星は流れて

 カラン……カラン、コロン

 カラカラカラ、コロコロ……カラン……


 骨と骨がぶつかり合って鳴いているような、高く軽やかな音が、眠っていた右京大夫を目覚めさせた。びょうびょうと、嵐のような風の唸り声も聞こえてくる。


 今夜は風が強く、たびたび目が覚めていた。


 雪が高く積もり、淡海おうみ(琵琶湖)からの風が吹きつける比叡山の寒さは、都の比ではない。右京大夫は冷えた手足をさすると、衣を頭からかぶり直して、ふたたび微睡まどろみはじめた。


 カラカラ、カラン……コロン……


 野ざらしの人骨が、音をたてながら河原を転がっていく。人目に晒され、風雨に晒されたしゃれこうべが、カタカタと顎を鳴らしていた。


(あれは、あの首は……。知っている、わたしはあの方たちを知っている!)


 河原だけではなく、まっ赤に染まった川からも、いくつものしゃれこうべが穴だけになった空っぽの目でこちらを見ていた。


 右京大夫は足もとから這いあがってきた恐怖に背中を震わせ、息を呑んだ。


(ここは、六条河原──!)


 大きく目を見ひらくのと同時に、びくりと身体を弾ませて悪夢から目覚めた。


 まだ暗い室内を、仰向けのままぐるりと見渡す。外からは、相変わらずカランコロンと楽器のような音が聞こえていた。


 耳を澄ますうちに、その正体が風に煽られてぶつかり合う竹林の音だと気づいた右京大夫は、ほっと肩の力を抜いた。


「いやな音……」


 神経が昂っているのか、あらためて目を閉じても眠気はとうに去っていた。


(夢のせいだわ。あんな夢を見てしまったから。──ひどい夢だった)


 処刑場に並ぶ、しゃれこうべ。水に浮かぶ、しゃれこうべ。


 骨だけになっていても、右京大夫にはあれが平家の武将たちだとわかった。そのなかに、恋人だった資盛の首があったことも。


(……女院にお会いしてから、いやな夢ばかり見ている)


 悪夢から逃げるように身体を丸めて、目蓋をきつく閉じる。


 山向こうの大原に住まうかつての主人あるじ、建礼門院徳子も、この小夜嵐さよあらしに眠れぬ夜を過ごしているのだろうか──。


 ふと、右京大夫は徳子のもとを訪れた秋を思い出し、重いため息をついた。


(あれほどまでに、光り輝いておいでだった御方が……あのような……)


 ぎゅっと閉じた暗い眼裏に、侘しい山奥の光景がよみがえる。


 いま、徳子は都から遠く離れた寂光院という古い尼寺で、そっと隠れるように暮らしていた。


 ともに出家した数人の女房がいるだけの、閑寂な生活。チィチィという鳥の鳴き声と、枝葉えだはの揺れる乾いた音だけがくりかえされ、まるで時が止まっているかのようだった。


 言葉らしい言葉を発することもなく、それでも徳子はごく穏やかな表情を見せていた。けれど、その目は底の知れないくらい穴をのぞきこんでいるように虚ろで、右京大夫は腹の底がしんと冷えたことを覚えている。


(──女院はいまでも、生きながらに地獄をご覧になっておられる)


 右京大夫は、亡くなった恋人の話を聞くことができるのではないかと、わずかでも期待していた自分を恥じた。そして同時に、徳子に対して失望にも似た怒りが胸にひろがっていくことに狼狽した。


 右京大夫にとって、帝の中宮だった徳子に仕えていた数年間は、これまで生きてきたなかでも、もっとも華やかできらびやかな、決して忘れることのできない時間だった。


 栄華を誇る平家の公達との軽妙なやりとりも、そのなかで芽ばえた生涯の恋も、まるで自分が物語の登場人物になったかのようだった。


 それだけに、あまりの徳子の変わりようは、右京大夫が宝物のように慈しんできた思い出までもが輝きを失い、不躾に墨で塗りつぶされたような不快感を覚えた。


 あれほどまでに焦がれた資盛との恋でさえ、色褪せて乾いた反故紙のように味気なく思えてくる。


 大原を訪れて以来、右京大夫は宮仕えの日々を思い出すたびに虚しく、惨めな気持ちになることに耐えられず、記憶に蓋をするようになっていた。


(都にいると、どうしても思い出してしまうから坂本まで来たのに……。だめね、なにも忘れられないし、いっそうつらいだけだわ)


 何度目かのため息とともに、寝返りを打つ。気がつけば、不吉な音はいつしか聞こえなくなっていた。


 風が凪いだことを確認してから、右京大夫はそろりと外へ出た。


 吐く息は白く流れ、肌にふれる空気は刺すように冷たい。月のない夜空は、濃く磨りおろした墨のように深く艶やかで、塵ひとつなかった。 


 凛とした静寂に、身の引き締まる心地がする。


 比叡山に沿って横たわる淡海へ目を向けると、満天の星を映して光り輝く湖面が、夜空を淡く浅葱色に照らしていた。空は中天に向かって縹色はなだいろへと色を濃くし、ささやきあう星たちをそのふところに抱きしめている。


 風の名残がそよと流れると、積もった雪が金箔を散らしたかのようにきらめきながら舞い上がった。空も、うみも、目に映るすべてが光の乱舞に彩られるなかで、右京大夫は涙を流して立ち尽くした。


(世界は、こんなにも美しい──!)


 星明りがしんしんと、暗く沈んでいた右京大夫の胸に明るく射しこでゆく。


 どれほど黒く厚い雲に覆われようとも、どれほど荒れ狂う風に翻弄されようとも、だれにも彼らが内包する美しさを奪うことはできない。そのことに、右京大夫は胸を衝かれる思いがした。


(そう、わたしの心にあるものは、わたしだけのもの。だれにも干渉することなどできない──あの宮仕えの日々は、たしかに輝いていた。いまでも、そうよ)


 色を失っていた思い出が、まぶしく息を吹きかえす。とりわけ大きく光を放っていた星が、それらを照らすように瞬いた。


「わたしは、あの方たちを忘れない。女院や、資盛どのと過ごした時間を、これからもくりかえし思い出すわ。わたしの中から、あの方たちが消えてしまわないように」


 右京大夫の声に応えるように、星がひとつ、夜空を流れた。


 あっと思うそばから、またひとつ。そして、またひとつ。縹色はなだいろの空に、すうっと筆をすべらせるように、いくつもの白く淡い線が滲んでは消えていく。


 そのなかでも、ひときわ長く尾を引いて、西へ、西へと流れる星に、右京大夫は目を奪われた。


「星が……よばい星が、あの人のもとへ走っていく」


 西国の海で眠る恋人のもとへ、われ先にと駆けていく星たち。


 できることならば、あの星にすがりついて恋しい人のもとへ飛んでゆきたい。冷たい水の底で眠る恋人を、この腕で、この胸であたためたい。


「そうして、あなたと溶けあったまま波間を漂うの。いつまでも──世界が終わるまで、ずっとよ」


 届かぬものとしりながら、右京大夫は夜空へと手を伸ばした。


「──お願い、よばい星。どうか資盛どのへ伝えて。これまでも、これからも、わたしはいつまでも、あなただけを想っていると」


 降りそそぐように流れる星に約束を託すと、右京大夫は両腕をひろげ、星空を抱きしめた。


◇ ◇ ◇


月をこそ ながめなれしか 星の夜の

深きあはれを こよひ知りぬる


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