第2話 Zero Hour(- 25 hrs)
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凪いだ海を巨大な
VLCC
そのスケール感をわかりやすく伝える表現として、東京タワーを横倒しにして海に浮かべた、という比喩がよく使われる。
原油輸送は世界の海上荷動きの約三〇パーセントを占める。年間約一五億トンの原油が世界の海を行き交い、その六、七割がVLCCによって運ばれている。
この船もその内の一隻であり、中東と日本を結ぶシーレーンを約一か月半かけて往復している。明日には日本の京葉臨海コンビナート中央に位置する大手油社の製油所ターミナルに
現在、約三〇万トンの原油を満載して千葉県沖をゆっくりと航行している。
穂積は、背中に会社のロゴが入ったオレンジ色の
広大な甲板を見渡せば、船首方向に縦断する長大なカーゴ配管や巨大なクレーン、
朝食をとって、朝から機関室を見回り、続いて甲板を
途中で三等機関士の作業を
「いい天気だなぁ〜」
空は快晴。船の進行方向から吹く風が心地よい。
海上に波はほとんど立っておらず、湖ようなのっぺりとした
周囲に他の船影はなく、本当にいい気分だ。思わず独り言が出てしまう。
船首に向かって歩いていくと、フォアマストが見えてきた。マスト上部の作業台を見上げると、オレンジ色がチラホラ。
「おっ。やってるやってる」
落下防止用の
「あっ。ファーストエンジャー。おつかれさまですぅ」
「故障の原因は?」
「……まだハッキリしませんけど、ハンドターニングできないので、ピストンからバラしてみようかと」
彼女は本船の三等機関士。一昨年入社したばかりの新米だ。三か月前に次席として乗船し、前任者の下船と同時に主席に昇進した。まだ仕事に慣れていないようなので、若干心配なのだ。
昨晩、当直の航海士から
「そうか。クランクの
「了解しましたぁ〜。……ちょっとワークショップ戻ります」
「なんで?」
「十ミリのスパナと潤滑油持ってくるの忘れてましたぁ。あと、ボルトが
「……何しにきたのよ」
準備がまったくできていないようだ。ツールボックスにあらかたの工具は揃えているはずだが。
(てへっ♪ じゃねぇんだよ。まぁ、道具が足りないんじゃ、しょうがない)
「それにしても、ここ高くて怖いですぅ。落ちたら死んじゃいますよ〜」
「だから、そのために……って、おい。ハーネスはどうした?」
「へ? あーっ! 忘れてましたぁ。アレ、お股に食い込んで痛いんですもん」
「まったく、お前は。高所が怖いって危機感があるのに、なぜ
「……(ぶーぅ)」
時代は変わった。昨今、女性の船員というのは珍しくもない。航海士を選択する方が圧倒的に多いが、女性機関士も勿論いる。彼女もその一人だ。
実際、性別は大して問題ではない。ちょっとしたことで、パワハラ、セクハラ、モラハラ、〇〇ハラと騒がれるのだ。男だろうが女だろうが、その危険性に変わりはない。
女性特有の事情には会社も十分に配慮しているが、やはり現場では様々な場面で神経を使うし、時には
これで万一、ハラスメントとか、正直言って、めんどくさい。
「サードエンジャー。一旦、戻るぞ」
「ハイです」
「次からちゃんとハーネス着けろよ」
「わかりましたぁ」
(はぁ~。語尾の小ちゃい『ぁ』は何とかならんのか。……どうでもいいか)
「ファーストエンジャー。ピストンまでバラして原因が分からなかったら、どうしましょうかぁ?」
「たぶん、ピストンリングだと思う。覚えてるか知らんけど、あのピストンホーンは先々月も
「ピストンホーン?」
「
「長いっス。じゃあ、仮に治っても、またトラブるってことですかぁ」
(こいつ……小っさい声で余計なこと言わんかったか?)
「俺の知る限り、今年に入って三回はバラしてる」
「……なんで、そんなの
「俺が聞きたいくらいだ。この会社のタンカーフリートでは本船でしか見ないな」
「汽笛、
「上は必要だって言ってるんだから、治さなければならない」
「エンジニアは縁の下の力持ち。日の当たらないモグラですからねぇ。オフィサー連中がそう言うなら仕方ないですぅ」
「……ハンマーすら持って来ないヤツが、偉そうなこと言ってる暇があるならとっとと治せ。明日入港だぞ」
「手伝っていただけたりは?」
「俺は忙しい」
「……(ぶーぅ)」
まだまだ学生気分が抜けていないようだ。段取りは悪いし、作業も遅い。
「それにしても、ようやく帰ってきましたねぇ! 明日の入港が待ち遠しいです」
「そうだな。今航は長かった。
「ホントですよぅ。インド洋抜けてから、電波めちゃくちゃ悪くなったしぃ!」
彼女のいう電波とは、VSAT(ブイサット)と呼ばれる
静止衛星を中継して陸上と高速・大容量でインターネットなどの通信を行うことができるもので、プロバイダー曰く、『ストレスを感じさせない環境でデータ通信を行うことを可能にします』というふれこみだ。
しかし、彼女からすると、多大なストレスを感じているらしい。業務時間外では、船内Wi-Fiの通信速度が遅い、なんとかしてくれ、と文句ばかり言っている。
ここ数年でようやく船にも乗組員向けの大容量通信設備が導入されるようになった。衛星を使った通信インフラは以前からあったが、主に陸上との業務連絡に用いられるものだった。
ラウンジに備え付けられた固定電話を交代で使い、高額な電話料金を支払って、インマルサット通信で家族や恋人との数分の会話を楽しむ。プライベートメールはドラフトを船長に預けて代理送信してもらう。という不便な環境だった。
それが今や、個人のスマホにWi-Fiのアンテナが立つようになったのだ。
例え、アンテナマーク一本だろうが、すぐに圏外になろうが、通信速度が遅かろうが、あるだけマシ。まったく文句がないとは言わないが、我慢できないことはない。
しかし、スマホとともに生まれてきた彼女のような世代からしたら、あり得ないことらしい。
実際、日本の海運会社のこうした取り組みは遅れていると言われていた。欧州船社では早くから、乗組員の福利厚生の一部としてこういうところに多額のコストをかけ、優秀な人材を確保しているという。
穂積の場合、たとえ一か月電波が入らなくても、まったく気にならない。しょうがないと諦められる。
もしかすると、自分の方が異常なのかもしれないが。
「上陸したいならしてきていいぞ。セコンドエンジャーと相談して、時間決めておけ」
「いいえ、結構ですぅ。上陸してやりたいこともないですしぃ。4Gが入るならぁ、他に何もいりません!」
「……」
「遠慮しなくていいんだぞ?」
「いえいえ」
「若手を優先して上陸させてやるのは当たり前だし、昔は俺もそうしてもらってたんだ。遠慮せず行ってこいよ」
「いやぁ、ホント、大丈夫ですからぁ……」
「……まあ、とりあえず、行きたきゃ早めに言えよ?」
「……」
ときどき理解できない大きな
それとも自分のコミュニケーション能力の低さが作用しているのだろうか。
長い航海の果ての上陸は誰でもうれしいものだと思っていたが、そうでもないのだろうか。
(……まあ、別にどうでもいいか)
「午前のティータイムには制御室に戻ってきて、
「了解しましたぁ」
そう指示を出して、三等機関士と別れ、穂積は機関室へと戻っていくのだった。
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