第7話 魔女と雨上がり

 次に目を開けると雨と煙草の匂いがして、それで私は如實なおざねに抱えられているのだと分かった。ちょうど視線の先には鎖骨につけた紫の星も見えていたし。

「……おあうおおはよ。ねみい」

ねえさん」

 ほっとしたような顔をするんじゃないよ。本当に死ぬとでも思っていたのか。もうちょっと気合入れて私を信じるのが今後の課題だな、クソガキ。

「勘弁してよ……」

「うっせー。条文なんぞ恣意的な解釈運用してなんぼのもんじゃ」

「何、条文って。知らないよ」

 体重を預けたままぱちんと指を鳴らそうとしたが、手が重くて痺れている。うまく持ち上がらない。それを見て如實なおざねが代わりに同じことをした。私より長い指先に挟まれて、紙巻煙草が一本現れる。如實なおざねはそれを私の唇にくわえさせて、もう一度指を鳴らした。火がく。

 深く吸い込んで、煙を吐いた。

 私のいつもの銘柄じゃない。さっき目が覚めた時の煙草の匂い、これは如實なおざねの匂いだ。感情でせそう。ほんと、人間は暑苦しい。

「ほいで? どうなった、長谷井は」

「一応人間っぽい感じには戻ったけど、元の人生に戻れるかどうかは……封じるのが無理で、なんかこう魂の、記憶っぽいところブチっとやった感触があるんで」

「あっそう。まあしょうがないんじゃない」

 あそこまで悪化してりゃね。長谷井のそもそもの性質が魔性まがいの強さで欲深かったうえ、ガチンコ魔性のお嬢がその効果を垂れ流していた悪魔の化学反応だ。もちろん長谷井が完全に悪いのではあるが。

 少しずつ手足に力が戻ってきた。撃ち砕かれた膝と胸骨のあたりにケロイドのような痕があるが、これも間もなく消えるだろう。視線を転じると少し離れたところでお嬢と橋口がこちらを見ていて、ついでに周囲の様子からここが事務所外の濡れた路上だと分かった。私は見なかったが、恐らく如實なおざねが本来の力を発揮すると一時的に雨が降る。こんな繁華街の裏通りなのに雨に濡れた土のいい匂いがしていた。

 大きな魔法の後の、独特のきれいな感じ。これは普通の人間たちには分からないだろうな。

 橋口の後ろに半分隠れたお嬢は真っ青な顔で震えている。まるで人類の敵を見るような表情をして、両目に恐怖と憎悪をたたえ、その可愛らしい唇からは魔女の私が長年聞き慣れた言葉がほとばしり出た。

「ばけもの。二人とも、ばけものじゃない! うそつき! 二度と私の前に現れないで」

 笑えてくる。そうそう、これが世間だよ。素人めんどくせぇ。

 私は少し身体を起こして、お嬢の方を見た。くわえ煙草のままで、笑ってみせる。

「頼まれなくても、こっちから願い下げだね。私たちには化け物の自覚がある。だけどあんたは自分が怪物だっていう自覚ゼロで、起きたことは全部人のせいだよな。お嬢の周りでこれまで起きた不幸、長谷井のこの始末、全部お嬢の力が引き寄せたことだ。石川はずいぶん頑張って、事務所や自宅を嗅ぎ薬みたいにしてあんたの力を抑えてたんだけどね。それももう台無しなんで、私たちもこれ以上は面倒見られない」

「姐さん」

 もうやめてくれ、というように如實なおざねささやくが、言うことを聞くわけにはいかない。一応、一度は関わった地域のことだ。少しは置き土産をしていかないとね。

「……おり茉弥まや、あんたには出会った相手に極端な執着を起こさせる魔性がある。相手を狂わせ、破滅させる力だ。ほんとは、シャブ打って倒れてたあの雨の日に死んだ方が良かったのかもね。でも如實なおざねが助けちゃったから」

 え、とお嬢は一瞬、虚脱したような反応をした。

「あの時は、私を助けたのは、長谷井で」

「長谷井はただ、ベルが鳴ったからドア開けてあんたを見つけただけ。倒れてるのを運んでったのは如實なおざねだった。長谷井はそういう奴よ。うまく自分の手柄になるものはするし、あんたに気に入られる材料とみれば何でも掴む。同情はしないよ。クスリ抜く合宿所まで行ってもうやらないって言ったのにすぐ買ったのお嬢だもんね。まあその売人も長谷井の仕込みだけどね」

 自由になってきた片手で煙草を持ち、私は紫煙を吐いて、そして問う。

「この世の中で長谷井だけが助けてくれると思ったか? 何もかも自分で仕込んで、今夜、あんたごと全て食い散らかそうとしたのが長谷井だが? ねえ、十代のうちから欲得まみれの悪霊と寝てた気分はどう? あいつキメセクと強姦プレイ好きなんだっけ。多分写真も動画も撮ってるよね」

 うう、とうめき声をあげてその場にうずくまり、お嬢は、おり茉弥まやは嘔吐した。

 私を抱える如實なおざねの手は震えてはいなかったが、すうっと冷えて、それから――何故だか知らないが、ぎゅっと私を抱きしめた。意味が分からないので私は、手にしていた煙草を如實なおざねくわえさせた。如實なおざねは宙を見たまま長い指に煙草を挟んで、深く吸い込んで、吐き出して。

 それから、背けた顔を煙草を持った手で隠すようにしながら、少し泣いたのかもしれない。

 今、こいつは路地の煙だ。





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