海を見上げる(初稿)

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海を見上げる

『いいでしょう、貴女を海に沈めてあげます』


 恋をした。

 だから。

 叶わぬ恋だったから。

 私を海に沈めてほしいと願った女に、海の魔女の末裔は笑って頷いた。


『ただし、一度この魔法にかかれば、貴女は二度と陸へは上がれない。そして、海を浮かび上がることもない』


 沈みの魔法はその命を重く鎖で包むように、海底に縛り付けるものだから。

 それでもいいかと確かめた末裔に、女は最後の寄る辺へ縋る声で構わないと返した。

 最早女の心は溺死寸前であったのだ。

 このまま恋が叶わなければ、早晩精神を擦り切らせて死に至るまでには逼迫していた。

 だから、どちらにしろだと女は決然と末裔に願った。



 どうか、私を海に沈めてください。

 あの方の所へ、連れて行って下さい。



 末裔は優しい笑みで女の背後を指さした。


『では、故郷に別れを。貴女は最早、この波打ち際より先。深い真の闇以外に、身を置けぬ身の上となるのだから』


 女は首を振った。


 別れなど言わない。

 あれを故郷と思ったことはない。

 生来私が抱いた恋心を否定し続け、海に身を投げようと求め続けた私を海から遠ざけたあれら。

 私の一等心から求めるものを理解してくれなかった人々など。



 私は、いらない。




『後悔はないと、そう受け取っても構いませんね?』


 末裔は優しいまま、女の海風になびく髪をなぞる。

 潮騒が、波打ち際の飛沫が。

 女を引き留め、陸へ生きることを願った故郷の人々の嘆きのように騒ぐ。

 けれど、それらに女の断定が打ち消されることは終ぞなかった。


 くどい話だわ。

 さぁ、お願い。

 あれらが私を見つける前に、どうか、



 私を海に沈めてちょうだい。




 闇夜だった。

 月灯りはなく、大海の魔とも言われる魔女の力は新月の加護の元、最高潮に高まる。

 海の底砂を這いずり回る魔女たちの歌が、遠く深海から届く。

 末裔はそれらを依り代に、魔法を紡いだ。


『では、貴女に永年の縛りを。魂を水底へ引きずりこむ、重科の鎖を』


 許されざる呪歌が、女の無垢な魂を侵す。

 ただ一途、一つの恋を抱き続けた精神に、とぐろ巻くように染み渡っていく。

 女の体が魔女たちの歌に誘われるように、波打ち際へ寄せていく。

 一歩一歩。

 体がひどい荷重を抱えていくのを感じながら、女は海へと足をつける。


 ああやっと、と思う。

 やっとあの存在の元へ行ける。

 ずっと、好きだった。

 好きだった、誰に理解されなくても。

 好きだった、だから。

 会いに行く、あなたに、


 あいにいきたい。





 目覚めれば、そこは底。

 遥か頭上に揺らぐは、きっと水面の船の灯り。

 どうしてと思った。

 深海に光なんて届かないことは、百も承知であったのに。


『おまけですよ。貴女の恋心に感銘を受けた、私の祝福です』


 延々と続くと思われるような周囲の闇から溶け出でたように、末裔は現れた。

 なぜいるのかと目で問えば、肩をすくめてほくそ笑む。

 そのもの欲しそうな様子に、ああ、代金が必要なのかと思えば、


『そのような野暮は申しませんよ』


と、末裔は女の思考を読んだように目を細めた。

 そしてすうと、ほっそりとした指で頭上を示し、恍惚と言ったのだ。


『ほうら、貴女の愛がすぐそこに』


 見上げた。

 女は全身を焦がす熱情に煽られ、がむしゃらに海を見上げた。

 雄大な影が泳いでいた。

 光ないはずの水底に、女は魔女の祝福によって愛しい存在を視認する。

 巨鯨であった。

 白亜の肌を悠然とくねらせ大海を行く、幻のような鯨だった。

 月などないのに。

 ここは深海、光りすら食われる世界なのに。

 鯨はまるでその身の内から仄かに発光するように、優美な光に包まれ海流を行く。


 ああ、ああ、


 ――ああ!!


 万感が女の喉を迸り、あぶくになって海に登る。

 ずっと、ずっと。

 恋い慕った存在が、かつてなく近いところにいる。

 女はたまらず手を伸ばす。

 幼いみぎりに目の当たりにしてより、決して忘れられなかった恋に手を伸ばす。


 けれどその手は白鯨には届かない。


 海に沈むことを願った女は、海に浮遊し泳ぎ去る相手に、触れることは叶わない。

 ただ、しかし生涯に一度だけ。


『あの白鯨が生を全うし、抜け殻の体が海砂に朽ちゆくその時だけ。貴女はきっと、触れ合うこと叶うだろう』


 耳元で末裔が囁く。

 それは魔性の哄笑。

 末裔は闇纏うような外套を脱ぎ去り、女を抱きしめた。


『ああよかった。よかったですね。これで貴女はもう誰にも邪魔されることなく、その恋を見つめ続けられる。決して触れること叶わずとも、交じり合うこと叶わずとも。貴女はただ一途にその恋を燃やしておられればいい』


 そして末裔はそんな女を、この海の底でずぅっと囲い続けるのだ。

 遠い水底からでも目を奪われるほど美しい恋の瞳を持つ女を。

 その魂を手の内にするため、ずっとこの時を待っていたのだ。


 こうして、魔女の末裔であった異端の子――海の魔人は、この世で最も愛しい女を手に入れた。

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