月光浴

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月光浴

月を見ていた。

満月も新月も。

満ち欠ける月を見ていた。

風が吹いている。

なんてことはない、ここは住んでいるマンションの屋上だ。

普段は入ることを許されないそこで、持ち出した酒とチーズを机に広げ、ゆったりと椅子に寛いで。

そうして僕は月をじっと見ていた。

決して義務や必要ではない。

ただ美しい光を浴びて、穏やかな時間を過ごすのが好きだったから。


「だとしても、こんな真冬に寒かろうに」


 声をかけられても、僕は一瞬それが現実とは思わなかった。

 だって、ここには誰も入れない。

 なのに、どうして声なんか聞こえるだろう?


「そりゃ、私が常世のものだからさ」


 ぱちくりと目を瞬かせる僕を、青年はおかしそうに眺めていた。

 足のないその人は、勿論足音もなく僕に近づいてくる。

 精悍な人だった。

 でも一番僕の目を引いたのは、その顔立ちだ。


「僕……?」


 まるで瓜二つ。

 青年は僕とまったく同じようでいて、しかし、青白い僕の肌とは対照的な日に焼けた頬を緩めて笑った。


「初めまして、私の子孫。私は君の先祖さ」


 青年は爽快に笑って、そして、ひどく寂しそうに月を見上げる。


「さて、月はもう、いくつ満ち欠けた?」


 六つと、答えたのは僕だった。

 先祖を名乗る青年は穏やかな時間だったかと、優しい目で問うてきた。


「それは、勿論」


 僕は答えた。

 でも、すぐに視線が落ちた。

 嗚咽が漏れたのは、その後だった。


「もう六度、月は満ち欠けました。僕はずっと、こうやって好きな月を見上げて、穏やかな時間を過ごしたかった。でも、」


 でも、


「望んだはずのこの時間が、こんなにも辛い」


 後頭部を、温かな手が撫でた。

 幽霊は、体温なんて感じないんじゃないのか。

 そんな癇癪すらこみ上げるのを噛み殺し、僕は泣いていた。

 青年はその時間を、沈黙で守ってくれた。

 そして熱い息に疲労が交じり合った頃、言ったのだ。


「きっと今君が苦しいのは、この時間を自分は得る資格がないと心で断じているからだ」


 苦しかったね。

 生きるのがしんどかったろう。

 どんなに働いても、人を大事に想っても、忙しない日々に擦り切れて。

 君はああ、束の間でいい、穏やかに月を見上げて過ごしたいと思ったんだろう。


「そうして半年、君は自分の望むようにした。でも、苦しかったね。だって、」


 同時に君は、身勝手に楽になろうとした自分すら責めていた。


 雲が月を隠す。

 僕は空すら仰げぬまま、顔を覆った。


 ごめんなさいと、声は濡れた。



 ごめんなさい、楽になろうとして。

 ごめんなさい、上手く生きられなくて。

 ごめんなさい、みんなを置いて。

 ごめんなさい、僕はベランダから身を躍らせた。



 限界だった。

 世界は忙しなくて、僕は一時ひとときも息つけなくて。

 ほんの少し、楽になりたかった。

 だから自由になった今、こうして望んだように過ごしているのに。



 僕は決して楽ではない。



「それは君が、自分はこの豊かな時に値する存在ではないと思っているからだ」


 青年の手はもう一度だけ、僕を慰めた。

 それからそっと目線をくれて、言葉を紡いだ。


「現世の境を越えてなお、君は楽になれない。だって君がすっと深く息吸うには、君が自身に課す規律を解く必要がある」



 もっと努めてこそ許されると、いつの間にか背負った重石があることを知る必要がある。



 だから、それを解いておいで。

 そのためには、君は戻らねばならない。

 戻り、そして、動き出した時の中で、自分を許せるように変わるのだ。


「酸いも甘いも、あってこそ。苦楽というものも、あざなえる縄の如し。ただ茫洋とした安穏も、人にはおそらく毒であろう」


 青年は唄うように僕をぼどく。

 そうだ、だから、僕は待っていた。

 この止まった時を、終わらせる決断の時を。

 結局自分では、それを下せなかったけれど……そうか。


「だから、あなたは来てくださった」


 掠れた声で呟けば、青年は僕を慈しんで頷いた。


「怖かったね。現世を捨てる決意をすることも、もう一度、忙しない日々を始めることも。決めることは恐ろしく、本当は誰かに導いてほしいと願っていたね」


 でも、君もちゃんと分かっている。

 選択は、自ら行わねばならない。

 その責は、自ら負わねばならない。

 圧し潰されそうだった。

 それでも君は怯えながら、選択することを投げ出そうとはしなかった。


 だから、


「導けはしないながらも、背中を押しに来たんだ私は」



 さぁ、そろそろ月の光ばかりは飽いただろう。

 もう一度、日の光を見るのも悪くない頃だ。



「そしていつかの果てにまた会おう、私の大事な子。ほら、早く戻らねば、体を本調子に戻すのが大変だぞ」


 最後は茶目っ気に、青年は微笑んで僕を見送った。

 僕はきっと翌朝、白い病室に目覚める。

 半年共に過ごした屋上は、誰の気配もなく朝日を迎えるだろう。

 そして月だけが、変わらず満ち欠けるのだ。

 

 もう少しだけ待っていてあげるからと、穏やかに光降らせながら。

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月光浴 □□□ @koten-3

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