第4章

第23話:我の名は

 三年前、無謀な戦いを繰り返していた日々。

 目覚めた時、そこが見覚えのない場所であったことは、幾度もあった。


 だからトリーシャは、今回も特に驚くことはなかったが、とにかく身体が動かないことにまず苛立ちを覚えた。


 その部屋は天井から何から、全て白一色で、自分はベッドに寝かされているようだった。

 左はすぐ壁で、窓もあるらしく、そこから漏れてくる陽光がとにかく眩しくて、彼女は顔をしかめた。


 「やっとお目覚めかね、お嬢さんフロイライン


 窓と逆方向から聞こえてきた声の方へ、トリーシャは眼球だけを向ける。

 髪も、瞳も、とにかく真っ黒な子だな。声をかけてきたと思しき、ベッドの横に立っていた少女を見て抱いた感想は、簡素で、やや失敬なものだった。


 「……あんた、誰」

 酷く嗄れた声だったが、何とか搾り出したそれをぶつけてみると、真っ黒な少女は苦笑する。


 「命の恩人のことを覚えていないというのは、いささか礼節に欠けると思わんか?」

 「……なんで、ここにいるの」

 「私のセリフを奪わないで欲しいところだが、あえて解説すると……君は、割り込んできたのだ。いつもと同じようにな」


 大体の事情は、その一言で思い出した。記憶の最後にあるのは、戦いの光景。

 都市全土を駆け巡っての一大攻防となった、あの竜との戦闘の果てで、自分はここに流れ着いたらしい。


 「君は戦士竜に勝った──のかもしれないが、負った傷は、君の方が遥かに深いな」

 「奴は……どうなったの」

 「逃げ去ったよ。持ち帰られた、という方が説明として正しいか。身体の半分以上を吹き飛ばされて、それはそれは無様だったが……今の君も、あれを笑える状態ではない」


 そこまで聞いて、ある程度自覚していた、己に身体に起こった変調がいよいよ事実なのだと悟る。


 両腕と、両脚の感覚がない。

 より怖じず核心に近づくとすれば……それ自体が、無い。


 「ようやく、思い出したか?」

 トリーシャは答えない。とにかく、激烈な戦闘だったことだけを覚えている。

 使えるものは、何でも使った。それがたとえ、朽ち折れた自身の拳足であっても。


 痛みは、憎しみと昂奮の影に消えていた。今も、付け根の部分に少しの違和感がある程度だったが、それこそが喪失の事実を色濃くしていた。


 「できる限りの処置を施したが……な」

 配慮に満ちた声音の少女だったが、トリーシャは別の事柄に思いを致していた。


 私は勝てたんだ。あの戦士竜を撃退出来たんだ──姉様と同じように。

 トリーシャにとって、その偉業が達成できたのなら、引き換えに体の一部を失ったことなど、憂慮に値しない事象だった。


 「何故そこで、嬉しそうな顔をするのか」

 「どうでもいいでしょ。そもそもあんた……何なの」

 「私の名は鼎。手足と気を失って落下の途にあった君を、ここまで連れてきた正義の魔法使いだ」


 「……助けてくれて、ありがとう」

 「どういたしまして。意外と、素直なんだな」

 「放って置かれたら、きっと死んでたから。まだ戦いは終わってない。竜は再誕してくる。私も、戻らないといけない」


 「落ち込む間もないのは結構だが、今は無理だ。分かるだろうに──まず治療に専念すべきだ」

 「そんな時間、ない」

 「君がそうだと思い込んでいるだけだ。まだ若い身空だというのに、焦ることもあるまい」


 埒のあかないもどかしさに加え、この鼎という少女の、独特な持って回った言い方に、トリーシャは怒りを覚えていた。その感情は、きわめて直截的に、鼎に向けて放たれている。


 伴う眼差しも、戦時、竜に向けられてきたそれと寸分たがわぬ禍々しいもので、目の当たりにした魔法使いの誰もが視線を逃がしていたが、当の鼎は臆する素振りもない。


 「なんという目だ。充血しすぎて痛いだろう、少し閉じておけ」

 言うなり、遠慮のない手付きでトリーシャの額に手を伸ばすと、そのまま滑らせて瞼をふさいでしまう。


 トリーシャの肩が、瞬時の接触に強張ったが、警戒や嫌悪を少し──否、大いに和らげたのは、触れた鼎の手の温度だった。それ自体は室温を写し取ったようなぬるいものだったが、トリーシャは振り払おうとはしなかった。


 物理的に不能だったからではない。

 最後に、こうしてもらったのは、いつだったか思い出せなかった──あんなに近くにあったぬくもりが、なくなってしまったことを思い起こさせられたその悲しみのほうが、嫌悪や警戒より遥かに強かった為だ。


 「今度は、君の名前を教えて欲しいんだが」

 「ない。捨てた」

 「きちんと名前を捨てていい日に、所定の場所へ持ち込んだのか? そうでないなら、不法投棄だぞ」

 「……知らない」

 「知らんでは済まないことも、世には沢山あるのだがね」


 それまでトリーシャの目元に当てていた手をどける。再び開けた視界の中には、変わらず心配そうな──苦笑ぎみの、鼎がいる。

 むずがゆいような、懐かしい感覚が奥底に蘇るのを感じていた。トリーシャが久しく求め続け、満たされず、もがいた──その何かを、鼎は帯びているような気がした。


 しかしそれをうまく言葉にできず、ただ鼎と名乗った真っ黒な少女の目をぼんやりと見ることしかできなかったが、鼎はそれを逸らすことも、余すこともなく受け止めている。


 「意識も戻ったことだし、明日から治療を始めるぞ。腕のいいメディックにも声をかけてある。まぁ、期待しすぎず待つがいい」

 「いつまで、かかるの」

 「専門外なので明言しかねるが、次の襲撃までにとはいかんだろう──君が負ったのは、それほどの傷だ」


 冷静な宣告が、トリーシャの背筋に悪寒を走らせる。

 戦えないのなら、生きている意味など無い。傷を追う前でさえ、何のための命か、分からなかったというのに──それなら、もう。


 「言っておくが、舌を噛んでも、痛いだけで意味はないぞ」

 「……先に言っよ」


 少々、喋りづらそうになったトリーシャを見るや、頬を押さえてその口を開けさせ──

そして、大きくため息をつく。


 「この期に及んで、さらに自身を傷つけるのか。どうしようもない奴だな、君は」

 反論したかったが、まだ舌が痛む。

 さすがに噛み切るには至らなかったが、歯が食い込んだ部分はしばらく滲みそうだったので、トリーシャは、むすっとした表情のまま押し黙っていた。


 その様子をじっと見つめた後、トリーシャの顔から手を離した鼎は、ベッドサイドにその小さな尻を落として、改めて憮然とした表情のままのトリーシャを見やる。


 「ここで、戦いをやめることも出来るんだぞ」

 「……やめない」

 「そう言うとは思っていたがな。ではせめて、正しく戦ったらどうだ?」

 「正しく?」


 「そうだ。正しき魔法使いが戦うには、欠かせないものがある。何だと思う?」

 「……知らない」

 「考えてから答える癖をつけろ。答えは小隊クラスだ。これまでのような無謀は振る舞いは、誰のためにもならん。正規の作戦行動に則って戦うべきだ」

 「……やっぱり、私が誰だか、知ってたんだ」


 「うむ。知らん奴のほうが珍しいだろう」

 「私を助けても、誰も褒めてくれないよ」

 「そんな事は期待していない。私が君を助けたのは、スカウトするためさ」


 そう言うと鼎は、首元の防護衣マフラーをそっと引いてみせる。そこには、小隊名を示す、真紅の刺繍が刻まれていた。


 「獅子守小隊。昨日、結成の申請が通ったばかりだが──ここに、君を迎え入れたいと思っている」

 「どうして、私を?」

 「君が、強き魔法使いであるが故だ」


 「戦えるようになれるか、分からないのに?」

 「──なるだろう?」

 軽く転がすような一言。それが、トリーシャにとっては救いのように聞こえた。


 「なるだろう? 戦えるように。君は諦めないだろう。この先どんな辛苦が待つか分からなくても、立ち上がって、戦うだろう」

 トリーシャは、その問いかけに、すぐ頷いた。


 苦しむだけで、道が拓けるのなら、何の問題もない。もう二度と戻らないものに、ひたすら追い縋るより、ずっと楽だと、トリーシャは思った。


 「では、交渉成立だ」

 そう言って、鼎はベッドサイドから立ち上がる。そのまま部屋の隅まで歩むと、何かを持って帰ってきた。


 「君の分の装備だ。戦闘服に防護衣マフラー、その他諸々──君の準備ができ次第、正しく戦ってもらうぞ」

 「ずいぶん、気が早いね」

 「んん? 先程は、君のほうが復帰を急いていたように思えたがな。怖気づいたか」


 「──何か言った?」

 語気に怒り、肩口に薄く紫電を帯びてトリーシャは言い返すが、鼎は薄笑いを浮かべたままだったので、それ以上返事をせず、トリーシャは目を閉じてしまった。


 どうも、この鼎とかいう魔法使いと会話していると、調子が狂う。身体が治ったら、こんな小隊、すぐに抜け出してやる。


 こんなところで寝ている暇などないのだ。全ての竜を殺すまで、一秒の無駄でさえ惜しいのだから。


 瞼の奥で硬く誓うトリーシャが、これより三年の経過した後でも、同じ防護衣を纏い続けることになるとは、現段階で知る由もないことだった。

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