【完結しました】海の彼方のトティアス 〜救助されたら異世界だったので美人船長の船で働くことにしたら、地雷系女子に包囲されてしまった件~
万年ぼんく
第一章
第1話 Zero Hour(+ 2 hrs)
見渡す限りの大海原。
遥か遠く、水平線が三百六十度に渡って緩やかな曲線を描き、視界を遮るものは何もない。
見上げれば空は青く澄み渡り、陽光が
風が撫でるようにやさしく吹き渡り、母なる海は若干のうねりを伴いながら優しげに揺れていた。
そんな
黒髪を短く刈り込んだ男だ。年の頃は二十代後半といったところか。
中肉中背で色白の体躯に、目の落ち窪んだ堀の深い面長の顔立ち。重たげな一重目蓋がどこか
目に優しくない蛍光オレンジ色の
黒地に金糸の刺繍を施された厚手のワッペンが、ド派手な服の胸元でアクセントとなり名乗りを上げるように光る。
『1st ENGINEER HOZUMI NIITAKA』
男の名前は
外航船舶の一等機関士として働く、船乗りである。
今、穂積は船上にいない。海の真ん中でたった一人、遭難中なのだから。
突如として大海に放り出された穂積は、両腕を激しく暴れさせ、
「ぶはぁ――っ!! っうぇっぷ! がはっ、げほげほ! っ! っすぅ~! はぁー、はぁー!」
首を懸命に延ばし口から大きく息を吸い込むが、軽く波を被って呼吸が中断し
海中で両足をばたつかせ、浮かび上がろうと
海水に目が沁みて開けていられない。意識は混乱の只中にあり、何がどうなっているのか分からない。何も考えられない。
藻掻き苦しみ、ひとしきり暴れ続けて体力を浪費したところで、ようやく思考が戻ってきた。
(落ち着け! 落ち着け!! 俺!)
自分に言い聞かせ、状況の把握につとめる。海で溺れている。なぜ自分が溺れているのか、さっぱり理解できない。
(
国際条約に基づき、すべての船員は定期的に基礎訓練を受け、能力基準を満たしていなければならない。穂積も休暇中に訓練を受けたばかりだ。
(大丈夫だ。人間は浮くようにできている。パニックを起こさなければ、大丈夫!)
肺に空気をめいっぱい溜めて息を止め、仰向けに身体の力を抜いて、
水難学会が提唱する『浮いて待て』である。肺が浮き袋の代わりになるので人体は浮き上がり、全体の二パーセントが自然と水面上に出る。この二パーセントに鼻と口を持ってくれば、泳がなくても呼吸を維持できる。
ただし、肺に空気を溜めておく必要があるので、苦しくなったら、すばやく息を吐いて吸う、を繰り返さなければならない。救助が来るまでの間、そうして耐えるのだ。
「ふぅっ、はあぁっ」
「ふぅっ、はあぁっ」
(……研修はプールだったが、海水の方が浮き易いってのは本当だな。幸い、波も高くない。落ち着いて体力を温存しよう)
訓練通りに浮き続けること数分。とりあえず、落ち着いてきた。心臓はまだバクバクとうるさいが。
一旦背浮きを解いて、立ち泳ぎをしながら周囲を見回す。ひょっとしたら近くに船が居るかもしれない、と淡い期待を込めて。
なにもない。視界には、なんの目標物も見当たらず、群青色の海面が無慈悲に広がる。
(そう都合よくはいかないか)
泳いで辺りを確かめる。
(……なにもない)
もう少し泳いで、捜索を続けることにする。
「……ふぅ、ふぅ」
さらに泳いで、捜索を続ける。
「…………はぁ、はぁ」
泳ぎ続け、泳ぎ続け、疲れるまで泳ぎ続けて。
一時間ほど経っただろうか。
「………………ぜぇ、ぜぇ、ごほっ……?」
(俺は、何を探してるんだ?)
海中転落したら、その場に留まり、救助を待つのがセオリーだ。
そうするつもりだったし、近くに何かあればラッキー程度の行動だったはず。
しかし、泳ぐことを止められなかった。急き立てられるように、なにかを探していたように思う。
(……思った以上に、
どうやら自分は冷静ではないらしい。余計なことは考えずに、救助を待つべきだ。
声に出して、自らに言い聞かせる。
「穂積、冷静になれ。無駄な動きをするんじゃない。浮いて救助を待つ」
改めて自分の状態を確かめる。手足は問題なく動く。ケガもしていないし、出血もなさそうだ。
そういえば、安全靴と腰回りにはポシェットを身に付けていたことを思い出した。
腰からポシェット外し、ジッパーを開けて水を抜いてから、空気を含ませて閉じる。ベルトの長さを調節して、胸の上辺りに装着する。
(安全靴はどうしようか。重いし、脱ぎ捨ててしまいたいところだけど……)
一般的なスニーカーやサンダルであれば、軽量化のために発砲ウレタンが使われているので水に浮く。だから脱がない方がいい、と講習で習った。
穂積の履いている静電防止仕様の安全靴は合成皮と合成ゴムでできており、爪先には強化プラスチックの保護板が仕込まれている。たぶん、浮かない。
しかし、穂積は今、
物は試しと、安全靴を脱ぎ、逆さまにして爪先に空気を溜めた状態で煙管服の内側に仕込んでみた。
ちらりと腕時計を見ると正午少し前。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと背浮きに移行する。
即席の浮き具だが、それなりに効果はあるようだ。かなり呼吸しやすくなった。できるだけ肺に空気を留めるように浅く息をする。
「ふっ、ふっ、ふっ」
(体感だけど、水温はそこまで低くない気がする。朝方は二〇度くらいだったな)
機関室の見回りで見た海水入口温度を思い出す。
体温を逃がさないように身体を丸めておきたいところだが、たぶん無理だろう。背浮きのまま呼吸を維持するしかない。救命胴衣を着けていないことが悔やまれる。
腹の上で腕を組み、脇を締め、両足を交差することで備えることにした。
(どこまで意識を保てるか。日中に水温が上がるとして、二〇度から二五度だと……二時間から一二時間だったか)
長時間水に浸かった人間にとって、最も危険なのは低体温症だろう。
初期症状として息切れ、過呼吸、運動機能低下、血管収縮、多尿などが断続的に起こる。さらに体温が低下し続けると、思考力・判断力の低下に見舞われ、やがて意識障害に陥る。
(……いずれにしても、日没がリミットか)
夜間の海上捜索による発見は、絶望的だ。ビーコンやトランスポンダなど、シグナルを発する装置を所持していれば可能性はあるが、今は手元に無い。
夜になれば水温も低下する。助けを待って祈る以外に、もはや打てる手はないのだ。
(……どうしてこんなことに!! 一体なにがあった!?)
不安と恐怖を抑え込んで目を閉じる。
何とか呼吸を落ち着けながら、この理不尽な状況に至るまでの記憶を辿るのだった。
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