃破したとか、触媒の枯渇を解決したとか、為政者の彼を安堵させる事柄はいくつもある。だが、トリーシャが感じたのは、そうしたことではなく──まるで、一人の父親が、その役目を締めくくろうとしているような──。


 カールハルトが懐から取り出したものを見て、トリーシャの予感はさらに強まる。差し出された、見覚えのあるそれは、この邸宅のマスターキーだった。

 「待ってよ。何でこれを、今──渡すの」


 詰め寄ったトリーシャに、カールハルトは、薄く微笑んだ。

 「そんなの渡されても、困るから。どうせなら、もっと、片付けてからにして!」

 「……それもそうだな。俺が、できる時にやっておこう」


 マスターキーを突き返し、バルコニーから室内に戻っていったトリーシャには、見えない。カールハルトのローブの袖口から、何か、粉のようなものが漏れたのを。


 注視していれば、それが触媒であると──このカールハルトは、代理人格だとすぐに分かっただろう──その触媒の操作でさえ、若干おぼつかなくなっていることも。


 「あと何度……会えるだろうか」

 つぶやきは、不意に過ぎた強風にさらわれて、雲間に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る