地図と錬金術の魔女と橋男 五十四話
「屍の国って、死体以外何があるんだい?」
朝焼け前の森。雪こそ振っていないが、大きく息を吸えば肺が痛む程度と冷たさの中、焚火の音に交じって、霜が降りる音が耳につく。夜行性の動物たちがそろそろ、寝入りそうな気配がしていた。
そんな中、地図と錬金術の魔女はだしぬけにそう言った。
「何があるとは? まあ、空気がありますね。有害でないと言われますと限られてきますが」
橋男は特に変なことを言った風でもなく答えた。昨日の戦いで壊死したまま未だに再生していない右腕が、寒さにより硬直し軋みを立てていた。
「その答えが、ふざけた幼児の真似事でない程度には、何もないということがわかったよ……死体を建築に使っているとかいう噂は本当のようだね」
「いや建築に使われる人の九割は同意を持ってやってますよ。それにちゃんとした煉瓦や、石造りの建物もあります……それで何かあるかと言えば、死体の次に重要なのは……詩ですね」
「詩って、やっぱり『死と詩集の魔女』の名の通りってことかい?」
「名の通りってことですね。屍の国の人間はかろうじで残る人間性を保つために、詩のやり取りを頻繁にします。それとは別に、子供が生まれると、両親はその子に『魂の詩』ともいうべき詩を授けます。生まれた子はその詩を大切に心の奥底に留め、少しづつ改変し熟成していくんです。その詩は本当に大切な人にしか明かしてはならないし、それを奪うことは屍の国で最大の罪となります。まあ極悪人も多い国ですけど……。頭がつぶれても、その詩だけは無くさないし、仮に万が一のことがあって無くしたとしても、何重にも保険をかけておき、取り戻せるようにしています」
「ほう……下品で猥雑な国と思っていたが、そんな風習があったのか。どれ、その魂の詩を私に聞かせてはくれないか?」
「それって愛の告白ですか?」
「いやまさか。でも今回は命を懸けるべき密命なんだろ? じゃあ手段を択ばずに命よりも大切なものをよこせと言われれば、話すものなんかじゃないか?」
橋男は顎に手をやって、少し考えこんだ。しかし、首を否定の形に振った。
「駄目ですね」
「どうしても?」
「僕はあなたを殺したくない」
「ははっ」魔女は、手を叩いた。「まあ冗談だよ。その詩がどれくらい重要か聞きたかったんだ。許してくれ」
「こちらこそ、ご期待に沿えなくて本当にすみませんね。ただし魂の詩以外にも、詩のやり取りは盛んなので、余興としてあげられる詩はありますよ。二番目の魂の詩と言うべきものはありますし」
「ぜひ聞きたいね」
魔女は手を組んで、彼の言葉をまった。
橋男は、夜の森に耳を澄ました。恐らく自分の発する言葉と、自然の音が上手く馴染む瞬間を待っているのだろう。
やがて男は、冷たい空気の中に詩を放った。
それは、
実に通俗的な詩だった。おそらくごく一般的な男女の愛を謡った言葉だ。屍の国の愛ではなく、生きた人間の恋愛であることから彼の先祖をたどると他の国へ行きつくということだろう。
貴族が食べるような甘い菓子のような導入から、香辛料のような刺激的な障害が立ちはだかる。展開は嵐のように目まぐるしく動き、時おり花園のような静粛に心を落ち着ける。鍵盤を強く叩きつける景色が見え、指揮者が激しく揺れる。最後は戦乱に巻き込まれ、慟哭と罵詈の荒波にもまれ全ての障害を愛という愛で倒し、二人は祝福され結ばれた。
そのすべてを短い詩の中に詰め込んでいる。
実に通俗的な詩だ。若い人には受けるんじゃないかな、そう魔女は分析している一方で、感覚的には予想外に自分に刺さって驚いていた。思わず一筋の涙を流しそうになり、恐怖さえ覚えかけた。こんな通俗的な詩に。
「うんまあ、いい詩なんじゃないかな」
何とか動揺を抑え、感想を口にした。五本の指を顎の前で強く合わせ、感情を外に出まいとした。
橋男は一仕事終えたかのように手を払い言った。
「お気に召してなによりです。笑える詩でしたでしょ」
「えっ、笑っ、何……? 笑える要素あったか?」
「いや、滑稽じゃないですかこんな歌。まあ僕のこっけいさが表れてしまったんでしょうかね。個人的には笑わせるのではなく笑われるのも、笑ってくれるなら歓迎ですがね」
「……」
魔女はもやもやとした気持ちになった。素直な評価はしなかったが、こうも自虐されると、自分の感情が滑稽みたいに思える。いや、自虐ではなく屍の国の価値観では滑稽詩なんだろう。そう自分を納得させた。
自分を納得させて大きく息を吸い込んだ。
「君」
「はい、なんでしょう」
「二度と私の前でその詩が滑稽だなんて言うな」
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