第二章 尾上奏多(二)前編

 7月22日、夜。千聖の情事を目撃してしまってどんな顔をして帰ればいいかわからなくなってしまった私は、ゆっくりと自転車を走らせて、上弦塚から少し離れた小さな工業団地の明かりを目印にしながら道路をフラフラしていた。

 変に力んだせいか股関節がだるく、ペダルを漕ぐ足にはあまり力が入らない。ギア変速を軽くしてみてもなお、自転車は蛇行しながら進んでいった。

 工業団地から出て来たのだろうか、正面から大型トラックがやって来て、その強いライトに私は大きくフラついた。すると、自転車が路肩の砂利に乗り上げハンドルの制御を失い、そのまま砂利の向こうの側溝に自転車ごと落下した。その時、U字溝の角に頭を強くぶつけ、私は意識を失った。

 うん、多分私は意識を失ったんだと思う。いや、私は、死んだんだ。

 だってこの時、私は死神に会ったから。


 気がつくと私は薄暗い洋館風の部屋でアンティークっぽい椅子に座っていた。左右の壁には本棚があり、見覚えのない字が書かれた分厚い本がぎっしりと詰まっている。

 目の前では金髪で瑠璃色の瞳をし、白くフリルのたくさんついたワンピースを着た、人間とは思えないほど美しい、本当にお人形のような少女が机を挟んで座って本棚のものと思われる分厚い本を読んでいた。年は私より少し下くらいだろうか。それよりも本当に人間なのだろうか。そう不思議に思ってしまうほど少女の振る舞いや顔立ちは端正で、完成されていた。

 私の意識があることに気付いた少女は「やっと起きたわね!」とカナリアのような美しい声で、笑顔を咲かせた。ああ、彼女は一応生きた人間なのだな……少し妙な気持ちになってしまった。彼女は華やかな笑顔を咲かせたまま、私に手を差し出した。

「会いたかったわ、尾上奏多! 私はエリザ・アロノワよ。よろしくね!」

 彼女の美しい声で自分の名前を呼ばれると、少しむず痒いような照れるような気持ちになった。だがまだこの空間や彼女の存在に対して要領を得ない私は、狐に包まれたような心持でもあった。しかしそれが当然であるように目の前のエリザ・アロノワと名乗る少女の手を取った。そして少し温かく、柔らかいエリザの手に触れ、私は少し正気を取り戻した。

「えっと、エリザ、ちゃん……?」

「エリザ、で良いわ」

「わかった、エリザ。突然だけど、ここは一体……?」

 エリザは笑顔を称えたまま言った。

「ここは生と死の狭間の空間よ。奏多、残念だけれど貴女は死んだわ。そして私は貴女を迎えに来た死神ってわけ」

「あー……」

 私はそう漏らしながら、心の中で「やっぱり」と納得した。私の様子を見てエリザは小首を傾げた。

「普通死んだって聞かされたらヒトってもっと取り乱すものなんだけれどね。妙に納得しているじゃない、奏多」

「あ、あはは」

 から笑いしながらここ3ヶ月を思い出していた。ここ3ヶ月は実際もう死んでいたも同然のような孤独な暮らしをしていたし、今更身体が本当に死に至ったところでそんなに驚くことは無かった。私は自分でも驚くほど落ち着いていて、心はむしろ凪いだ海のようだ。

 エリザは私の様子を怪訝そうに見ながらも、「まぁいいわ」と気を取り直したようだった。

「それで奏多。貴女、一度蘇ってみない? もちろん生身の人間としてではないわ、私の助手、『半死神』として仕事を少し手伝って欲しいの」

「えっ」

 むしろこのまま逝けた方が楽だったんじゃないかと思っていた私は少し辟易した。

「何よ歯切れが悪いわね。1週間よ。その間だけ人間の世界で生きながら私を手伝って、私が見込みがあると思ったら貴女に人間として完全に蘇るか、死神として生きる道を歩くか選ばせてあげる。どう? 悪い話じゃないでしょ」

「う〜ん、どうしようかなぁ」

 私は少し腕を組んで考えた。

「まさか奏多、このまま死んだ方がマシとか考えているんじゃないでしょうね」

「バレちゃったか……」

「馬鹿ね奏多は。生きていれば貴女を差し置いて男に走った有森千聖を見返すことだってできるのよ? 先に死んじゃったら有森千聖の泣き顔も見られないっていうのに」

「え、なんで千聖のこと…ちなみに死ぬとどうなるの」

「消えるだけよ。身体は…そうね、奏多の国では火葬されて骨になるでしょ? 意識とかそういう中身……人間は魂って呼ぶのかしら。それに関しては消えてお終いよ。中身を消すのが私たちの仕事ね。だから幽霊になって有森千聖に会いにいこう〜なんてほのぼの劇場は実際あり得ないってこと。あーあと、有森千聖どころかこの区画の人間の名前なら大体は把握しているわ。村民100人もいないじゃないこの村」

 千聖を見返すっていうのは具体的にどういうことをすれば良いのか、私には皆目検討つかなかったけれど、なんとなく完全にこの魂が消えて、私の死を悲しんでいる千聖すら見ることができないと思うと少し虚しい気がした。

「そっか……じゃあ、1週間だけやってみようかな」

「その意気よ、奏多。じゃあ、ここに半死神のエクリアを結ぶわよ」

 エリザは立ち上がり、私のすぐ正面にやって来た。

「エクリア?」

「神様の言葉で、『契約』ってことよ。奏多、両手を貸して」

 両手を貝を合わせるように繋いだ。エリザは私の額に自分の額を当て、小さくよくわからない呪文を呟いた。すると、私達がいた部屋が崩れ出し、足元からエリザの目と同じ色の光が溢れて来た。エリザは頬を紅潮させながら、ふわりと笑って言った。

「また、会いましょう。私の可愛い奏多」


 目が覚めると私は落下した道路の路肩に座っていた。一緒に落ちたはずの自転車は私の横に無傷で停車してあった。よくよく見ると私自身も無傷で、おもむろに立ち上がると、少し座り続けたのか膝が少し軋む感じはしたけれど自然に動けた。スマホを確認すると、7月23日と表示されていた。空が白み始めている。早く帰らなきゃ。自転車を漕ぎ出す。昨夜に比べればずっとスムーズに走れた。

 そうして上弦塚の脇を通り過ぎて、道を更に進んでいって、15分くらいゆっくり漕ぎ続けてやっと集落に入った。

 すると、有森家から寝巻き姿のまま千聖が飛び出して来て、「奏多!」と叫びながらこちらに走って来た。まだどこか呆けている私はなんとなく自転車を停める。

「え、千聖?」

「え、じゃない! めっちゃめっちゃ、心配したんだから!」

 千聖が泣きながら私に抱きついて来た。そうだ、私は昨日の夜家を出たきりになっていたんだった。なんだかエリザと話していた内容について考えたりしていたら、そういった大事なこともみんなうっかり忘れてしまっていた。まだ夢見心地なのかもしれない。しっかりしなきゃ。

 そもそも、千聖がこんな風に泣きじゃくって本気で怒るほど心配してくれている事が若干驚きだった。私のことなんてもうどうとも思っていないと思い込んでいた。

 友達は友達、なのかな。私が千聖に勝手に期待していたから、その振れ幅が大きかっただけで、千聖にとっての私っていうのはあまり変わりがないのかもしれない。千聖に付き添われながら家まで帰りながら、自分は少し子供だったかも知れないと、自分のこれまでの行動を恥じたりした。

 家に着いて一息つこうとしたけれど、両親は千聖の言っていたようにものすごい心配していて、病院に連れて行かれそうになったけれど、なんとか頭を捻ってしどろもどろ誤魔化して自室に入った。

「素敵なご両親じゃない。それに素敵な友人。奏多、貴女ずいぶん恵まれて育っているのね」

「うわっびっくりした。いつからそこにいたの?」

 自室に入るなり突然エリザに話しかけられた。さっきまで姿形無かったような気がするけれど……神様はそれこそ本当に『神出鬼没』なの?

「ずっと貴女の傍にいたわよ。姿を消していただけ。あと、私の姿は奏多にしか見えないから、独り言えげつないお嬢ちゃんにならないように気をつけることね」

「えぇ……なんかずっと見られてたなんて気持ち悪い。ちゃんとそういうことは最初に言ってよね」

 エリザは『気持ち悪い』と言われて相当驚いた様子で、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして見せた。しかしすぐにクールぶった素振りに戻った。

「ふーん、言うじゃない、貴女。それじゃあ、落ち着いたらお望み通りこの1週間に行う業務の説明とか決まり事を教えるから覚悟しておくことね」

「そ、よろしく」

 私は早速床にあぐらをかいてギターのチューニングを始めた。

「ちょっと、ちょっと待ちなさいよ奏多。貴女、昨日ほとんど寝ていないのよ? 寝たほうがいいわ」

 高飛車なお嬢様ぶっているけれど、エリザは意外と優しい女の子なのかもしれない。その心配の言葉を聴きながらも、ギターのペグ……所謂音の調節つまみを回していく。

「昨日はギターの練習が少ししか出来なかった。感覚を取り戻しておかないと気持ち悪くて眠れない」

「はぁ……頭では理解していたけれど、本物のギター馬鹿だったのね、貴女って」

「まぁね」

 数曲弾いてみる。うん、少し右手の硬さが取れたかな。

 私の演奏を聴きながら、エリザは鼻歌を歌っていた。この曲知ってるんだ。死神って意外と俗世に詳しいんだな。しばらくすると鼻歌に飽きたのか、彼女は私の正面に回って座り込み、じっと観察をし始めた。

「エリザ、まさかこれから1週間一緒に住む気じゃないでしょうね。そうやって見られると楽じゃないんだけど」

「私は貴女の担当官だもの、ある程度一緒にいるわ。でも四六時中衣食住を共にするつもりは無い。でもやっとずっと会いたかった奏多と一緒にいられるんですもの、観察くらいさせてよ」

「はぁ、じゃあせめて姿消してて。消せるんでしょ?」

「嫌よ。奏多に私の存在を意識していて欲しいもの」

 私はエリザのそのおちょくるような物言いに呆れ返って「そうですか」と言うと演奏に戻った。

「ねぇ、奏多ってこんなに演奏上手なのに、ロックバンドは組まないのかしら?」

「別に、こんな田舎の高校じゃ面白い演奏する人なんていないし」

「そうかしら? それこそあんなに千聖が好きなら、千聖とバンドを組んだりすればいいんじゃ無い?」

 私は鼻で笑う。

「千聖は音楽センスはカケラもない。カラオケ行けばわかる」

「随分ひどい言いようね……それじゃ、逆に奏多は千聖の何が気に入って、そこまで固執しているのか気になるわ」

 お喋りな死神だな。全然演奏に集中できないじゃないか。

「好きになるのに理由が必要?」

 私が真っ直ぐに見返しながらそう言うと、エリザは「そう、よね」と少し寂しそうな表情を浮かべて俯いた。少し弾いてから部屋を見回すと、エリザの姿は無くなっていた。まるで最初からいなかったように、気配も跡形なく。

 ギターの練習を終えると、ベッドに横になった。

 やっと落ち着いて、そして考えるのはやっぱり千聖のことだった。

 もう私のものにはならない千聖。そんな、千聖が知らない男の人の女になって生きるこの世界に生き残り続けて何になるんだろう。そんなことを思うのは、良くないことなのかな。千聖と肩を並べて歩かない人生なんて、考えたこともなかったから。どうしたらいいかわからない。私は一体全体、本当にどうしたらいいんだろう。

 瞬間、脳内に千聖が彼氏と絡み合っていたシーンが、千聖の子猫みたいな声が再生される。首を横に振る。あんなものを思い出しちゃダメだ。ああいう繊細な側面があるものは忘れてあげるのが千聖と私のためだ。ただ、あまりにも衝撃が大きすぎて、つい思い出してしまう。好きな女の子の身体って、あんなに蠱惑的なものなんだ……いけない、また思い出している。

 エリザにそそのかされて、ひょっこり生き返ってみたけど……この選択は間違いだったかもしれない。人間として生き続けたくもないし、ましてや死神になるなんてもってのほかだ。ああ、私は一体何をしたいんだろう。

 その時、チャイムが鳴った。何だろうと思いながら玄関に出る。リビングが静かなので、両親は仕事に行ったみたいだ。玄関先にいたのは千聖だった。

「あ、千聖。どしたのさ」

「ちょっと奏多、起きてて大丈夫なの?」

 みんな私の眠りの心配するな。こんなに眠りの心配されることってもう今までもこれからも無いだろうな。

「いやぁ、なんか目が冴えちゃってさ。ギター弾いてた」

「そっか。まぁ大丈夫ならいいけどさぁ。あ、これお見舞い。冷蔵庫で冷やして食べて」

 千聖は小さな紙袋を差し出して言った。紙袋には学校の先にあるお洒落なカフェの名前が書いてあった。

「カフェスイーツ!? すごー千聖、お洒落な女子高生って感じだ」

「私も初めて行ったんだけどね。今度奏多も一緒に行こうよ」

「え、カフェって怖くない?」

 あんなお洒落空間に行ったら、田舎娘の私は多分浮いてしまうだろう。そもそもオーダーからしてかっこいいこと言わなきゃいけないという先入観がある。注文すらできず真っ赤な顔をしてお店を出る自分が容易に想像できた。

「案外大丈夫。聞けば店員さん色々教えてくれるし」

 そう言う千聖と一緒に行けば大丈夫なのかな。

「んー、じゃあ行く」

 私の現金な発言を聞くと、ふふっと可愛らしく千聖が笑う。それに釣られて私も笑った。

「家に寄ってく?」

 何となくもう普通の距離感でそう言うと、千聖は口の前で指でバッテンを作った。

「いや休むの邪魔するわけにはいかないし」

 そして千聖は足早に「ちゃんと休むんだよ!?」と念を押して帰って行った。本当、可愛いんだから。千聖ってば。

 千聖が買ってきてくれた、なんか美味しくて複雑な味がするババロア? ムース? とりあえずお洒落なカップスイーツを頂いたら、何となく心の波が落ち着いてきた。横になると自然と眠りに落ちて1日が終わった。やっぱり、なんだかんだ身体は疲れていたみたいだ。

 結局その後次の日まで眠りこけていたので、エリザの話は聞くことができなかった。


*****


 7月24日。

 シトラスのような、爽やかな香りが漂っていることに気付いて、瞼をうっすらと上げた。すると至近距離にエリザの端正な顔があって、驚いて目を見開いた。

「おはよう奏多。お寝坊さんね」

 大層楽しそうにニヤつくエリザは、私の頬をつついてきた。ちょっと不気味なぐらい浮き足立っているのがわかった。シトラスの爽やかな香りは、エリザの香水か何かの香りだとすぐわかった。

「はぁ、お腹すいたからご飯食べるわ」

 だが私はエリザの上機嫌になんとなく気が付かないふりをして、素っ気ない態度で服を着替え部屋を後にした。一階に降りる階段を踏みしめながらスマホを確認すると、どうやら昨日の夕方から15時間以上寝ていたらしい。今は朝8時。例年の夏休みの私にしては早起きした方だ。

 お母さんが用意していってくれたご飯メインの健康的な食事を終え部屋に戻ると、エリザが頬を膨らませながら仁王立ちしていた。

「ちょっと~、冷たいじゃない、奏多。折角起こしてあげたのに」

「べ、別に頼んでないし」

「いけず~…で、今日から死神の仕事を教え始めようと思うんだけれど、奏多は大丈夫かしら?」

「ああ、うん。よろしくお願いします、せんせー」

 『せんせー』と呼ばれて少し気分が良くなったのか、エリザはご機嫌な様子で「しょうがないわね、任せなさい」と不敵に笑った。失礼は承知だけれどこの子、結構扱いやすいかも知れない。


「私たちが担当する区画はこの集落を含む市全体よ。人間には人間の死神、って決まっているから私たちが魂を回収するのはこの市でこれから出る死者ね」

 丸いテーブルを挟んで向かいに座ったエリザが、空中に地図みたいな画面を広げて、指を指しながら説明を始めた。

「市全体!? んー。でも市全体とはいっても、そんなに大きく栄えた市じゃないし、いうてそんなにお悔やみも出ないと思うけど」

 毎日1回新聞を眺めている感じだと、この市からのお悔やみはせいぜい1週間に2、3人いたら多い方だ。もちろん一人もいない週の方が多い。

「その点においてはご安心を。この市にはあと少しで大災害が起こる。恐らく地震と踏んでいるわ」

 エリザは目を丸くしている私を尻目に話を続ける。

「今回の半死神選考にこの地域が通ったのも、この災害が見越されてのこと。普通こんな、人口が減り続けているような過疎地域に半死神の助手なんて必要とされていないわ。あ、死者のリストは明後日26日の明朝に発表されるわ。多分結構な規模の被害になるから、奏多が死神になるための”一人の魂を回収する”っていう要件もあっさりクリアできると思うわよ。喜びなさい」

 エリザはカッコつけているけれど、結構説明が下手なのかも知れない。初めて聞く情報ばかりに私は面食らう。私は人の魂を回収しないといけないのか……。

「えっと、私が回収する魂も、その26日にわかるの?」

「そうよ。あと、担当区画の人が死ぬとこの発信器に信号が送られてくるようになっているわ」

 そう言いながら彼女は胸にぶら下げている懐中時計を指差した。

「奏多にもあげる。大事に使いなさい」

「あぁ、ありがと」

 発信器と呼ばれた懐中時計を手に取る。アンティークっていうのだろうか。よく磨かれた金色のメッキの蓋を開けると、中には読み取れない文字の書かれた文字盤の上を長針と短針が規則正しいリズムで回転していた。私のような若造が持っていいのかと思うくらい、きんぴかでとても綺麗だ。

「これは死人が出た時のアラートを発する発信器機能とか死人までのマップの案内機能、私と奏多の間で連絡を取り合う機能もついているわ。私たちは”カイン”という名前で呼んでいる端末よ。多分あなたたちの使っている”スマホ”? よりも使い方は簡単なはずよ。使いたい機能、そして用途を喋りかけるだけ。ちなみにこれは人前で使うのは禁止ね」

 そう言うと、エリザはカインに「発信、奏多へ」と語りかけた。すると私の脳の中のどこかで音が鳴った気がした。どこか止めなきゃいけない、と思わさせる妙なテレパシーのような感じだ。

「カインは音を鳴らしたり光ったりはしない。その代わり、使い手にテレパシーを送るようにできているの。カインに私がしたように語りかけてみて」

「あ、うん……受信」

 するとエリザと脳のチャンネルが繋がったような感じがした。ちょっと気持ち悪い感じ。

『ちょっと、気持ち悪いとは何よ。失礼な奏多ね』

『あーやっぱり会話もテレパシーなんだ』

『いちいち口を動かすのなんて人間みたいでナンセンスだわ』

 カインの接続を「切断」と語りかけて切った。

「ちなみにカインの操作全般、脳で念じればできるわ。でも慣れていないと失敗しやすいから最初のうちは口で喋って操作するのをお勧めするわね」

 私はカインというとんでも端末を目の前にぶら下げて観察しながら、中学に上がってスマホを初めて持った日のこととかを思い出した。あの時は世界が無限に広がるような、そんな気持ちになったけれど、実際にクラスメイトと連絡先を交換したりして使ってみると、逆に窮屈なことの方が増えた気がして息苦しくなって、徐々に私は千聖以外の人間と距離を取るようになったんだっけ。

 私の感覚が鈍ったのか、スマホの二の舞になる気がしているのか、カインに対してなんの感慨も湧かないなぁと少しつまらない気持ちになった。

 そんな感情はエリザに悟られていないだろうとシラを切って会話を続けた。

「で、半死神ってことは、私もエリザみたいに浮いたりできるわけ?」

「もちろん。半死神はまだ神の世界、神界にアクセスはできないけれど、それ以外のことは大体私と同じようにできるわ」

「大体?」

「ご覧の通り浮かんだりものをすり抜けたり、魂を回収するためのグリムを使ったり、回収した魂を神界に転送することはできるわ」

 私は脳内で死神の装いを空想してみた。

「グリムってのは、えーと、なんか鎌みたいなやつのこと?」

「ご明察。死神が鎌を持っているっていう人間の妄想が当たっているのは少し悔しい気もするけれど、死神はグリムっていうこの鎌で死体から魂を引っかき出すことができるの」

「引っかき出すんだ……」

 案外、グロテスクだな。

「今回の半死神の仕事は全部数日後の災害に集中させる予定だから、今日から3日くらいは壁抜けとか空中浮遊とか、人間の肉眼から姿を消すこととか、そういう死神としての振る舞いの基本のキをやっていこうと思っているわ。基本のキとは言っても、元々人間として肉体があるのが当たり前の奏多には難しいと思うから、じっくりやっていきましょう」

「ギターを弾く時間くらいは作ってよね」

「もちろん、私は奏多のギターが大好きだもの」

 エリザは大事な大事なぬいぐるみを見つめる時のような、乙女のような、そんな瞳で私を見て言った。なんか、くすぐったい。

「それじゃ、ビシビシいくわよ!」

「お手柔らかに~」


 それから神通力のような、なんだかどこか精神論のようなあれこれを教わりながら空を飛んだり壁を抜けたりといった訓練をした。基本はカインに念じればなんとかなるけれど、壁にぶつかりそうな気がするだとか、空を飛ぶこと自体に対する恐怖心を克服する方が大変な感じがした。

 この時は、これから起こる事態が私の手に負えるものを遥かに超えていることなんて、知る由もなかった。ただなんとなく、千聖と仲直りもできそうだし、サクっと仕事を終えて人間として生き直すことができるんじゃないかと、そんな甘い風景を心に浮かべて一心不乱に空を飛ぶ練習に打ち込んでいた。成功したら呑気にエリザとハイタッチをしてみたりして。私はこの時の自分を後から呪うことになる。


 7月25日。今日も死神の仕事をこなす上での基礎トレーニングだ。

 神様同士はどうやら姿を消しても認識しあえるみたいで、更に触ることもできる。なのでエリザだけしかいないところで特訓をしていてもいまいち自分の身体が消えているという実感が湧かなかった。だがエリザ曰く、「よくできてるじゃない」ということだった。

 やっと飛べるようになった空を、エリザと並んで満喫する。

「わぁ、気持ちいい」

「でしょ? 嬉しい、奏多とこうして一緒に空を飛ぶことができるなんて」

「前々から思ってたんだけどさ」

 私は小首を傾げるエリザにずっと気になっていたことを問いかけてみる。

「エリザ、なんか最初からすごく私に対して距離近くない? 一体……」

 するとエリザは「は?」と随分素っ頓狂な声を出して、それから口元でモゴモゴと何か言葉を噛むような素振りを見せると、「そんなの今はどうでもいいじゃない」と言って先に行ってしまった。その時見えた横顔は、耳まで真っ赤だった。

 まさか。

 まさかね。

 そのまま飛んで繁華街まで羽を伸ばす。地方都市ならではの中途半端な大きさの雑居ビルが立ち並ぶ中を潜り抜けていく。そして時折ビルの中を突っ切って行ったりして、自由に空中を飛び回った。基本的に行きたい方向を念じながら身体をひねれば上手に飛ぶことができる。コツを掴めば空を飛ぶことは自転車に乗るように容易だった。

 繁華街の駅ビルの中を突っ切って行ったら、その中にある人影を見つけて私の動きは止まった。エリザがそれに気付いて引き返してくる。

「ちょっと、どうしたのよ奏多」

「いや、なんでも……」

 私が見逃すはずがない。そこにはカジュアルファッションの洋服店でアレコレとトップスを手に取る千聖の姿があった。そしてその隣には……私が死んだあの夜、確かに千聖の身体をまさぐっていた男子が立って慈しみのような微笑みを浮かべていた。

 思い出す。あの夜の情事。

 心配してくれる千聖に流されて忘れかけていた感情が蘇る。どうしようもない無力感、千聖を取られたという子供じみた感情、それに嫌気がさす自分、男のセンスがなさすぎる千聖……そんな男に私といる時には見せない顔をする千聖、私の知らないところへ行ってしまった千聖に対する……確かな嫉妬心。

 私は拳を握って歯を食いしばって、なんとか気持ちを噛み砕こうと試みる。

 そうだ、千聖が幸せそうで何よりじゃないか。私の隣にはいてくれないけれど。

 千聖を幸せにしてくれる人がいてくれてよかった。それは私じゃないけれど。

 千聖が……千聖が……私は……。

 私は千聖の一番そばにいたかった。千聖の一番になりたかった。なんで、なんでそのささやかな願いをこんな冴えない男子に奪われなきゃいけないの? こんな冴えない男子のどこがいいの? 私の方が絶対にかっこいいし、私の方が一芸に秀でているし、私の方が千聖のこと絶対好きだし、私の方が千聖のことをよく知ってる。なのに、なのになんで千聖はあんな男子を選んでしまったの?

 幸せそうな千聖たちはあれこれ洋服を見たあと、今度は眼鏡屋で色々試着して笑い合っている。

 姿を現して邪魔してやろうと思った。でも……できなかった。私は握り拳を解くと、肩を落としてエリザをゆっくり追い越して行った。エリザは黙って私の後ろをついて来た。

 少し繁華街を離れるまで、エリザと私は何かを言いたげだけど何を言えばいいのかわからない、というような微妙な沈黙の中で飛んでいた。それは最初の和やかな雰囲気が嘘のような重苦しいもの。なんだか私はエリザに悪いことをしている気分になって、わざとらしく明るい声を出して見せた。

「ね、エリザってこの世界の食べ物は食べられるの? 折角お昼だし、外食しようよ」

「食べれるけど……ちょっと奏多、大丈夫?」

 やっと声を絞り出したエリザは大層心配そうな様子を浮かべていた。ずっと「大丈夫?」そう問いかけたかったんだろうな。ちょっと偉そうな態度を取っているけれど、エリザ・アロノワという死神は実は結構優しい女の子だ。

 私はそんなエリザに気を使わせないように明るい声を出す。

「私のね、イチオシのラーメン屋さんがあるの。行ってみない?」

「い、いいわよ……じゃあ行きましょう」

 いつも親に車で連れられて行っていたラーメン屋に飛んでいって、物陰で姿を現し入店した。背脂たっぷりのラーメンはいつも通りの美味しさで、現世の人に擬態したエリザも「あら、野蛮な見た目をしてる割りに美味しいじゃない」となんだか面白いことを言いながら食べてくれた。

 でも食べ終えてまた家まで空を飛んでいると、ラーメンのせいだけではなくどこか胃のあたりがずしんと重くなる感じがして、どうしても幸せそうな二人の姿がチラついて、私は公園の木陰のベンチに座り込んだ。

 エリザは「ほら、大丈夫なんかじゃないじゃない」と言いながら隣に座ると、私の左手の甲に自分の右手をそっと重ねて来た。

 私はその手の温かさを感じながら、死神も血が通ってるものなんだね、とか失礼なことを言いそうになるのをちょっと引っ込めて口を開いた。

「フラッシュバックみたいに、二人の幸せそうな様子とか、エッチしてるところとかが浮かんじゃうの。やめたいって思うのに、どうしても頭から離れないんだ。やだな、なんか、私ったら変態みたいじゃんね」

「わかるわよ、うん……辛いわよね」

 重ねられた手に力が込められる。

「エリザも、恋、するの?」

「失礼ね……私だって女の子よ?」

 そっか。エリザもこんな胸をそっと握られるような切ない思いをしているんだ。なんとなく私の中の神様像が崩れて、エリザを一人の女の子として見ることができてきた気がした。その人の人となりが、触れるような気がしてきた。

「そうね、叶わない恋をしているもの……私も」

「エリザの好きな人って、あ、いや人じゃなくて神様か。その子はどんな神様なの?」

「そんな質問に答えると思って? いやよ、教えないわ」

 エリザは顔を真っ赤にしながらそっぽを向いてしまった。

「いいじゃん、教えてよ。じゃあ当てるからヒント教えてよ! ゼウスとか? それともウンディーネ?」

「そんな人間が考えるような名前の神様いません! そうね……じゃあ、大ヒントあげる」

 エリザは流し目でこちらを見ながら腕を組んだ。私は少し気が紛れたのか、気持ちがワクワクする感じがしてきた。木陰とは言え、空気は30度を超えるなかだ。私たちは姿を消していたけれどじんわりと汗をかき始めていた。そんなのもお構いなしに恋バナをするのはなんだか、千聖とはできなかった青春って感じでまた楽しい。

 ひょっとしたら千聖は、私とこんな青春を送りたかったのかも知れない。私の心に邪な思いがある限りそれは叶わないけれど。

 エリザは裏返った声で、言った。

「私の好きな人は、人間の、女の子よ!」

 その宣言を聞いた時、ああ、私もこんな風に「女の子に恋をしている」と素直に表現できれば良かったんだろうな、という思いが先に来てしまって、一瞬その言葉の咀嚼に時間がかかった。そんな私を見ながら、エリザは少し戸惑いを浮かべた。

「な、何よ。自分も女の子が好きな癖に私の趣味は引くわけ?」

「あ、いやいや。エリザはすごいなって。そう思っただけ」

「何がよ。からかわないで頂戴な」

 私は首を静かに振った。それでエリザは私が本気で言っているということを察してくれたみたいで、再び掌を重ねて来た。

「私も、エリザみたいに素直だったらもっと違った未来があったのかな」

 エリザは声を震わせ始める私の頭を静かに自分の胸に抱き寄せた。


 エリザの好きな女の子って、ひょっとして、私?

 そう思いながらも聞けずに、他の女の子のことを思いながらエリザの胸に身を委ねてしまった私は、きっととってもずるいんだろうな。


*****


 そうして特訓を終えて、夜。

 自室でギターを爪弾く私の後方で、その旋律に耳を傾けながらベッドに座りカインで何かをしているエリザ。出会って三日少々だけれど、私は不思議とこのエリザ・アロノワという死神の少女を当たり前の存在というような雰囲気で受け入れ始めていた。

 それは先ほどの恋バナの影響もあるだろうけれど、エリザ自身が無駄に気を使わないちょうどいい距離感を保ってくれているお陰もあるかも知れない。

 数曲弾き終え「寝るよ、エリザ」と声をかける。だが、振り返るとそこにエリザはいなかった。なんだ、帰っちゃったのか。気配もなく消えたから気付かなかった。少しつまらないような、そんな気持ちになりながら部屋の明かりを消してベッドに横になる。マットレスは私の体重を柔らかく吸収していった。

 天井を見つめる。中学生の頃新築した我が家の天井はシミひとつない美しい白色。そう、それはまるで千聖の背中のようだ。またこんなことを思い出し始めると気を病みだすんだろうけど、なんとなく取り止めもなく流れて行く思考を今は見つめて行くことにした。思い出す、あの日のショッキングな光景。揺れる千聖の身体、それを雄々しく包み込む男子の逞しい腕。愛し合っていたんだ。あの二人は、あの時も今日も愛し合っていたし、今も愛し合っているんだ。あの時も、今日も、あの二人はまるで二人だけの世界に包まれているような、そんな雰囲気があった。お互いを信じ愛し合うことで強度を増す世界、そんな感じ。私だって、千聖と愛し合いたかった。千聖とだったら、もっと強い私になれるような気がしていた。でも今の私にできることは千聖の幸せを祈って、応援することしかない。本当は私も気分良く千聖を応援したい。そう思っているのに心の制御がうまくできない。どうしても嫉妬してしまう自分の心の手綱がうまく握れない。千聖の隣にいるには、もう応援することしかないのに。

「眠れないのかしら」

 優しい声色が私の混沌とした脳内にスッと桃色を差したような感じがした。優しい色は桃色、辛い色は褐色、楽しい色は黄色、とか決まっているわけではないけれど、今私の耳から感じられたエリザの声色は、確実に優しい桃色だった。

 エリザは私の顔を見て察したのか、掛け布団をめくって私の隣に潜り込んできた。不思議と嫌な感じはしなかった。

「子守唄でも歌ってあげましょうか?」

「いいよ、ギターで伴奏したくなっちゃうし」

 二人揃ってふふっと小さく笑う。

「千聖は、羨ましいわね。彼氏に愛されて、こんなに奏多に愛されて」

「本当、嫌になっちゃうよね……ねえ、エリザ」

 消灯された室内で、顔はよく見えないれど、耳を傾けてくれていると思いながら話を続けた。

「エリザの好きな子は、どんな子?」

「ふふ。難しいことを聞くわね…そうね。斜に構えているように見せかけてすごい真面目で真っ直ぐな子なの。一途で、一度願ったことは絶対に妥協せずに達成しようっていう強い意志がある。何より、少し猫のようなところが愛らしいわ。……猫って、自由に生活しているように見えるけれど、実は根っこの帰属意識はとても強くて、一度家と決めたところには必ず帰ってくるじゃない? そういう、自分の大事なものは本当に大事にしている、そういうところがとても素敵なの」

 エリザは本当に大切そうに語っていた。暗くて見えないが、今とても愛らしい表情をしているんだろうな、と想像できるような、そんな語り口にエリザの相手への強い思いが感じられた。

 一瞬、ひょっとして私のことなのかもと思ったのが、相当自意識過剰だったんだと気付かされた。だって、私はそんなに素敵な人間ではないし。真面目でもなければ猫でもないし。

 そう思って「すごく素敵な人なんだね」と言葉をかけると、エリザは私の右手を優しく握りながら、「ええ、そうよ」と消え入りそうな声で言った。今の私の思考と、エリザの行動があまりにもミスマッチで、一瞬頭の中で浮かんでいた言葉が白く弾けてしまった。

「気付きなさいよ、もう」

 きゅ、と手に小さく力が込められるけれど、私は何も言えなくて。

 だって、私は千聖が好きだし、エリザはそれを知っているはずだし……何も言えなくなって、私は聞こえないフリをしてまぶたを閉じた。ごめんね、エリザ。ずるいよね、こんなの。私は貴女の言うような、そんな素晴らしい人間ではないの。

 ごめんね。


*****


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