第10話:補佐なるもの
一つの会合が終わっても、最高賢者の職務は続く。
都市における最大の裁量権を持つことは、自動的に最多の責務を負うことと背中合わせである。
──過日の戦闘における被害状況の報告は以上です。最終報ですので、確定と見ていただいてお間違いないかと。
──承知した。被害の大きい地区を挙げ、優先支援対象の選定と実行を急いでくれ。
物理的な意味での中身を捨てた〈英究機関〉において、その内部を悠然と歩む権利と職責を有するのは、カールハルトただ一名である。
彼がこれから参加するすべての会合は、眼前に伸びる廊下に面した部屋で行われるのだ。
これも、特殊な空間活用法を用いた、効率最重視のつくりであった。
踏みしめるのは厚さ数センチ、幅1メートル程度の板状に生成された床材のみであり、周囲には彼の到着を待つ扉の周囲を除けば壁も天井もない。
加えて照明もなく、ほぼ完全な暗闇の中で視界と呼べるのはHUDに表示された緑色の輪郭線程度だ。
飛行する術を有する魔法使いにとっては杞憂の極みだが、もし踏み外せば、この廊下の真下に貯蔵された触媒の在庫に向けて、真っ逆様に落ちていくことになるだろう。
触媒が潤沢であった時代ならば、そう長い間自由落下を楽しむこともなく、砂のような感触を持つ、黒い触媒の海に包み込まれるのを待っていればよかったのだろうが、現在に至ってはその無謀な娯楽でさえ許されない。
HUDが捉えてカールハルトに示す、彼と触媒との距離は、大きく開いている。
触媒の不足は、きわめて深刻であった。それを憂慮すればこそ、彼の歩みは進むごとに早まっていく。
──〈英究機関〉創立三百周年記念式典の件なのですが。
──私の塑像を建てるなどと息巻いている輩がいるようだが、触媒の無駄だ、止めさせてくれ。式典も最低限にとどめるように。
──今年度における魔導学院首席卒業者への表彰式次第について、日程のご相談を申し上げたいのですが。
──関係者の都合を主眼に、襲撃の合間を見て行う。祝辞の草稿は、こちらで一両日中に用意しておく。
──兵站管理局から、今月度の戦闘服支給申請が生産可能数を上回ったとの報告がありました。
──各小隊の前線参加時間を照合し、支給の順序を策定してくれ。戦う者が優先だ。
──魔導学院幼年部のみなさんから激励のメッセージが届いています。『かーはるとサマ、いつもがんばってくれて……。
──後で読む。私のポストに投函しておいてくれ。
部屋から部屋へ、会合から会合へ。
どの議場にも等しく用意された上座に腰を据えて対話協議するとき以外、片時もその歩みを止めず、また代理人格へ矢継ぎ早に飛び込んでくる各種報告にも、漏れも迷いもなく対応していく。
本来ならば彼の管轄より何階層も下で結論を出すべき項目でさえ、逐一報告を寄越させているのだ。
周囲が信頼に値しないのではない。あえて職務に没頭するのは、違う何かを忘れるために違いなかった。
そうまでしても──先程、自分を射抜いたトリーシャの瞳が、どうしても思い起こされる。
冷え切り、据わったそこから感じ取れるものは、思わず激務の裏に押し包んで隠してしまいたいと願っても詮ない感情だった。
思わず、足が止まる。掌で目元を覆い、重い息をつく彼の表情は、その一時だけ思い悩む父のそれに戻っていた。
時間にして数秒。
振り払うように首を振ると、再び爪先を進め始めたところで、気がつく。
いつの間にか、報告が途切れているのだ。
その上、会合場所へ顔を出そうにも、すでに終了したとして議場が扉ごと消滅している。
首を傾げるカールハルトの背後から、弾むような声が響いた。
「お疲れ様です。カールハルト様」
振り返った先には、妙齢の女性魔法使いが立っていた。
身にまとうのは、紺のローブと、カールハルトのそれと同じ意匠のマフラー。
それを引いてみせた後、ウィザードハットを取った拍子に顔にかかった栗色の長い髪を耳にかけながら、今度は柔和な笑顔を浮かべてみせた。
「直近の会合や連絡報告の類は、こちらで全て代行処理いたしました。それもまた、補佐の務めかと思いまして」
笑みは柔らかいものから、刺々しいほど満面のそれに変貌していく。そこから何かを察したのか、カールハルトは後ろ頭に手を当てた。
「……すまない。リーセロッテ。私は、また何か、君との会合予定を反故にしてしまったのか」
「やっぱり、お忘れなんですね。とても大事な予定だったのに」
悲しげに目を伏せ、リーセロッテと呼ばれた魔法使いは背を向けてしまった。
イフリテスと並ぶ、魔法使いの名家──ハイドヘルド家の第二息女であり、現在は管理収録者委員会所属、委員長補佐の地位にある。
「聞き飽きただろうが、謝罪の言葉を言わせて欲しい。六度目の失態で、説得力がないことは承知の上だが……」
「大丈夫です。慣れていますし、それに、本当は、予定なんてありませんから」
一瞬の間を置いて、慌てた拍子に肩口まで持ち上がっていたカールハルトの両手が、急にだらりと下がる。
「あれほど、年寄りに冷や水を浴びせるのはやめてくれと、頼んだはずなのだが」
「申し訳ありません。でも、すごく怖い顔をされていたので、なにか和む話題をと思いまして」
「むしろ、縮む話題だったがね」
互いにはにかみ合うと、二人は歩み出す。
ほどなくして、またひとつの扉が浮かび上がるようにして現れるのを確認すると、リーセロッテが駆け寄ってそれを開き、手招きをしてみせた。
どこへ連れて行く気かな……内心苦笑しつつ、あえてその招きに乗ってやることにした。それまでよりも早足でくぐり抜けた扉の先は、清涼な空気に満ちていた。
特殊構造の扉は、〈英究機関〉本館の頂上付近に設けられた、監視台を兼ねたテラスへと通じる実在の通用門に重ねられていたようだった。
HUDを介したネットワークと、それが織り成す防空識別網が、現在のレベルにまで発展するより以前は、絶えずこのテラスに見張りが立ち、竜の動向を監視していたという歴史的経緯もある。
やや強く巻く高所独特の風に、頬を撫で付けられながら、カールハルトは眼前の遠景を黙したまま望んでいた。
「あまりお仕事を詰め込まれては、身体に毒ですよ」
静かに扉を閉めたリーセロッテの指摘に背中を押されて、彼は息を漏らした。
「生きていく限り、それは甘受せねばならん。そして最期は、誰しもその毒によって死を
「お察ししますが、何も好き好んで毒を暴飲されることはないと思いますけど?」
「……暴飲しているかね、私は」
「はい。とても」
「ならば、立派な中毒患者として、最期までそれを貫徹しよう」
先程まで狂おしいほどに舞い込んで来ていた報告の類は一切止み、違和感を覚えるほどの静寂が風の音を際立たせる。
リーセロッテの言葉に偽りはなく、本来カールハルトに伝えられるはずだった幾百もの案件は、すべて処理が完了している。
それが分かっているからこそ、カールハルトもそれ以上、業務に関する無為な話題を振ることもなかった。
その期せずして訪れた空白を埋めるように、リーセロッテは問いかける。
「トリーシャと、会われたのですか?」
「ああ。どうしても、地上へ行かせる前に、直接顔を見たくなってな。職権を濫用して呼び出した。元気そうだったよ。そのあまり、睨みまで利かされてしまったが」
「私個人の本音を言えば……行かせたくはありません。今すぐにでも、首根っこを押さえてやりたいくらいなのですが」
「君の言うことなら、聞くかも知れんな。行ってきてくれるか?」
「……やっぱり、やめておきます。今のあの子と本気でぶつかったら、どちらかが怪我しそうですから」
「ほう。君のお墨付きをいただけるとは、心強いことだ」
「お褒めに預かり光栄です。でも、あの子はきっと──負けても止まらないでしょう」
「そう思う。あれの心の燻りは、静かに収まりうるものではない。望むままにしてやることも、必要だと思っている。心配だが、これは避け得ぬ判断だ」
彼の心配は、自身の発した主格竜との戦闘に関する発言に収斂している。
単に娘の意図を汲んだのではなく、現実の課題として、主格竜は打ち倒さねばならない。いつか、ではなく──今、すぐにでも。
その為のライト・スタッフに、他でもない実娘トリーシャも含まれているからには、最高賢者として下せる決断は、いずれにせよ一つであった。
「……どうにも、いかんな。子離れが出来ていない。情けない父だ」
「構わないのでは? 突き放すことと、遠くから見守ることは、似ているようで全く違いますから」
労るような声音を隠そうとしないのは、どうにもカールハルトが自責的過ぎると感じたためだ。
愛称トリーシャ──本名デアトリーティアが姉を失ったのは、彼にとっては実の娘を亡くしたのと当然ながら同義である。
思うところでさえも同じはずだが、この親子はその確認の方法として、背を向け合うことを選んでしまった。
それではあまりにも、悲しいではないか。リーセロッテは揺らめくローブの袖口に隠して、固く拳を作る。
「どうか、ご自愛ください」
煮詰まった思考とは逆に、リーセロッテが差し出せた言葉は短かった。
この捩れた親子の関係について、自分が出来ることの少なさを知っていたからだ。それはカールハルトも気づいている。
沈黙の上で為された配慮に応えるため、頷くように小さく会釈した。
「自愛ならば充分すぎるほどだよ。竜が来ても、私は前線に出られないのだから。だからこそ、いつまでも危険な前線に魔法使いたちを送り込むわけにはいかない」
「はい。私も同じ気持ちでおります」
「この無為で蒙昧な戦いを、一刻も早く終結させるため……〝計画〟は、確実に進捗させねばならない。背中を頼むぞ」
「お任せを。全霊を賭して職務を全うします」
再度マフラーを引いたリーセロッテの視界に、ひとつのトラムが〈英究機関〉から離れて飛び去っていく影が映り込む。
この時間帯、直接の来訪者は、ごく限られていたはずで、その搭乗者が誰なのかまで彼女は察し、その後を目線で追ったが、カールハルトは影にも眼前の様子にも気づきながら、あえて何も動かさず、目を閉じた。
娘を、そして地上に赴く多くの魔法使いたちを真に援護し救えるのは、これからの彼自身の行動、すなわち計画の進捗と達成であると確信していたためだ。
ただ、如何にしても押し殺しきれなかった父性が、きわめて短い、一言つぶやくだけの自由時間を最高賢者に与えた。
「……無事に帰れ。トリーシャ」
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