第17話:起動

 強襲偵察大隊が、正体不明の竜から放たれた白熱の猛火に晒された、その少し後。


 最高賢者カールハルトは〈英究機関〉本館の庭園に設けられた、トラムの発着ポートに向かっていた。


 そこに停められた大型のトラムは、乗員スペースよりも大きく取られた後部の膨らみを有している。これは、単身では到達不可能な領域まで、推進用の触媒を噴射して飛翔できることを表している。


 都市は現在、強襲偵察大隊とすれ違いになった竜の襲撃下にあるが、規模としては前回を下回っており、懸念はないと言えた。

 ただ、防衛戦の指揮権者でもある最高賢者が、〈英究機関〉を自ら離れねばならないほどの、より深刻な事態が、内外より生じつつあるのだ。


 〈眠り竜〉と、正体不明の竜──思わぬ形での出現と、攻撃。

 その影響で、多数の魔法使いの反応が消失──その中には、強襲偵察大隊長、アンナ・アシュレイも含まれていた。


 これは、今回の作戦運用上の支障をのみ意味するものではない。

 防衛戦そのものの象徴と評しても過言のない、賢者の敗北を意味する可能性がある。


 知らせを受け取った魔法使いたちの狼狽は大きなものだったが、彼らには未だ知らされない、もうひとつの致命的な問題があった。


 触媒の残量、底を付く。


 強襲偵察大隊と、都市の防衛戦力が、今まさに消費しているもので、最後。〈英究機関〉本館の内部貯蔵領域は、既にもぬけの殻となった。


 現時点、管理収録者委員会にだけ伝えられたその事実は、間違いなくカールハルトの行き足を、さらに早めさせている。

 もはや一刻の猶予もない──そんな紋切り型の慣用句は、その実、猶予の中でしか紡がれない。本当に猶予が失われたとき、何が残るのか。


 早鐘のように鳴るカールハルトの往く足音が、それを物語る。

 魔法使いの、連綿たる数百年の歴史の中で、今このときが、もっとも敗北と滅亡に近い瞬間であった。


 「カールハルト様、今一度、お考え直しください。あれは、まだ調整中の段階です」


 金刺繍のマフラーが荒くたなびくその背中に向け、懇願を投げ続けるのは、補佐のリーセロッテである。


 身長差からか、彼女は同じ行き足を保つために小走り気味となっている。普段のカールハルトであれば、決してさせない所作であったが、事態の緊急性は、わずかな配慮さえも彼から剥ぎ取っている。


 「把握している。その部分を、私が補えば良いはずだ」

 「理論的には仰るとおりですが、確証がありません。危険すぎます」

 「確かに。だが、今を落ち延びても、明日が無いのなら、意味はない」


 「竜の鱗が退いた部位から、新規触媒として利用の可能性がある物質も検出されています。打てる手は、まだ他に残されているかと」

 「君の言う通りだ。だが、それと引き換えに、地上の大隊が全滅しては意味がない。私は然るべき権能を有すものとして──放てるときに、放つべき矢をつがえる。それだけだ」


 「地形データの収拾も、座標軸合わせも完了していない段階です。観測知覚は、撃ち手が補完せねばなりません。その再生負荷は……お命を脅かす可能性があります」

 「是非もない。それは、前線で戦う全ての魔法使いも同じ。私は最初から、彼らと命運を共有しているつもりだ」


 脅すような文言にも、カールハルトが些かも揺らぐ様子はない。この魔法使いは、一度腹を決めたら、それを覆すことはない。

 リーセロッテはそれを充分に理解していたので、制止に似た説明と確認を重ねる一方では、主の望みを満たすべく、当然のように手を回している。


  ──ええ、そう。これから動かすの。……分かっているわ。その上でやると言ってるの。全デバイスの直近再生状況も織り込んで、出来るものは全て反映して。最新最高の状態に仕上げて頂戴。特権符号コード一○八──今すぐ、最優先、特別事項よ。


 各所に矢継ぎ早な指示を飛ばし続ける彼女のHUDが、警告の赤に染まったのは、ようやくトラムがその視界に入った時だった。

 浮島のへりから飛び出し、一直線に飛び来るのは、竜の集団に違いなかった。

 「カールハルト様! 退避を──」

 庇おうと、前に出たつもりだったが、最高賢者は既にリーセロッテよりも竜に近い位置に佇んでいた。

 そこに、慌てたような気配はない。ただ、口元を歪め──見開かれた両目で、襲撃者を睥睨している。

 庭園の警護に当たっていた護衛部隊が、その様子に気づき、血相を変えて飛来してくる。カールハルトの眼前を固めるものの、そのうちの一人の肩に手を置き、彼は静かに言う。


 「下がっていてくれ」

 「ですが──」

 「下がれ」


 護衛隊を何より威圧したのは、口調や言葉の強さではなく、違和感だった。

 カールハルトの表情は、いつものような、思慮溢れる賢者でもなければ、慈愛に満ちた父とも違っていた。


 同胞の危機、その対処を邪魔するように現れた竜に対し、単なる一人の魔法使いが、護衛隊の誰も知らない顔で純粋に激怒している。


 気圧された護衛隊は、抗弁を最後まで通せず、後ずさる。

 その横を音もなく進み出たカールハルトは、金刺繍の防護衣マフラーと、賢者のローブを脱ぎ捨てる。

 その代わり、首元に手をやり──展開されたのは、戦闘用の防護衣マフラーだった。


 「カールハルト・フォン・イフリテス。お相手仕る」


 短い宣言の後。ただその男が構えただけで、竜たちの脚は凍りついた。

 未だ頑として揺るがぬ、歴代竜撃墜数首位の座。

 それを有する、最も強き賢者──最高賢者カールハルトに対峙した際の、正しい反応だったかもしれない。


 カールハルトが、一歩を踏み出し、踵を地に着く刹那──全くの無影、無音。

 その後には、二体の竜が、既に粒子を全身から吹き出し爆散している。


 誰の目にも明らかでない速度で、カールハルトは竜の集団を飛び越し、その背後に立っていた──が、それを認められたのは一瞬である。


 次に明らかとなった彼は、左右の手でそれぞれ竜の頭蓋を握り潰しながら、正面の竜を蹴り上げていた。そうかと思えば、剛拳を振り抜き、あるいは竜を地に叩きつけている。


 そのことに周囲が気づいたとき、もう、竜はわずかしか残っていなかった──が、どの竜も、頭部を喪失しており、それ以上動くことはなかった。


  フレーム・レートの低い、間の抜けた映像を見ているかのような、殺戮劇。

 ほんの僅かな、紫電の残滓だけを引いて。ほんの僅かな時間で、この局地的な防衛戦は終了した。


 紫電を纏い、黒き霧と化す魔導技術──彼はその開発者であり、幾人も居ない、著名な使い手のうちの一名であった。


 「ご無事ですか、カールハルト様!」

 「……楽でいい」


 駆け寄ったリーセロッテが聞いたのは、思わぬ呟きだった。

 「やはり、自分でやるのは──楽でいい。何の心配も、いらないのだから」


 言葉の意味するところは、リーセロッテにも察しが付く。

 地上侵攻の計画立案時、カールハルトは、自ら指揮を執ることにこだわっていた。


自らは安穏とし、配下の魔法使いをのみ極地へと送るを良しとせず──彼の人格を鑑みれば、納得できる思考であったが、結局、その案は実現に至らなかった。

 戦いから逃げたのではない。あるいは、それより過酷かも知れない試練へと、自らを向かわせる選択をしたのだ。


 それが分かっているからこそ、言葉などでは彼を慰撫するに至らない。肯定も否定もせず、リーセロッテは眼前の最高賢者に、丁寧な手付きでローブを羽織らせ、金刺繍の防護衣マフラーをかけてやる。


 リーセロッテの心の内を知ってか知らずか、カールハルトは鷹揚にうなずくと、再びトラムへ向け歩みだした。その背後では、護衛隊の魔法使いたちが居並び、マフラーを引いて見送っている。


  ──進捗はどう? ええ……分かったわ。聞かされるのが泣き言でなくてよかった。もうすぐこちらを発つわ、準備抜かり無く。


 何処かへの指示をHUD上の通信にて発出しつつ、リーセロッテは先にトラムへと駆け寄ると、乗降扉を開いてカールハルトを待った。

 追いついたカールハルトは、その扉に手をかけつつ、リーセロッテを見やる。

 言葉はない。ただまっすぐに目を合わせ、頷き合うと、二名はトラムへと乗り込んだ。


 自動操縦の仕組まれたトラムは、乗降扉が閉まるのと同時に浮揚を開始。

 数秒間だけ水平を保ったまま直上方向へ滑ると、その尻を下方へと向け、飛翔を開始した。


 「現地では、各種調整を実施中です。予定時刻までには、最低限の試験を含め、稼働準備が完了する予定です」

 「了解した。こちらも急ぐとしよう」


 腕を組んで、カールハルトはトラムの壁面に小さく区切られた覗き窓に目をやる。

 すでに小さくなり始めている眼下の景色の中では、防衛戦を展開する魔法使いたちの陣容が見て取れる。


 そして、その先──雲海の向こうでは、さらに過酷な状況に晒された者達が、数多く居るのだろう。


 「あのような野試合を挑んでこずとも──今からいくらでも、殺してやるところなのだがな」


 戦いの昂奮冷めやらぬ故か、カールハルトは呟く。

 その決意は、やはり揺るがし得ぬもの。リーセロッテは、未だ止まずにいた全ての逡巡を一旦脳裏から追い出し、ただひとつだけ首肯してみせた。


 トラムは順調に飛翔を続ける。小窓から覗く空の色が、やがて青から黒へと遷移し始めた頃、ようやく触媒の主噴射が停止した。

 細かな姿勢制御のための噴射を繰り返し、トラムが徐々に接近していったのは、直接降り注ぐ太陽光を眩しく照り返す、金属製と思しき直径十数メートル程度の、球形の物体であった。


 その壁面が、やがて小窓から見える景色を占め尽くす程度に近接した頃、リーセロッテはカールハルトと目を合わせた後、乗降扉を自らの手で押し開く。

 途端に、超高空の冷え切った大気がトラム内部に吹き込むものの、誰にも怖じる気配はない。二名は迷わず外へと身を躍らせ、開いた球体の壁面に接近し、その受け入れを待った。


 「……皆、待たせたな」


 開いたハッチに身を滑り込ませて、その空間へ入ったとき、すでにカールハルトの表情から先程の昂奮した様子は消失していた。

 代わって表情筋の舵を握ったのは、厳粛で冷徹な最高賢者の意思であった。

 球形内部の空間は、それほど広くなく、十名程度が立ち入れば手狭に感じるほどのスペースしかなかったが、さらにそこを我が物顔で占有する先客があった。


 蔦のように這い回るケーブルと、それらをつなぎ合わせる機械ユニット群である。

 その上、規則性を欠き乱雑なほどに積み上げられた配置は、外観的機能性というものを度外視しているようにも見え、このユニット全体が、未だ開発の途上にあることは明白だった。


 その各所に散らばり、脇目も振らずに手を入れ続けている魔法使いたちの横を、カールハルトは悠然と進んで行く。

 ユニット内部に分け入っていくと、金属でできた毛糸玉のような装置を見つけられる。


 そのちょうど中央の位置に、魔法使い一名がやっと腰を下ろせる程度の隙間があり、身体を包み込むようなシートまでもが設えられていた。

 カールハルトは、迷わずそこへと腰を下ろすと、HUD上に魔導技術の再生リストを呼び出した。


 表示された再生可能な魔導の数は、たったひとつ。

 実にシンプルで良い──この席に就いた以上、考えること、為すべきこと、それはたった一つだけなのだ。


 「諸君、〝コア〟は納められた。万事、始めてくれ」


 カールハルトの号令一下、全員の作業が慌ただしさを増し、そして統制されていく。


 「イニシャライズ開始──完了。〈〉一番機より、十二番機──順次、起動します」

 「出力上昇中。座標原点合わせ。〈〉観測活動を開始。トレース補正、マイナスアプローチから遷移します」

 「発振器応答よし。射口仰角、俯角、ともに正常範囲。冷却素子注入完了まであと──」


 金属の毛糸玉を取り囲むようにして設置されたシートに座す管制魔法使いたちのプログレス・コールに合わせ、鈍く低い機械の稼動音が周囲に響き始める。

 それに連れて、金属毛玉の内部で仄暗く閉ざされていたカールハルトの視界も、徐々に明るく開けていく。


 毛玉の内側は、全球型のディスプレイになっていた。そこには、都市、雲海、そして地上──すべてを収められるほどの、広大な視野が広がっている。

 視野の中には、赤色の点で示された座標情報が無数に点在している。それこそが、このユニット群が目標とするもの──狙い、撃とうとするもの。竜の位置を示す、座標情報に違いなかった。


  ──カールハルト様、先程も申し上げましたが、再生負荷が懸念されます。こちらで可能な限りサポートいたしますので、ご承知おきください。


 管制魔法使いたちの列に混じり、リーセロッテも席につく。

 彼女の言う通り、少し周りを見渡しただけで、頭蓋の中を好き放題に痛みが反射している感覚に襲われ、カールハルトは奥歯を噛んだ。


 だが、赤色点の中でも、ひときわ大きなもの。正体不明の竜が誇る巨体を示すであろう、その点に目を合わせた刹那、カールハルトを苛む全ての苦痛は、感覚の外へ追いやられた。


  ──観測知覚、マイナスアプローチからゼロへ。今後、戦闘機動へ移行すれば、さらなる負荷が見舞うことになります。──お覚悟を。

  ──ああ、分かった。の命を、君に預ける。


 心臓を鷲掴みにされる──陳腐な例えだと思っていたが、この痛みと疼きを説明するには、存外、適切だったかも知れない。


  ──謹んで。


 ほんの短い返答を、押し出すので精一杯だった。

 うつむいて髪を垂らし──赤面しきった自分の顔を隠すのに、リーセロッテは少し苦労した。


 どうして今ここで、そういう事を言うの……。リーセロッテは音もなく独白する。

 幾度も諦め、その度、微かな希望にすがり。繰り返しながら、リーセロッテは、カールハルトの側を離れなかった。


 だから、ここで終わらせるわけには行かない。魔法使いの都市の命運も、前線にある魔法使いたちの命脈も──カールハルトと自分の、運命も。


 数秒で自分を立て直すと、リーセロッテは再び忙しく指示と調整に没頭する。

 最高賢者とともに築き上げた、このが、雄々しい産声をあげるまで、今少しの時間が必要であった。


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