第7話:起爆点
三年前のあの日。
姉の訃報は、他ならぬ父からもたらされた。
その日、姉の帰還を疑うことなどなかったトリーシャは、長姉──カタリーナのためにと編み始めた
そこへ、強張った顔をした父がなだれ込み──信じ難く、度し難い一言を漏らしたのだ。
現象庫を眼前にした〈英究機関〉最奥部にて、その所属小隊は壊滅。
一名の生存者を残すのみで──小隊長たるカタリーナ・フォン・イフリテスは、悟り竜と刺し違えとなり、死亡。
享年、二○。
長い、長い沈黙が親子の間に満ちた。
トリーシャは、手中にあった編み棒がこぼれて床を打つ音さえ聞き取れなかった。
この人は、一体──何を言っているんだろう。そんなこと、あるはずがないのに。
日が登らぬままに沈んだことがあったか? いや、ない。だから姉様が、姉様が……死んでしまうはずなんて、ないのに。
呆然としたまま手を引かれて着いたのは、礼拝堂だった。
最奥の台座に設置された空の棺は、多くの参列者が手向けた、色とりどりの花で満たされていた。
カタリーナの遺体は発見されていないが、度重なる調査、捜索の結果も空振りに終わったばかりか、現象庫側からの走査を行っても、カタリーナの反応が確認できなかったのだ。
魔法使いにとって、それは事実上の死を意味した。
葬儀の参列者たちは皆、棺と、その傍らに居並んだ係累たちに向かい、儀礼用の
知己の者は、トリーシャの側まで歩み寄ってその肩を抱いたり、慰めの言葉を渡してくれたが、すべては素通り、上滑りして、彼女の意識から離れていった。
ただ……嘘だ、という言葉が、頭を埋め尽くしていた。
やがて、すべての参列者が去り、鎮魂歌が止んで、葬儀のすべてが終わっても、トリーシャはそこを動かなかった。
長い間──日も暮れて、月光が礼拝堂の天窓から差し込んでくるまで、父もトリーシャの側を離れなかったが、当時、既に〈英究機関〉において要職を占めていた父に与えられた時間は、たとえ実の娘を弔うためであっても、そう多くなかった。
「──トリーシャ。行くぞ」
反応はない。目も、手も、足も……何もかも静止させて、彼女は現実を知覚することを拒否していた。
父の呼びかけは、幾度となく。
最後に至っては、虚しく掠れてさえいたが、それでも、トリーシャは応じない。
そのうち、彼女は一歩を踏み出す。ただそれは出口に向けてでなく、誰も居ない棺に向かっての一歩であった。
棺に飛びつくと、敷き詰められた花弁を掴んでは投げ、辺り構わず撒き散らしながら、姉の姿を探した。
手でも足でも、目でも口でも──動かし、気を逸らさなければ、すぐにでもそれは、彼女の意識の正面に回りもうとしてくる。
狂乱するトリーシャのすぐ傍らで、その事実は厳然と、現実に存在し、今や遅しと彼女の直視を待っている。
興奮に荒れた呼吸に混じって、声にもならぬ揺れた音が、喉から漏れているのが聞こえた。
見たくない。知りたくない、分かりたくない。
そんな価値もない、そうだ、これは悪夢だ。
『姉様が死んでしまった』
たちの悪い幻覚で。
『消えてしまった』
現実ではなくて。
『悟り竜に殺されてしまった』
姉は今も元気で。
『散ってしまった』
いつも変わらない優しい笑顔のまま私を待っているはずで。
『もういない、戻ってこない』
目覚めた私をあやすみたいに撫でてくれるはずで。
『声も聞けない、触れることも出来ない』
悪い夢を見たという私に、砂糖をたくさん入れた温かいお茶を淹れてくれるはずで。
『お別れなんだ』
私はここにいるよ、と言ってくれるはずで。
『どこにもいない』
私はお前を置いていったりしない、と微笑んでくれるはずで。
『どこにもいない』
姉様はどこにも、どこにも──。
指が、何かにぶつかって、硬い音を立てる。
棺の底が見えていた。もう、何も残されていない、空の棺の、その底が。
カタリーナは死んだ。
その事実が、無機質な棺の底から、待ちきれず、あちらからトリーシャを見据えた瞬間だった。
「うあああああああああああああああ‼」
腹から、喉から、迸るように響いたそれはもはや、悲鳴だった。一度決壊した感情は、とどまることなど知らない。
その日まで、一度として心に流れこんできたことのない、どす黒く淀んだ何かが、刹那の間に彼女の意識を塗りつぶした。
血走った眼は、溢れ出した涙で濡れていなければ、瞬時に乾いてしまうほど、最大限に見開かれていた。一切の光も照り返さない、黒く淀んだ瞳の奥は、極めて濃密な憎悪と殺意に満ち充ちていた。
殺してやる。竜を殺してやる。
カタリーナ姉様を殺した竜を、殺してやる。
竜と名の付くすべての存在、あらゆる係累を、最大の辛苦と痛哭に沈めて殺す。
何度再誕してきても、その度ごとに、以前の億倍、兆倍は傷めつけ、嬲り殺す。
殺し尽くす。
殺し尽くして絞り尽くして、何も残らぬ切れ端の、塵屑の、灰燼に還してから、執拗に細断して、その欠片を念入りに、両足の踵で踏みにじって殺す。
およそ人が、その心の内に灯しておける、最大の怨怒の炎を上げて。
哀れな一人の少女は、それまで大切に捧げ抱いていた温かいもの、懐かしいもの、一切をかなぐり捨てた。
その代わりか、捧げられた花を一房、握りつぶすように掴み取ると、トリーシャは腰を屈めたまま身を翻し、のろのろと歩み始める。
ここを出れば、彼女の望みを叶えてくれる場所が待っている。そこを目指すこと以外は、既に彼女の意識から消え去っていた。
一夜──否、一瞬で変容してしまった娘が、自身には一瞥もくれず、横を過ぎ去っていくのを、父は何も言わずに見送った。
その明くる朝、改めて会場の片付けに訪れた〈英究機関〉の係員たちは、奇妙な光景を目撃する。
棺から、出口まで。床に一直線に残る、融溶痕だった。
まるで足跡のようにも見えるそれは、少なくとも葬儀中には認められなかったものであり、状況と相まって彼らの背筋を寒からしめたが、その後手筈に則って速やかに修復された。
もしその時に、ある程度の検証が為されていれば、それが凄まじく濃密に展開された障壁の魔導で雪を掻き分けるように床を溶かし、剥いでいったのだと推理できただろうが、今もって真相は詳らかでなく、礼拝堂の怪談としてのみ語られている。
一瞬に凝縮された、憎悪の起爆点。
そこから生じた爆風は、今でも尽きず、彼女の背を押し、そして焦がす。
貴女の仇は私が取る──呪文は、いつまでも、暗く響き渡るのだった。
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