第6話:禁呪
魔法使いが、自衛と取水のため都市の下部に展開した雲海の厚みは、最大で一キロメートルに達する。
その密度は、自然由来のそれを遥かに上回っており、ひとたび雲中に没すれば、視界は完全にホワイトアウトしてしまう。
そうまでして竜から隠匿したいのは、都市中心部の直下に設置された装置──重力アンカーの存在だった。
その黒色をした直径百メートル程度の球形状の装置は、魔法使いが指定した物体の質量を一時的に代行する機能を有している。
この装置がなければ、自在な戦時の機動もおぼつかなくなるだろう。
──慌てたときこそ、基本を思い出す。
そう、自分に言い聞かせると、オリビアは改めて自分の質量を重力アンカーに投げ渡した。
主格竜の引き起こす烈風が止むタイミングは、わずかしか無い。視界を白一色に埋め尽くされながら、彼女は空中に静止して機を待ち続けていたのだ。
ふと、HUDに反応があり、オリビアは、そこへ体ごと向き直る。
近傍に、自分と同じようにはじき出されていたウルリカを捕捉、その確保に向かう。
一方で、鼎とトリーシャの姿は見えなかった。HUD上の反応は消失こそしていないものの、具体的な位置までは表示できないようだった。HUDへのメッセージにも、今のところは返答がない。
今はただ無事を信じ、為せることを。
そう自分に期すと、反応があった方へと向かう。
ウルリカの姿を肉眼で確認できた時、彼女は気を失って自由落下の途にあった。 手を伸ばし、その力ない指先に自分のそれを絡めると、力いっぱいに抱き寄せる。
さらに、ウルリカの首元に腕を回して、脈を確認。正常範囲内であることを認めて、保護するような体勢をとった瞬間。
もう幾度目とも知れない烈風が、雲海を壊乱させる。
ウルリカを抱き止める腕に今一度力を込めながら、オリビアは姿勢の制御に集中する。
このままでは、重力アンカーの存在が暴露され──否、それ以前に、都市そのものが破壊され尽くしてしまう可能性さえある。
何とかしなければ──思いは強いものの、揺さぶってくる烈風はそれ以上だ。
今、雲の上で、事態に対処できている魔法使いなど、どれだけ居るのだろうか。
主格竜を前にした重圧、恐怖に加え、この容赦ない仕打ちである。
もはや全員が敗走してしまったのでは──予感は常に悪い方へと向きがちだが、オリビアには、それを振り払える一縷の希望があった。
いる。どのような存在かは分からないが、必ずこの事態に対処している魔法使いが居る。それだけは確実だった。
アンナの告げた言葉、特権
ただし、その思考に至れるのは、都市でもごく少数の魔法使い限られる。獅子守小隊に限っても、オリビアただ一名のみである。
いつか必要になった時、真相を間違いなく伝えられるように。今は、それを硬く秘すと決めていた。
ウルリカと団子になって吹き飛ばされ、抗い続け──いくらかの時間が経った頃、オリビアは現状が少しずつ変化しているのに気づく。
風が、徐々に弱まり始めていた。
勘違いを疑うほどの僅かな兆しから、確信できる明らかな傾向へと。
風を巻き起こす存在──つまり、主格竜の動きが止まっている可能性があった。
もう少し雲間から浮上すれば、上空の実態を把握できるかもしれない。
鼎とトリーシャの動向も気になる。意を決し、オリビアは少しずつ高度を上げ、雲海の天面を目指すことにした。
その途上、ウルリカが腕の中で目を覚ましたのを、その僅かな身動きから察する。
危機的な状況で気を失ったであろうにも関わらず、覚醒時に悲鳴はおろか呻き声の一つも上げない。
くりくりとした大きな碧眼を左右にやり、状況を察すると、オリビアとも目を合わせて自身の覚醒と無事を伝える。
そのいじらしい姿を、オリビアは思わず凝視していた。ただし、そうと気づかれないよう、ウルリカの瞬きに合わせ、ほんの一瞬だけ。
──オリビアさん、すみません。その……支えてもらってて。
気を使い、そっと離れようとしたその細い肩を、オリビアは、もう一度胸元へ引き寄せていた。
──風が強いから。固まっていたほうが安全。
そう呼びかけると、ウルリカは笑顔でうなずく。
きっと何の疑いもなく、自分を信じて、同意してくれているに違いない──緊急事態下にも関わらず、背筋に伝う痺れに当てられ、思わず吊り上がってしまいそうになる口角を無理やり抑え込む。
何らかの事情に背を押されなければ、肩も抱けない自分は情けないだろうか。
自問しても答えは出ない以上、胸の内にしまっておくしかない。
アンナとのやりとりも、ウルリカへの気持ちも、今は、厳に秘さねばならない。
表向きは完全な無表情のまま、オリビアは低速での浮上を続行する。
やがて、雲海の天面に接近すると、雲の密度も薄らぎ始め、ある程度の視程が確保できるようになる。
そこから透かし見た光景は、意外なものだった。
オリビアの予測に反し、主格竜の上腕は、止まるどころか、ますます盛んに動いていた。
しかし、吹き荒れる風は確実に弱まっている。この程度なら、都市の崩壊を懸念する必要はないだろう。
では、風を差し止めているのは何者か──オリビアの視線を受け止めたのは、異様な服装をした、魔法使いの集団だった。
彼らは、脳天から爪先までを、隙間なく、薄い灰色をした装甲服のようなもので包み込んでいた。
本来なら所属を示す役割もある
無邪気なほどに振りたくられている竜の上腕、それを取り囲むように、見渡せる限り、十数名が展開している。
彼らは巻き起こされた風をその場で受け止め、弱めているようだった。ただ、単にその身を盾にしているということではなく──巻き起こされる烈風を、中和しているのだ。
大気分子に干渉し、その揺動を極小に抑えていると考えられるが、それは、言うは易いが、行うは難きの最たるものでもあった。
神のみぞ知る、正にこの場の大気の振動を観測、予測して振動を中和できるよう、その動作に干渉、調整する。
その対象の多さ、範囲の広さ、要求される精度の確からしさたるや──発狂を禁じえないほどの演算量を必要とする筈である。
言うまでもない至難の業を、こともなげに実現してみせるには、人智──ならぬ、魔法使いの叡智の粋を凝らさなければなし得ない域に達しているに違いなかった。
また幸運なことに、主格竜は、自身の上腕を取り囲んだ魔法使いに対して、一切の注目を払っていない。
ただ先程までと同様、それが
かたや、悪い虫に付き纏われている主の身を案じる戦士竜は、烈火の如く激怒していたが、五名の装甲服に包囲され、悪戦苦闘を強いられていた。
残る多数の竜の軍勢は、再びほうぼうに散っている。主格竜の呼び求めるものの、捜索にあたっているものと思われた。
こちらは、〈英究機関〉の指示で再編成された小隊群が、都市近傍に築いた防衛線にて迎撃し押し留めているという最新の戦況がHUDに流れ込んできた。
──この戦力、先程の戦闘に投入して欲しかったものだな。
──本当にね。多少は楽できたのに。
流れ込んできたのは、戦況報告だけではなかった。
僅かな時間しか離れていないというのに、懐かしくさえ感じる、この軽口のやりとり。 オリビアとウルリカの表情に喜色が差す。
──おっと? この戦闘狂が、らしくないことを言う。あの装甲服への対抗意識で、頭がいっぱいのクセに。
──うるさいな。あんまり無駄話してると、隠れてるのがバレちゃうよ。というわけで、オリビア、ウルリカ。こっちだよ。
雲の切れる直前、数メートルほど下から、ビーコンの反応が届く。意図を察し、オリビアたちは今一度、雲間に没して反応のあった場所を目指す。
そこで待っていた二名と、無言で頷き合うと、オリビアはウルリカを開放してマフラーを右手に引いた。これは、小隊の魔法使いにとって、敬礼を表す行為である。
──隊長、副長。お待たせしました。
──こちらこそ返答できず申し訳なかった。この通り、隠れんぼに興じていたのでな。
──通信妨害も展開されてるみたいでね。多分、私達は招かれざる客だから、黙って舞台の外から見守らせてもらおうと思って。
──見守る……ですか?
──ウルリカ? どうかした?
──す、すみません! でも、ちょっと……意外だなって思って。副長が戦闘に参加しようとなさらないなんて。
ウルリカの率直な指摘に、トリーシャは苦笑してから、神妙な面持ちで返答する。
──あの魔導は、多分、違う。関わるべきじゃない。そんな気がするんだ。
トリーシャが漏らした感想は、装甲服の集団のあまりに精強な姿から来ている。
数万の魔法使いの団結と連携をもって、ほうほうの体で成し遂げる防衛作戦を、この装甲服の魔法使いたちは、遥かに少ない頭数で実現している。
このような戦力が実在し、運用できるのであれば、すぐにでも投入すべき──誰もがそう声を上げるだろう。
だが、この戦力の運用者は恐らく、その声を歓迎しないのだ。
ここが都市の果てで、周囲を気にせず力を振るえるからこそ、この集団は現れた。
その所以に思いを致せば、自ずと答えは導かれる。
──当該魔導は、おそらく〝禁呪〟。そう呼ばれて然るべき出力を発揮してる。
──やっぱり、そう思うよね……。どうして禁呪を使ってるのに断絶されないの? 鼎? おかしくない?
──私に詰め寄るな。こちらも、同じ疑問を叩きつけてやりたいところなんだ。
禁呪と呼ばれる、過度なまでの現象を引き起こす魔導技術は、その使用が厳に禁止されている。
魔導技術が、現象庫に収められた森羅万象の現象を組み合わせ、再生されるという仕様上、そのパターン次第では、ある種の
その結果、社会の脅威となりえるような力を得てしまった者は、それが検知された瞬間、断絶──つまり、現象庫との接続を絶たれ、魔導の再生が不可能となる規則だった。
およそ魔法使いと称されるものが、超常の術、それを振るう権能を失ったら、何が残るというのか。
誰もが、自制と警戒をもって禁呪からは自身を遠ざけている──筈なのだが、装甲服の集団に、何かを案じて迷い、押し留まるような素振りは一切ない。
何者かの後ろ盾がなければ達成し得ない、堂々とした暴挙を為す彼らを仰ぎ見て、特権
一方、雲の上では、動きがある模様だった。
ズームアップされたHUD上の映像──目に留まった、それを名状するとしたら、網。
戦士竜を取り囲み、攻め立てていた五名のうち、一名が離脱し、大きく広げた両手の間に、網のようなものが展開されている。
その輪郭から絶え間なく迸る大小の雷光は、その蓄積された絶大な威力を予感させる。
装甲服の魔法使いは、雷の網を、戦士竜に向けて投げかける──息を合わせて飛び退いた四名の陰から放たれた形になったそれは、一挙に戦士竜の全身へと巻き付き、抵抗の余地を奪い去った。
「これを、退けよ! 無礼者がぁ!」
苦し紛れに叫ぶ戦士竜に、装甲服は何ら応答しない。
ただ、その手をかざし、徐々に閉じていくに連れて、網目は細かくなってゆく。
──見てください! 少しずつ、竜の体が崩れていってます!
ウルリカの説明通り、まるで炙られる魚のように、網の触れた部分から、粒子が噴出しはじめている。もし、このままの状態を維持できれば、いずれは──。
その瞬間の到来を、焦れるような、惜しむような、言い難き表情をトリーシャが浮かべているのを、鼎は横目でとらえている。
だが、網目が閉じきる寸前で、雷そのものがはじけ飛んでしまった。
解き放たれた戦士竜は即座に飛び去り、残されたのは、 かざしていた手を口惜しげに垂らした装甲服。
「まだ……駄目か」
初めて口をついて出た言葉は、頭部装甲に施されているであろう隠蔽機能の影響で、元の声音は伺い知れない。
ただ、その口惜しさは充分に伝わってきた。
そして、危機を脱した戦士竜は、主格竜を守るようにしつつ、空中に静止している。
外見だけなら、先刻、鼎が与えたダメージのほうが大きいように見えた。
今の戦士竜は、ただ網目状に表面を焦がされたに過ぎない──はずだったが、その狼狽ぶり、あるいは苦痛に歪む表情は、これまでにないものだった。
「これは……まさか、貴様ら……‼」
憎々しげに睨みつける先には、今一度、雷の網を展開する装甲服の魔法使いの姿がある。
網に焼かれた傷がよほど気になるのか、信じがたいような目線を何度も全身へ送っている。
禁呪によって刻みつけられた傷は、よほど酷く痛むのか、あるいは──予想だにしなかった影響を与えられたと気づいたのか。
正答は、どちらの口からも語られなかった。
しばしの睨み合いの後、次に動いたのは戦士竜が先。ただし──向かう先は、その後方であったが。
「澄ちゃ〜ん? もう、どこにいるのぉ〜?」
「静様! ご撤退を! 火急につき、今すぐに!」
「……囲? どうしたの? そんなに慌てて……」
「ご説明は後ほど致します! 今は、何卒……!」
「でも、澄ちゃん……」
「澄様がお隠れになられた際、負われていた傷と──同じなのです! これは!」
自身の両手両足を広げて見せながら、悲鳴にも似て張り上げられた戦士竜の上奏に、一瞬、一層、大きく、主格竜の目が見開かされる。
一瞬の後──瞳から迸っていた金色の炎が燃え尽き、形作られていた王冠が消失する。
すると、竜の上腕の動きも、急激に減速を始めた。それを見るや、戦士竜が意を決して動く。
「お叱りは後ほど……御免!」
主格竜の、その小さな肩を掻き抱くが早いか、そのまま押し倒すようにして、共々に竜の掌に飛び込んでいった。
竜の掌は、反射的に、握りしめるかのように竜二体を包み込むと、徐々に雲海へと没していく。
その姿が完全に見えなくなり、さらにしばらくの時間が経過するまで陣形を解かずに居た装甲服たちは、追うような素振りは見せず、その場にとどまっていた。
十分程の待機の後、彼らは順次都市の方向へ向かいつつ高度を下げ、雲海に隠れていくようだった。
一名、また一名と、迷彩の為か、微かな電光とともに透明化しながら、どことも知れぬ彼らの本拠へ帰投していく中、そのうちの一名──最後に飛び立とうとしていた魔法使いは、雲海に入ろうとした刹那、急に停止した。
その目線が、ゆっくりと向いた先は──獅子守小隊の面々が身を隠した先、正にそのポイントだった。
驚愕するも、息は密かに。
HUD上の会話さえせず、獅子守小隊は一様に唇を引き結ぶ。睨み合った互いの視線だけは、間違いなく絡み合っていた。
数秒の後、その魔法使いも風景に溶け込みながら飛び去って、獅子守小隊だけが残された戦場に、沈黙が広がったのだった。
──装甲服部隊の反応、消失。走査妨害エリアを構築した模様。
──こちらを狩り出すつもりはないってことですね。はあ……、よかった、やっと終わった。
緊張の吐息を吐き出し──少しずつ、状況を確認しながら、四名は雲間から出て、久々に気流の音を聞いた。
時刻は既に夕刻。防衛戦の開始とともに出迎えた筈の太陽は、今や色を変えて雲海の作り出した白い地平に落ちていこうとするところだった。
高空に住まう魔法使いにとって、日没と縁のない日はない。
ありふれた光景のはずだったが、今日、巻き起こった全ての騒乱を思い返すと、また違った趣に感じられるから不思議なものである。
「皆、今日は本当にお疲れだ。よく生き残ってくれた」
「一番死にかけてたのに、よく言うね」
「どてっ腹を刺されて、のたうち回ってたような奴に言われたくないんだが?」
「のたうち回ってないし」
飽きもせず、いつものじゃれ合いを始めた鼎とトリーシャの仲裁をウルリカに任せ、オリビアは戦闘後の情報共有のため、HUD上のネットワークにアクセスする。
都市が受けたダメージは、どうも相当に深刻と言えそうであった。
対して、主格竜との遭遇、そして曲がりなりにも撃退したことは、受けた傷と等価以上の、偉業と称すべき功績と言えた。
だが、それが情報封鎖下、禁呪によって為された疑いがある為、戦史に記されることはないかもしれない。
それでも、今日を生きる権利は得た。
今は、それで十分と思うしか無い。
ややあって、〈英究機関〉から防衛戦の終了を告げる報が、魔法使い全員に届く。
小隊の魔法使いにはそのHUDに、戦うすべのない魔法使いには、鐘の音をもって。
トリーシャは、遠くに聞こえるそれに耳を澄ませながら、酷く汚れたウィザードハットを取り、大切そうに胸元へ寄せると、もう片方の手で、まとめてあった銀髪を解く。
夕暮れが連れてきた、少し冷たい風に、長い髪を遊ばせながら考える。
今日を生き残ったことを、喜ぶべきなのか──悔やむべきなのかを。
あの魔法使いなら、絶対に、喜ぶべきだと言うだろう。
だが、あの魔法使いが、いないなら。
この生命に、何の意味があるのだろうか。
それが分かるまで──どうかこの戦いが、続きますように。
恐らく都市で唯一人、血塗られた願いを胸に期したまま、トリーシャは同僚達とともに帰路へと就くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます