反対方向

春水栗丸

反対方向

私の心は羽毛布団のように軽い。


明日まででいいと始業とともに渡された仕事を午前中に終わらせ、その出来を褒められた。

その後四つ仕事が舞い込み、そのうちの二つを終わらせた。

残りの二つもこの調子なら今日中に終わりそうだ。


そんなことを考えながら迎えたお昼休み。

私はうどん屋へと足を運んだ。


今の職場に勤めてから早数年、近辺の飲食店を渡り歩き、ワンコインでお腹を満たせる場所をようやく見つけた。

それがこのうどん屋だ。


七月も後半に差し掛かった。

世間ではそろそろ夏休み。

だからだろう。

十二時を指す時計とともにスタートダッシュを決めたというのに混んでいる。

長蛇の列、とまではいかない五人の列。

携帯電話の時計はまだ十二時五分を過ぎたところ。

私は並ぶことにした。


私の職場から見てうどん屋の向こう側。

店から徒歩十五分の所に小学校から大学までの一貫校がある。

午後四時頃になるとそこの学生が長蛇の列を作るのだ、と店員から聞いたことがある。

それに比べたら、ずいぶんましなものだ。


それから五分。

ようやく呼ばれた。

だが残念ながら相席をお願いされた。

この店の常連と化し、店員とも顔見知りの私は何度か相席を経験していた。

時間がないので、快く了承する。

いつも相席ありがとうございますと感謝され、心の羽毛布団がベッドの上で跳ねまわる。


店内は賑わっていた。

いつもは高齢の方が多いが、家族連れの四人、女子高生二人組、おじいさんと小学生の孫など、今日は年齢のレパートリーに富んでいる。


案内された席に座っていたのは、着物の女性だった。

歳はおそらく六十くらい。

今流行りのアラサーである私。

そんな私の母よりいくらか年上に見える。


彼女を横目で見ながら、注文を済ませた。


「よく着物はお召しになるんですか?」


聞いてみたくなった。

母が茶道をやっており、自分で着付けをして稽古のために県外まで通っているからだ。


「ええ、着付けの先生をしているので」


なるほど。

母が茶道を再開した当初、何度か着付けを習っていたのを思い出した。

稽古の前日によく帯と着物の相性を見てほしいと頼まれるが、これが存外に楽しいのだ。


「すみません。母が茶道をしていて、よく着物を着ているので、つい」


そう言うと女性は、そうでしたか、と微笑んでくれた。


「あなたは、よくこのお店に来るの?」


質問された。

ぱちくりと目を見開いて、私は答える。


「そうですね。結構長いこと通ってます」

「私も週に一回ここに通ってるの。着付け教室があるときだけ」

「そうなんですね」


驚いた。

毎日のようにここに来ているが、彼女を見たのは今日が初めてだった。

私が見ていなかっただけだろうか。


「このお店、結構お安いものね。助かるんじゃない?」


そうですね、と私は頷く。


「安くておいしくて、料理も早く出でくるものね。ちょっと離れてても通いたくなるわね」


ん?


「ああ、そうですね」


歯切れの悪い返事をしてしまった。

なぜ女性は私の職場の場所を知っているのだろう。

今日は急いだので五分ほどで着いたが、職場から店まで普通に歩けば七分はかかる。


「でも、もうすぐ夏休みでしょ? もうひと踏ん張りね」


確かにそうだが、私の職場にはお盆休みがない。

六月末に日程表が張り出され、七月八月に休みたい日を自分で記入していくシステムだ。


「夏休みですか。羨ましくない、と言ったら嘘になりますね」


苦笑いで返した。


「あら、夏休みがないの? 最近の子は大変ね」


残念ながら私は『最近の子』ではない。今流行りのアラサーだ。


職場の人にも窓口に来られる方にも、頻繁に二十代前半扱いされるほど童顔ではあるが、アラサーだ。


面倒臭いから修正していないが。


「それで、どこの業界を目指しているの?」

「……業界?」


まぬけな声が出てしまった。

まさか。


「就職活動で夏休みが潰れちゃうんでしょ?」


そのまさかだった。

大学生に間違えられた。


「あの、違います……」


なんとかそう絞り出すことしかできなかった。


失礼なことを言ったと思ったのだろう。

女性は口に手を当てて焦る。


「ごめんなさい。まだ一年生だった?」


なぜ下がる。


「いえ、私、大学生じゃないです」

「ごめんなさい! まだ高校生だったのね!」


だからなぜ下がる。


「いや、高校生でもないです」

「え、まさか、ちゅ」

「違います」






まさか一貫校の学生に間違えられるとは。

仕事を終え、職場を出た私はため息をついた。

ここ数年、ずっと二十代前半に間違えられていたので新鮮ではあった。

だが、心の羽毛布団はベッドの上で枕を濡らしている気がする。


ふと見ると、犬が散歩していた。

茶色を基調とした毛色に、先だけ白い尻尾。

かわいい。

思わず近寄ってしまう。

飼い主は中年の女性だった。


犬のことで話し込んでいると、遠くに同僚の姿が見えた。

歳は同僚の方が五歳ほど上だが、仲良くしている。

手を振ってくれたので、振り返した。


そんな私を見て、にこにこしながら中年の女性は言った。


「あら、お母さん呼んでるわよ」


私は泣いた。



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